書簡集14の1 へブル人への手紙
はじめに
この手紙の受取人はへブル人です。へブル人とはユダヤ人のことです。へブル人、ユダヤ人、イスラエル人は、ほとんど同じ人たちです。これまでのパウロの書簡集の宛先と違って、へブル人は、決して異邦人ではありません。著者と同じユダヤ人です。捕囚によって各地に散らされていた、ユダヤ人かもしれません。いずれにしても、同じユダヤの地に生まれ育った著者と同じユダヤ人です。このユダヤ人は、もともとはユダヤ教を信じていました。回心して、キリスト者になった者たちです。キリストの福音を聞いてイエスこそ約束のメシアと信じたのです。ユダヤ教に対する優越性を知ったのです。当時のことです。これらのものに反対する勢力がいました。反キリストです。ユダヤ教徒たちです。彼らは硬軟両用の戦略をとります。激しい迫害を与えたり、偽教師を遣わしして、甘言で彼らの信仰を、もとのユダヤ教に戻そうとしたのです。未熟な聖徒たちは、それに乗せられ、古いユダヤ教の教えや、習わしに戻ろうとしたのです。キリストの新しい教えから離れようとしたのです。試練の中、信仰の成長は妨げられていました。いや、後退していたのです。この事態は、他の敬虔なキリスト者にとっては由々しきことです。著者は、ユダヤの聖徒たちが、イエス・キリストを信じる信仰を維持、成長させ、かつて彼らが信じていたユダヤ教の信仰に戻らないように、この警告の手紙を書いたのです。著者は心を込めて言います「あなたがたは、光に照らされた後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみを受けたものもあれば、、このような目にあった人々の仲間になったものもありました。あなたがたは捕らえられている人々の仲間になったものもありました。あなたがたは捕らえられた人々を思いやり、また、もっと優れた、いつまでも残る財産を知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみ心を行って、約束のものを手に入れるために必要なものは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない。私の義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、私たちの心は彼を喜ばない』。私たちは、恐れ退いて滅びるものではなく、信じて命を保つものです(10:32~39)」と。「このように、あなたがたの信仰は、今どんなに苦しくとも、報われる時があるから、忍耐をもって待ち望め」と、著者は信仰に揺るぎを感じている彼らを諭している。
この後、著者はイエスの他の神に対する卓越性を明らかにする。イエスは至高の存在である。これなくして信仰の後退下にあり、その至高性に疑いを抱く聖徒たちを、もとの信仰(イエスの教え)に回帰させることは出来ないのである。
この書簡の著者はだれか:この書は他のパウロの13の書簡と異なって、著者名は明記されていない。差出人不明の書簡である。その差出人から「ヘブル書」は「特定の状況下」に置かれたキリスト者のグループに宛てて書かれたものである、と知ることが出来る。11章には、旧約聖書の著名な登場人物(アベル、エノク、ノア、アブラハム、アブラハムの妻、ヤコブ、イサク、エサウ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル)に触れていることから、著者は、旧約聖書に精通したものであると考えられる。
この書の著者はパウロであるという説は有力ではあるが、その根拠は、内容的な一致である。しかし、必ずしも一致しているとは言えないのである。パウロの書簡の宛先は、あくまでも異邦人であって、「へブル書」の宛先とは異なるのである。へブル書の宛先は「信仰の後退したもの」、へブル人であって、異邦人ではない。仮にパウロであるとしたら「へブル書」の中に名前を明記するはずだからである。それがパウロの書簡の習慣だからである。へブル書だけが例外と言うのはおかしい。そこで、余計な憶測を排して、この書の著者は「不明」である、と考え「著者」と呼ぶことにする。しかしいずれの人物が著者であっても、神の聖霊を宿した人物が著者であることに疑いをはさむことは出来ない。彼は神の権威をもって私たちに語り掛けている(Ⅱテモテ3:16参照)。
律法の行いから神を信じる信仰へ:「誰でもキリストの中にあるなら、その人は、新しく作られた人です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)」。この言葉は「へブル書」のすべてを要約している。古いものとは、モーセの戒律に代表される「律法」である。新しいものとは人と神との契約である。古いものとは、一時的であり、限定的である。新しいものとは、無限であり、永遠である(7:22~25参照)。「律法から、神を信じる信仰へ」これはパウロの13の書簡を貫く基本的思想である。この思想を「へブル書」は引き継ぎ、さらに展開している。
キリストとは至高の存在である。このことをヘブライ人に理解させることが、この書の著者の最終的な目的である。へブル人たちはこのことを理解しなかった。いや理解できなかった。反キリストの偽の教えがこの真実の理解を妨げていた。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神の言葉の初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています(5:12)」と。著者はキリストの至高性を教え、この方に対する信仰の在り方を教える。
メルキゼデクとはどのようなお方か:メルキゼデクと言う人物は、きわめて聞きなれない人物名である。本書に出てくる(5:10,6:20,7:2,3,6)ほかは創世記(14:18~20)と詩編(110:4)に出てくるだけである。
