この作品は、私(アレクセイ・イワーノヴィチ)の手記という形を取っており、南ドイツの架空の都市グーテンブルグの賭博場で、ルーレット賭博にはまり込み、抜けられなくなり、破滅と再生を繰り返していく人間の深層心理を鋭く描き出し、理屈では考えることの出来ない、人間の性(さが)の悲しさ、儚さが描かれていく。更に美しき女性ポリーナ・アレクサンドロヴナと私との、激しいが実り無き恋も同時に進行していく。ドストエフスキー自身の実体験をもとに描かれた異色の作品である。
この作品はドストエフスキーの他の作品と異なって極めて読みやすい。難解な哲学的思考を必要としないし、謎に満ちているわけでもない。勿論私を愛していながらも、他の男性のもとに走る、ポリーナの複雑で、屈折した感情と言う謎の部分も無いわけではないが、それを除けば極めて判りやすい作品である。
初めての賭博で大儲けし賭博にはまり込み、モスクワから持参したお金を全て使い果たし、更に債券、株券の類も、全て換金し、その全てを使い果たし、帰りの交通費すら借りて故郷モスクワに帰っていくお金持ちのおばあさん、そのおばーさんの遺産を狙うポリーナの養父=将軍、ポリーナを巡る私を含めた3人の男性(イギリス人のミスター・アストリー、フランス人のデ・グリュー)の恋の軋轢、等々喜劇的要素も含んだ楽しい作品である。この作品は、ポリーナを巡る男達の恋の駆け引きを縦糸に、賭博場における人々の行動とそれによって人生が左右されていく人々の姿を横糸ににして展開される。
私=アレクセイ・イワーノヴィッチはポリーナを深く愛している。命を捧げても惜しくないとまで思っている。ポリーナは私が家庭教師をしている将軍家の養女である。彼女はエゴイスチックで、誇り高い、傲慢な女性である。私の気持ちをよく知っていて、あたかも奴隷のように扱う。昔、ローマの女王クレオパトラが奴隷の前で自らの裸身をさらけ出すことに何ら躊躇しなかったように、自分をさらけ出す。しかし大切なものは決して見せようとしない。奴隷には知る権利はないという。そこには私に対する侮辱があり、軽蔑がある。しかし私の博打の才能に期待し、『あなたは私にとって必要な人間だ』『私のために稼いでこい』という。私は彼女にお金をもたらす道具に過ぎない。私はそんな彼女を殺したいほど憎んでいながら、それをしたら自分を殺してしまうほど後悔するだろうと思う。愛憎半ばする気持ちを如何ともし難い。私は彼女をこよなく愛しているのである。彼女の奴隷であることに快感すら感じている。しかし何とか彼女をへこましてやろうとも思う。
ある日、彼女はまたまた奴隷に対するように私に対した。傍らにいた男爵夫人を侮辱しろと言う。彼女の私に対する戯れが始まったのである。私はその結果を恐れながらもそれに従う。『男爵夫人』『私はあなたの奴隷である光栄を有するものです』とフランス語で言う。これが問題にならないわけが無かった。後日、男爵は自分の妻に対する侮辱に対して将軍に抗議し、将軍は私を家庭教師の職を解いたのである。私は怒る『この問題はあくまでも男爵夫人と私の問題であって、私に抗議するならともかく、将軍に抗議するのは筋違いである。私は将軍家の家庭教師ではあっても身内ではない。将軍はこの事件には全く関係が無い。それは一個の独立した人間としての私の名誉を傷つけるものであり、侮辱である。もし男爵がその行為を謝罪するなら、私も夫人に対する侮辱を謝罪しよう。もしそれをしないのなら、男爵との決闘も辞さないであろう』と将軍に伝える。将軍は青くなる。そんなことをされたら、将軍の面目は丸つぶれであり、決闘などと言う野蛮な行為
を許したことに対する世間の非難を免れる事はできない。当時、決闘は私闘として法律的には禁じられていたのである。しかし昔からの風習としてしばしば破られていた。将軍は困り果て、ポリーナに助け舟を求めたのである。ポリーナは私に対する自分の命令に対する結果に対して、深く反省し、私に謝罪する。私は快哉を叫ぶ。女王が奴隷に謝罪したのである。私は決闘の要求を取り下げる。