メルキゼデクとはサレムの王で、優れて高い神の祭司であり、その名を訳すと義の王であり、次にサレムの王、すなわち平和の王である。父もなく母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神に似たものとされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。族長のアブラハムでさへ、戦利品の十分の一をメルキゼデクに捧げています。メルキゼデクは、霊的にアブラハムよりも上位にあることが示されています(7:1~3)。さらに詩篇110:4では「主は近い、御心を変えない。あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司です」と。あなたとはメシアを指し、この時代イエス・キリストは存在していないが、キリストを象徴している。
新約聖書では、イエスは大祭司であり、メルキゼデクの系統をひくものとみなされている。これまで大祭司の職務は、アロンを代表とするレビ族のものであり、神の幕屋には、彼ら以外の者は、近づくことも許されなかった。しかし、イエスは大祭司である。レビ族の系図にないものが、アブラハムから十分の一をとって、約束を受けた人(イエス・キリスト)を祝福したのである。イエスはレビ族以外のユダ族であり。本来なら大祭司になることの許されない部族の出身である。何故か。著者は言う「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら 民はそれを基礎として律法を与えられたのです それ以上何の必要があって、アロンの位でなくメルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか(7:11)」。前の戒めは、弱く無益のために廃止されましたが、 律法は何事も全うしなかったのです 他方で、さらに優れた希望が導き入れられました。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、命の力によって、祭司となったのです。神のご計画を前進させるものを、神はお選びになるのです。「神が新しい契約と言われた時には、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えていきます(8:13)」。著者は、古びてすぐに消えていくものに頼るなと、揺るぎのへブル人を諭す。
これまでの復習: この書の主題は、信仰に揺らぎを感じ、元のユダヤ教に回帰しようとしている者を、再びキリスト者に戻すには何をなすべきかを語ることにある。そのためには古い教え(ユダヤ教)に対して新しいキリストの教えは、すべてにおいて卓越していることを証明しなければならない。それが、キリストの教えに疑いを抱くへブル人を説得する唯一の方法なのある。そのためにこの書の著者が行ったことは
1、 イエス・キリストの卓越性(ユダヤ教が信じる、御使い=天使、モーセの律法、レビ的祭司にたいする)を、歴史的、神学的に証明し、
2、 試練の中で信仰の成長が妨げられている聖徒たちに警告を与え
3、 ユダヤ人キリスト者の信仰は保たれねばならないと、諭すことであった。
終わりの時に、神は御子によって語られた:「神はむかし父祖たちに、預言者たちを通じて、多くの部分(歴史書、儀式、詩文)に分け、いろいろの方法(夢、幻、啓示、奇蹟、時には直接的な語り掛け)で語られました。この終わりの時には、御子によって私たちに語られました。1、神は御子を万物の相続者とし、2、また御子によって世界を造られました。3、御子は神の栄光の輝き、4、また神の本質の完全な現れであり、5、その力あるみことばによって万物を保っておられます。6、また罪の清めを成し遂げて、7、すぐれて高いところの大能者の右の座に着かれました。御子は、み使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけみ使いよりもまさるものとなられました(1:1~4)」。
終わりの時に、神の啓示は完全なものとなった。キリストそのものが神の言葉であった。「はじめに言葉があった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった(ヨハネ:1:1)」。キリストそのものが神の自己啓示である。神は人となられ、人間の前に出現し、人間に神の本質を示し、神の言葉を語られた。キリストは神の真理のすべてを人間に啓示された。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱めをものともせずに十字架をしのび、神のみ座の右に着座されました(12:2)」。
言葉の意味
御 子:御子とはキリストのことである。終わりの時に神の啓示は完全なものになった。キリストそのものが神の言葉であった。「はじめに言葉があった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった(ヨハネの福音書1:1)キリストそのものが神の自己啓示である。神は人となられ、人間の前に出現し、人間に神の本質を示し、神の言葉を語られた。キリストは神の真理のすべてを啓示された。この方は王の王、主の主である。他の何物にも代えがたい偉大な神です。
神のみ使い:み使いは、霊的存在で、超自然的なことは出来るが、それらは、みな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために、これは私たちクリスチャンのことですが、遣わされたものに過ぎない。「御子」は、そのみ使いに拝まれる対象であって、御子とは、まったく比べ物にならない存在である。
はじめに