私にとって賭博とは、胸をときめかせ、しびれさせ、感動を与えてくれるロマンであり喜びである。ある時は膨大な金をつかむと思えば、それを一瞬にして失う。これは賭博者で無ければわからない魔力である。だから私は賭博から抜け出る事が出来ない。堅実な実業家ミスター・アストリーは言う。『あなたは労働の大切さ、その対価としての金銭の大切さを知らない。そこには労働や金銭に対する軽蔑があり、侮辱がある。普通の労働者が汗水をたらし、知力と体力を使って何日もかけて稼いだのと同額の金を、5分で稼いでしまう。そんな人間に労働の尊さ、金銭の大切さを知る事は出来ない。そこには自らの生活、人生設計、社会的貢献、市民としての人間としての義務感は少しも無い。そこにあるのはゲーム感覚であり一瞬一瞬のときめきでしかない』と。確かにそうであろう。しかし5分で稼いだ金を5分で失うこともあるのだ。普通の労働者にはそんなことは無い。そこには堅実さと努力と忍耐しかない。あぶく銭の為に一喜一憂するロマンやスリルは無い。賭博者は大きな稼ぎがあると同時に大きく負けると言うリスクも背負っている。ハイリスクハイリターンの世界である。
私にとって賭博とはあくまでもゲームであり、遊びである。金は手段であって目的では無い。生活の手段としての金を稼ぐのは邪道であって賭博道に反する。真の賭博道とはあくまでも楽しみを目的とするものであり、一瞬のときめきやスリルやロマンを味合う紳士の遊びである。遊びである以上、そこには節度がある。しかし賭博道の遊びの精神を忘れて人生をかけてしまうのも、また賭博なのだ。そこには悲喜劇がある。それはあたかも神の姿で現れ、人に取付き、魅了し、破滅へと導く悪霊に似ている。だから、自分の借金を返す為に、「私のために金を稼いで来い」と言うポリーナの要求は賭博道に反しており、私にとっては苦痛である。また自分の事業を始める為の原資にする為に自分の体を売ってまで私を賭博に走らせるマドモアゼル・ヴランシェのような最低な女も勿論賭博道に反している。
一人のお金持ちのおばーさんがいる。(アントニーダ・ワシーリエヴナ・タラセーヴィチェバ)将軍の伯母さんである。死期が近ずいている。その遺産を将軍は狙っている。その伯母の死亡を知らせる電報を心待ちにしている。そのおばーさんがモスクワからわれわれの住んでいるグーテンブルグにやって来る。皆は驚く。そして賭博にはまり込む。最初の日に賭博で大儲けしたのが良くなかった。その魅力に取付かれ、モスクワから持参した現金の全てと、株券、債券の全てを換金し、ルーレット賭博につぎ込む。勝ったり負けたりしながら結局は全てを失う。その間、彼女の財産を狙う借金まみれの将軍と、その将軍に金を貸すフランス人デ・グリューはやきもきする。なんとかして賭博を止めさせようとする。しかし彼女はそんなまわりの思惑にはとんちゃくせず、賭け続ける。そして大負けする。しかし彼女はそんなことで気を落とさない。ケロットしている。『故郷には、村が3つと屋敷が2件ある。お金だってたくさんある。ここで失ったものなど私の財産に較べればささやかなもの』とうそぶく。ポリーナにモスクワに来て一緒に住もうという。そして帰りの交通費3000フランをミスター・アストリーから借りてモスクワに帰っていく。
フランス人デ・グリューはポリーナに手紙を渡し『将軍に全ての持ち金を融資したので
無一文になってしまったから、将軍から抵当に取った財産の全てを処分する』という。『将軍はポリーナの分まで手をつけていたので、その分5万フランに相当するものに関しては免除する』と言う。その意図は明白である。ポリーナの関心を買い、金で縛り、我ものにしようとするのである。それを聞いて私は怒る。彼女をその場にとどめ賭博場に出かける。そこで20万フランの大儲けをする。デ・グリューに5万フランをたたき返すには充分すぎる金である。それを持ち帰りポリーナに渡す。しかしポリーナは受け取りを拒否する。『デ・グリューの情婦にそれを受け取る資格は無い』という。自分のいない間に何が起こったかを私は知る。彼女は既に正気を失っていた。『5万フランで私を買え』という。「あなたは私を愛しているんでしょ、私のために男爵との決闘まで考えたんでしょ』と言い、私に抱きついてくる。私も正気を失っていた。彼女を抱きしめ一晩を過ごす。高嶺の花と諦めていた女が、今自分の隣に寝ている。それだけで私は満足であった。しかし、彼女は5万フランを私につき返し『私はデ・グリュー以上にあなたを愛していない』と言ってデ・グリューのもとに去っていく。ずーと後にミスターアストリーから『彼女が本当に愛していたのは私だったのだ』と聞く。傲慢で、エゴイスチックで虚栄心の強い、それでいてシャイの一面をもつ彼女には奴隷とみなす男に素直にはなれなかったのであろう。男が恋の勝利者になるには、デ・グリューのような強引さが必要なのである。
当時フランス人にとって、ロシア人など北方の熊であった。ロシア人がやっと野蛮人の域を脱し始めた頃にはフランスは華やかな文明を誇っていた。フランス人は洗練された立居振舞、物腰、教養、マナー、言語表現においてロシア人を圧倒していた。ロシアの貴族は、こぞってフランスに留学した。ロシアの上流社会においては、フランス語が公用語であり、ロシア語は自国の言葉でありながら、ドイツ語と並んで田舎っぺの言葉として軽蔑していた。19世紀のロシア文学を原書で接した人は気づかれているであろうが、その文章の中には随所にフランス語が散りばめられている。ロシア人にとってフランスは理想的な文明国であり、憧れの的であった。特にロシアの女性にはそれが激しかった。ポリーナもそんな女性の一人であった。その内容はともかくとして、洗練された美男子=フランスの貴族(侯爵)デ・グリューは、それだけで虚栄心の強い彼女を虜にするに十分であった。それに反して私は定職を持たない浮き草家業の賭博者に過ぎない。彼女を高嶺の花と考えるのは当然だったのである。
一般的にこの作品は破滅の文学と言われている。果たしてそうであろうか?後年私=アレクセイ・イワーノビッチは借金までして賭博に手を出し、大負けし、それを返済できず、その債務の為、グーテンブルグの刑務所に服役した事がある。誰か(ポリーナかミスターアストリーか)がその債務を弁済してくれた為、刑務所から開放されたが、貴族の召使まで身を落としたのである。そんな私をミスター・でグリューは滅びた人間と酷評している。果たして私は滅びた人間なのであろうか?再生することは出来ないのであろうか?
私はその生活力、勇気、駆け引き、知恵、才能、等々をルーレット賭博に注いできた。もしもそれらを人材を必要としている社会の為に利用すれば社会的に貢献する事が出来るのである。その切り替えこそが必要なのである。この時私は普通の社会人として再生する事が出来るのである。『そう!生涯にせめて一度なりと、打算的で、忍耐強くなりさえすれば、それでもう全てなのだ。せめて一度なりとも根性を貫き通しさえすれば、一時間で全ての運命を変える事が出来る!大切なのは根性だ』『明日こそ明日こそ全てのケリがつくであろう』。これは社会的貢献へと目覚めた私自身の言葉であり、一瞬一瞬のロマンに命を賭けて来た私だからこそ言える言葉であり、堅実な生活へと再生していく為の私の決意なのである。1グルテンの金で大儲けした私は、その金を元手にして打算的で忍耐強く、根性を持って一般社会で生活する事が可能となったのである。この作品を破滅の文学と考えるのではなく、希望の、再生の文学と考えるのは誤っているだろうか?