この手紙の受取人はへブル人です。へブル人とはユダヤ人のことです。へブル人、ユダヤ人、イスラエル人は、ほとんど同じ人たちです。これまでのパウロの書簡集の宛先と違って、へブル人は、決して異邦人ではありません。著者と同じユダヤ人です。捕囚によって各地に散らされていた、ユダヤ人かもしれません。いずれにしても、同じユダヤの地に生まれ育った著者と同じユダヤ人です。このユダヤ人は、もともとはユダヤ教を信じていました。回心して、キリスト者になった者たちです。キリストの福音を聞いてイエスこそ約束のメシアと信じたのです。ユダヤ教に対する優越性を知ったのです。当時のことです。これらのものに反対する勢力がいました。反キリストです。ユダヤ教徒たちです。彼らは硬軟両用の戦略をとります。激しい迫害を与えたり、偽教師を遣わしして、甘言で彼らの信仰を、もとのユダヤ教に戻そうとしたのです。未熟な聖徒たちは、それに乗せられ、古いユダヤ教の教えや、習わしに戻ろうとしたのです。キリストの新しい教えから離れようとしたのです。試練の中、信仰の成長は妨げられていました。いや、後退していたのです。この事態は、他の敬虔なキリスト者にとっては由々しきことです。著者は、ユダヤの聖徒たちが、イエス・キリストを信じる信仰を維持、成長させ、かつて彼らが信じていたユダヤ教の信仰に戻らないように、この警告の手紙を書いたのです。著者は心を込めて言います「あなたがたは、光に照らされた後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみを受けたものもあれば、、このような目にあった人々の仲間になったものもありました。あなたがたは捕らえられている人々の仲間になったものもありました。あなたがたは捕らえられた人々を思いやり、また、もっと優れた、いつまでも残る財産を知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみ心を行って、約束のものを手に入れるために必要なものは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない。私の義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、私たちの心は彼を喜ばない』。私たちは、恐れ退いて滅びるものではなく、信じて命を保つものです(10:32~39)」と。「このように、あなたがたの信仰は、今どんなに苦しくとも、報われる時があるから、忍耐をもって待ち望め」と、著者は信仰に揺るぎを感じている彼らを諭している。
この後、著者はイエスの他の神に対する卓越性を明らかにする。イエスは至高の存在である。これなくして信仰の後退下にあり、その至高性に疑いを抱く聖徒たちを、もとの信仰(イエスの教え)に回帰させることは出来ないのである。
この書簡の著者はだれか:この書は他のパウロの13の書簡と異なって、著者名は明記されていない。差出人不明の書簡である。その差出人から「ヘブル書」は「特定の状況下」に置かれたキリスト者のグループに宛てて書かれたものである、と知ることが出来る。11章には、旧約聖書の著名な登場人物(アベル、エノク、ノア、アブラハム、アブラハムの妻、ヤコブ、イサク、エサウ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル)に触れていることから、著者は、旧約聖書に精通したものであると考えられる。
この書の著者はパウロであるという説は有力ではあるが、その根拠は、内容的な一致である。しかし、必ずしも一致しているとは言えないのである。パウロの書簡の宛先は、あくまでも異邦人であって、「へブル書」の宛先とは異なるのである。へブル書の宛先は「信仰の後退したもの」、へブル人であって、異邦人ではない。仮にパウロであるとしたら「へブル書」の中に名前を明記するはずだからである。それがパウロの書簡の習慣だからである。へブル書だけが例外と言うのはおかしい。そこで、余計な憶測を排して、この書の著者は「不明」である、と考え「著者」と呼ぶことにする。しかしいずれの人物が著者であっても、神の聖霊を宿した人物が著者であることに疑いをはさむことは出来ない。彼は神の権威をもって私たちに語り掛けている(Ⅱテモテ3:16参照)。
律法の行いから神を信じる信仰へ:「誰でもキリストの中にあるなら、その人は、新しく作られた人です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)」。この言葉は「へブル書」のすべてを要約している。古いものとは、モーセの戒律に代表される「律法」である。新しいものとは人と神との契約である。古いものとは、一時的であり、限定的である。新しいものとは、無限であり、永遠である(7:22~25参照)。「律法から、神を信じる信仰へ」これはパウロの13の書簡を貫く基本的思想である。この思想を「へブル書」は引き継ぎ、さらに展開している。
キリストとは至高の存在である。このことをヘブライ人に理解させることが、この書の著者の最終的な目的である。へブル人たちはこのことを理解しなかった。いや理解できなかった。反キリストの偽の教えがこの真実の理解を妨げていた。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神の言葉の初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています(5:12)」と。著者はキリストの至高性を教え、この方に対する信仰の在り方を教える。
メルキゼデクとはどのようなお方か:メルキゼデクと言う人物は、きわめて聞きなれない人物名である。本書に出てくる(5:10,6:20,7:2,3,6)ほかは創世記(14:18~20)と詩編(110:4)に出てくるだけである。