ドストエフスキーは実体験としてアポリナーヤ(ポリーナのモデル)との苦しい、破滅的な不倫の恋に悩み、その苦しみを癒す為にルーレット賭博にはまり込み、借金まみれになるのであるが、この作品を書くに当たって、期限に追われ口述筆記に追い込まれ、わずか27日間でこの作品を仕上げている。この口述筆記を担当したのがアンナ・グリゴエーヴナ・スニートキナであり、後に彼女と再婚する。彼女はドストエフスキーの最良の伴侶となり、片腕となって彼の生活を安定させ、晩年の傑作を生み出す影の力になったのである。ドストエフスキーは見事に再生したのである。
私が再生できないわけが無い。
ドストエフスキー作『賭博者』原卓也訳 新潮文庫
この作品はドストエフスキーの他の作品と異なって極めて読みやすい。難解な哲学的思考を必要としないし、謎に満ちているわけでもない。勿論私を愛していながらも、他の男性のもとに走る、ポリーナの複雑で、屈折した感情と言う謎の部分も無いわけではないが、それを除けば極めて判りやすい作品である。
初めての賭博で大儲けし賭博にはまり込み、モスクワから持参したお金を全て使い果たし、更に債券、株券の類も、全て換金し、その全てを使い果たし、帰りの交通費すら借りて故郷モスクワに帰っていくお金持ちのおばあさん、そのおばーさんの遺産を狙うポリーナの養父=将軍、ポリーナを巡る私を含めた3人の男性(イギリス人のミスター・アストリー、フランス人のデ・グリュー)の恋の軋轢、等々喜劇的要素も含んだ楽しい作品である。この作品は、ポリーナを巡る男達の恋の駆け引きを縦糸に、賭博場における人々の行動とそれによって人生が左右されていく人々の姿を横糸ににして展開される。
私=アレクセイ・イワーノヴィッチはポリーナを深く愛している。命を捧げても惜しくないとまで思っている。ポリーナは私が家庭教師をしている将軍家の養女である。彼女はエゴイスチックで、誇り高い、傲慢な女性である。私の気持ちをよく知っていて、あたかも奴隷のように扱う。昔、ローマの女王クレオパトラが奴隷の前で自らの裸身をさらけ出すことに何ら躊躇しなかったように、自分をさらけ出す。しかし大切なものは決して見せようとしない。奴隷には知る権利はないという。そこには私に対する侮辱があり、軽蔑がある。しかし私の博打の才能に期待し、『あなたは私にとって必要な人間だ』『私のために稼いでこい』という。私は彼女にお金をもたらす道具に過ぎない。私はそんな彼女を殺したいほど憎んでいながら、それをしたら自分を殺してしまうほど後悔するだろうと思う。愛憎半ばする気持ちを如何ともし難い。私は彼女をこよなく愛しているのである。彼女の奴隷であることに快感すら感じている。しかし何とか彼女をへこましてやろうとも思う。
ある日、彼女はまたまた奴隷に対するように私に対した。傍らにいた男爵夫人を侮辱しろと言う。彼女の私に対する戯れが始まったのである。私はその結果を恐れながらもそれに従う。『男爵夫人』『私はあなたの奴隷である光栄を有するものです』とフランス語で言う。これが問題にならないわけが無かった。後日、男爵は自分の妻に対する侮辱に対して将軍に抗議し、将軍は私を家庭教師の職を解いたのである。私は怒る『この問題はあくまでも男爵夫人と私の問題であって、私に抗議するならともかく、将軍に抗議するのは筋違いである。私は将軍家の家庭教師ではあっても身内ではない。将軍はこの事件には全く関係が無い。それは一個の独立した人間としての私の名誉を傷つけるものであり、侮辱である。もし男爵がその行為を謝罪するなら、私も夫人に対する侮辱を謝罪しよう。もしそれをしないのなら、男爵との決闘も辞さないであろう』と将軍に伝える。将軍は青くなる。そんなことをされたら、将軍の面目は丸つぶれであり、決闘などと言う野蛮な行為
を許したことに対する世間の非難を免れる事はできない。当時、決闘は私闘として法律的には禁じられていたのである。しかし昔からの風習としてしばしば破られていた。将軍は困り果て、ポリーナに助け舟を求めたのである。ポリーナは私に対する自分の命令に対する結果に対して、深く反省し、私に謝罪する。私は快哉を叫ぶ。女王が奴隷に謝罪したのである。私は決闘の要求を取り下げる。
私にとって賭博とは、胸をときめかせ、しびれさせ、感動を与えてくれるロマンであり喜びである。ある時は膨大な金をつかむと思えば、それを一瞬にして失う。これは賭博者で無ければわからない魔力である。だから私は賭博から抜け出る事が出来ない。堅実な実業家ミスター・アストリーは言う。『あなたは労働の大切さ、その対価としての金銭の大切さを知らない。そこには労働や金銭に対する軽蔑があり、侮辱がある。普通の労働者が汗水をたらし、知力と体力を使って何日もかけて稼いだのと同額の金を、5分で稼いでしまう。そんな人間に労働の尊さ、金銭の大切さを知る事は出来ない。そこには自らの生活、人生設計、社会的貢献、市民としての人間としての義務感は少しも無い。そこにあるのはゲーム感覚であり一瞬一瞬のときめきでしかない』と。確かにそうであろう。しかし5分で稼いだ金を5分で失うこともあるのだ。普通の労働者にはそんなことは無い。そこには堅実さと努力と忍耐しかない。あぶく銭の為に一喜一憂するロマンやスリルは無い。賭博者は大きな稼ぎがあると同時に大きく負けると言うリスクも背負っている。ハイリスクハイリターンの世界である。
私にとって賭博とはあくまでもゲームであり、遊びである。金は手段であって目的では無い。生活の手段としての金を稼ぐのは邪道であって賭博道に反する。真の賭博道とはあくまでも楽しみを目的とするものであり、一瞬のときめきやスリルやロマンを味合う紳士の遊びである。遊びである以上、そこには節度がある。しかし賭博道の遊びの精神を忘れて人生をかけてしまうのも、また賭博なのだ。そこには悲喜劇がある。それはあたかも神の姿で現れ、人に取付き、魅了し、破滅へと導く悪霊に似ている。だから、自分の借金を返す為に、「私のために金を稼いで来い」と言うポリーナの要求は賭博道に反しており、私にとっては苦痛である。また自分の事業を始める為の原資にする為に自分の体を売ってまで私を賭博に走らせるマドモアゼル・ヴランシェのような最低な女も勿論賭博道に反している。
一人のお金持ちのおばーさんがいる。(アントニーダ・ワシーリエヴナ・タラセーヴィチェバ)将軍の伯母さんである。死期が近ずいている。その遺産を将軍は狙っている。その伯母の死亡を知らせる電報を心待ちにしている。そのおばーさんがモスクワからわれわれの住んでいるグーテンブルグにやって来る。皆は驚く。そして賭博にはまり込む。最初の日に賭博で大儲けしたのが良くなかった。その魅力に取付かれ、モスクワから持参した現金の全てと、株券、債券の全てを換金し、ルーレット賭博につぎ込む。勝ったり負けたりしながら結局は全てを失う。その間、彼女の財産を狙う借金まみれの将軍と、その将軍に金を貸すフランス人デ・グリューはやきもきする。なんとかして賭博を止めさせようとする。しかし彼女はそんなまわりの思惑にはとんちゃくせず、賭け続ける。そして大負けする。しかし彼女はそんなことで気を落とさない。ケロットしている。『故郷には、村が3つと屋敷が2件ある。お金だってたくさんある。ここで失ったものなど私の財産に較べればささやかなもの』とうそぶく。ポリーナにモスクワに来て一緒に住もうという。そして帰りの交通費3000フランをミスター・アストリーから借りてモスクワに帰っていく。
フランス人デ・グリューはポリーナに手紙を渡し『将軍に全ての持ち金を融資したので
無一文になってしまったから、将軍から抵当に取った財産の全てを処分する』という。『将軍はポリーナの分まで手をつけていたので、その分5万フランに相当するものに関しては免除する』と言う。その意図は明白である。ポリーナの関心を買い、金で縛り、我ものにしようとするのである。それを聞いて私は怒る。彼女をその場にとどめ賭博場に出かける。そこで20万フランの大儲けをする。デ・グリューに5万フランをたたき返すには充分すぎる金である。それを持ち帰りポリーナに渡す。しかしポリーナは受け取りを拒否する。『デ・グリューの情婦にそれを受け取る資格は無い』という。自分のいない間に何が起こったかを私は知る。彼女は既に正気を失っていた。『5万フランで私を買え』という。「あなたは私を愛しているんでしょ、私のために男爵との決闘まで考えたんでしょ』と言い、私に抱きついてくる。