メルキゼデクとはサレムの王で、優れて高い神の祭司であり、その名を訳すと義の王であり、次にサレムの王、すなわち平和の王である。父もなく母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神に似たものとされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。族長のアブラハムでさへ、戦利品の十分の一をメルキゼデクに捧げています。メルキゼデクは、霊的にアブラハムよりも上位にあることが示されています(7:1~3)。さらに詩篇110:4では「主は近い、御心を変えない。あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司です」と。あなたとはメシアを指し、この時代イエス・キリストは存在していないが、キリストを象徴している。
新約聖書では、イエスは大祭司であり、メルキゼデクの系統をひくものとみなされている。これまで大祭司の職務は、アロンを代表とするレビ族のものであり、神の幕屋には、彼ら以外の者は、近づくことも許されなかった。しかし、イエスは大祭司である。レビ族の系図にないものが、アブラハムから十分の一をとって、約束を受けた人(イエス・キリスト)を祝福したのである。イエスはレビ族以外のユダ族であり。本来なら大祭司になることの許されない部族の出身である。何故か。著者は言う「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら 民はそれを基礎として律法を与えられたのです それ以上何の必要があって、アロンの位でなくメルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか(7:11)」。前の戒めは、弱く無益のために廃止されましたが、 律法は何事も全うしなかったのです 他方で、さらに優れた希望が導き入れられました。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、命の力によって、祭司となったのです。神のご計画を前進させるものを、神はお選びになるのです。「神が新しい契約と言われた時には、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えていきます(8:13)」。著者は、古びてすぐに消えていくものに頼るなと、揺るぎのへブル人を諭す。
これまでの復習: この書の主題は、信仰に揺らぎを感じ、元のユダヤ教に回帰しようとしている者を、再びキリスト者に戻すには何をなすべきかを語ることにある。そのためには古い教え(ユダヤ教)に対して新しいキリストの教えは、すべてにおいて卓越していることを証明しなければならない。それが、キリストの教えに疑いを抱くへブル人を説得する唯一の方法なのある。そのためにこの書の著者が行ったことは
1、 イエス・キリストの卓越性(ユダヤ教が信じる、御使い=天使、モーセの律法、レビ的祭司にたいする)を、歴史的、神学的に証明し、
2、 試練の中で信仰の成長が妨げられている聖徒たちに警告を与え
3、 ユダヤ人キリスト者の信仰は保たれねばならないと、諭すことであった。
終わりの時に、神は御子によって語られた:「神はむかし父祖たちに、預言者たちを通じて、多くの部分(歴史書、儀式、詩文)に分け、いろいろの方法(夢、幻、啓示、奇蹟、時には直接的な語り掛け)で語られました。この終わりの時には、御子によって私たちに語られました。1、神は御子を万物の相続者とし、2、また御子によって世界を造られました。3、御子は神の栄光の輝き、4、また神の本質の完全な現れであり、5、その力あるみことばによって万物を保っておられます。6、また罪の清めを成し遂げて、7、すぐれて高いところの大能者の右の座に着かれました。御子は、み使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけみ使いよりもまさるものとなられました(1:1~4)」。
終わりの時に、神の啓示は完全なものとなった。キリストそのものが神の言葉であった。「はじめに言葉があった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった(ヨハネ:1:1)」。キリストそのものが神の自己啓示である。神は人となられ、人間の前に出現し、人間に神の本質を示し、神の言葉を語られた。キリストは神の真理のすべてを人間に啓示された。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱めをものともせずに十字架をしのび、神のみ座の右に着座されました(12:2)」。
言葉の意味
御 子:御子とはキリストのことである。終わりの時に神の啓示は完全なものになった。キリストそのものが神の言葉であった。「はじめに言葉があった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった(ヨハネの福音書1:1)キリストそのものが神の自己啓示である。神は人となられ、人間の前に出現し、人間に神の本質を示し、神の言葉を語られた。キリストは神の真理のすべてを啓示された。この方は王の王、主の主である。他の何物にも代えがたい偉大な神です。
神のみ使い:み使いは、霊的存在で、超自然的なことは出来るが、それらは、みな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために、これは私たちクリスチャンのことですが、遣わされたものに過ぎない。「御子」は、そのみ使いに拝まれる対象であって、御子とは、まったく比べ物にならない存在である。
令和2年3月10日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会
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