私も正気を失っていた。彼女を抱きしめ一晩を過ごす。高嶺の花と諦めていた女が、今自分の隣に寝ている。それだけで私は満足であった。しかし、彼女は5万フランを私につき返し『私はデ・グリュー以上にあなたを愛していない』と言ってデ・グリューのもとに去っていく。ずーと後にミスターアストリーから『彼女が本当に愛していたのは私だったのだ』と聞く。傲慢で、エゴイスチックで虚栄心の強い、それでいてシャイの一面をもつ彼女には奴隷とみなす男に素直にはなれなかったのであろう。男が恋の勝利者になるには、デ・グリューのような強引さが必要なのである。
当時フランス人にとって、ロシア人など北方の熊であった。ロシア人がやっと野蛮人の域を脱し始めた頃にはフランスは華やかな文明を誇っていた。フランス人は洗練された立居振舞、物腰、教養、マナー、言語表現においてロシア人を圧倒していた。ロシアの貴族は、こぞってフランスに留学した。ロシアの上流社会においては、フランス語が公用語であり、ロシア語は自国の言葉でありながら、ドイツ語と並んで田舎っぺの言葉として軽蔑していた。19世紀のロシア文学を原書で接した人は気づかれているであろうが、その文章の中には随所にフランス語が散りばめられている。ロシア人にとってフランスは理想的な文明国であり、憧れの的であった。特にロシアの女性にはそれが激しかった。ポリーナもそんな女性の一人であった。その内容はともかくとして、洗練された美男子=フランスの貴族(侯爵)デ・グリューは、それだけで虚栄心の強い彼女を虜にするに十分であった。それに反して私は定職を持たない浮き草家業の賭博者に過ぎない。彼女を高嶺の花と考えるのは当然だったのである。
一般的にこの作品は破滅の文学と言われている。果たしてそうであろうか?後年私=アレクセイ・イワーノビッチは借金までして賭博に手を出し、大負けし、それを返済できず、その債務の為、グーテンブルグの刑務所に服役した事がある。誰か(ポリーナかミスターアストリーか)がその債務を弁済してくれた為、刑務所から開放されたが、貴族の召使まで身を落としたのである。そんな私をミスター・でグリューは滅びた人間と酷評している。果たして私は滅びた人間なのであろうか?再生することは出来ないのであろうか?
私はその生活力、勇気、駆け引き、知恵、才能、等々をルーレット賭博に注いできた。もしもそれらを人材を必要としている社会の為に利用すれば社会的に貢献する事が出来るのである。その切り替えこそが必要なのである。この時私は普通の社会人として再生する事が出来るのである。『そう!生涯にせめて一度なりと、打算的で、忍耐強くなりさえすれば、それでもう全てなのだ。せめて一度なりとも根性を貫き通しさえすれば、一時間で全ての運命を変える事が出来る!大切なのは根性だ』『明日こそ明日こそ全てのケリがつくであろう』。これは社会的貢献へと目覚めた私自身の言葉であり、一瞬一瞬のロマンに命を賭けて来た私だからこそ言える言葉であり、堅実な生活へと再生していく為の私の決意なのである。1グルテンの金で大儲けした私は、その金を元手にして打算的で忍耐強く、根性を持って一般社会で生活する事が可能となったのである。この作品を破滅の文学と考えるのではなく、希望の、再生の文学と考えるのは誤っているだろうか?
ドストエフスキーは実体験としてアポリナーヤ(ポリーナのモデル)との苦しい、破滅的な不倫の恋に悩み、その苦しみを癒す為にルーレット賭博にはまり込み、借金まみれになるのであるが、この作品を書くに当たって、期限に追われ口述筆記に追い込まれ、わずか27日間でこの作品を仕上げている。この口述筆記を担当したのがアンナ・グリゴエーヴナ・スニートキナであり、後に彼女と再婚する。彼女はドストエフスキーの最良の伴侶となり、片腕となって彼の生活を安定させ、晩年の傑作を生み出す影の力になったのである。ドストエフスキーは見事に再生したのである。
私が再生できないわけが無い。
ドストエフスキー作『賭博者』原卓也訳 新潮文庫
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます