日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

山崎豊子作「仮装集団」音楽集団に潜む不気味なエネルギー

2012年08月25日 | Weblog
  山崎豊子作「仮装集団」

 僕が早稲田の露文科に入った年は、まさに60年第1次安保闘争の華やなりし時だった。大学自体騒然としていた。早稲田大学は以前から進歩的大学だと云われていた。しかし、僕自身は一人の文学青年であり、学究の徒に過ぎなかった。露文科は、その性格上、左翼の学生が多くいた。今は知らないが当時の露文科には、日本共産党(日共)、あるいは民青同盟(民青)に所属する学生が多くいた。勿論、反代々木派と云われ“トロッキスト”として、日共系の学生に敵対する過激な学生も何人かはいた。そのほか純粋にロシア文学を心ざす、非政治的な学生も、居ないわけではなかった。その中には、将来バレリーナになって身を立てたいとソ連(現在のロシア共和国連合)に留学を夢見る女子学生もいた。たった一人ではあったが、自衛隊員もいた。商社に入ってソ連との交流を深めたいと云う学生もいた。千差万別であった。今や、ソ連の存在は大きくなっており、政治、経済、文化、軍事面などで、無視できない存在になっていた。そんな事から露文科を目指す学生は多くいたのである。左翼学生ばかりではなかった。
 デモは日常的であった。大学へ行っているのだかデモに行っているのだか判らない日々が続いた。デモの参加者を巡って、代々木派(日共系)と反代々木(全学連)派の間で争奪戦が行われていた。僕らのような、どちらにも属さない、いわゆる中立派が狙われた。彼らは、安保の危険性を説き、これを通過させると、戦争にまき込まれると警鐘を鳴らした。その頃の僕は安保条約の存在ぐらいは知っていたが、内容までは知らず、いわゆる部外者であった。まず、彼らは我々をデモに誘った。初めてのデモには興奮した。知らない人たちと腕を組みシュプレヒコールを叫び、「インターナショナル」や「赤旗」や、「原爆許すまじ」などを歌った。隣には可愛い女性がいた。その女性と腕を組み、行進したときは心身ともに興奮した。そしてデモが終わる。これで終わりかと思ったら「お茶でも飲みませんか?」と幹事の女性から誘われた。誘われたのは僕だけでなく数人いた。お茶の席で、幹事の女性は安保の危険性をとうとうと述べ、何も知らず単なる野次馬に過ぎなかった我々に学習の必要性を説き、「学習会」があるといって、参加を促した。住所、氏名、電話番号まで聞かれ、後に連絡すると云う。学習会だけでなく、ハイキングや音楽会などにも誘った。これが彼らの手であった。このようにして彼らは我々の心の中まで踏み込んできた。まさに“歌って、踊って、はい、革命”である。地方からのポット出で、右も左も判らない朴訥な青年はこれに騙される。いつしか内部に取り込まれる。その雰囲気は暖かく、快適である。そこにはピンクムードがあった。その中に、好きな女性でも出来たら、もう、お終いである。彼女の指導のもと、立派な活動家に仕立て上げられていく。これが日本共産党の党勢拡大のやり方であった。
 これは一例である。大衆団体を日本共産党が自ら作ることもあるが、彼らはそんな面倒なことはしない。既成のダンスサークルや合唱サークル、学習サークルの中に密かに入り込み、密やかに工作し、分派活動を行い、反対するものを排除し、そのサークルを乗っ取り、指導者になって党の方針に沿った活動をする。そして彼らは言う「この団体は民主化された」と。このようにして、シンパを増やし、党員を増やし、党勢を拡大する。戦前・戦中・戦後間もなくの戦略=革命戦略から選挙戦略に変えた今、党勢の拡大は必至である。少数精鋭主義は大衆路線、大衆戦略へと変わる。
 この作品の主人公流郷正之は勤労者音楽同盟(勤音)という、良い音楽を安く聴く、音楽鑑賞団体を立ち上げ、その企画力により15万人の会員を擁する団体にまで発展させた。しかし純粋に音楽を楽しむこの団体に、いつしか魔の手(?)が伸びてくる。この音楽団体の中に人民党のフラクションが作られ、政治と思想が持ち込まれる。15万人にも上る会員を擁する音楽団体を人民党がほっておくわけがない。密かに入り込みこれを我が物とする。彼らに立てつく、勤音一の功労者・流郷は今や邪魔者になり、彼らの手によって葬り去られる。人民党は日本共産党がそのモデルである、と言われている。
 この作品の背景には中ソ対立がある。その対立は「部分的核停条約」の批准を巡って激化する。アメリカ、イギリス、ソ連等はこれを批准するが、フランス、中国等は「核所有国の核独占を測るものだ」と反発し批准を拒否する。これが中ソの対立を激化させる。日本共産党内部にもこの対立が反映されて、中国派とソ連派が激しく争い、中国派が勝利を収め、多くのソ連派の文化人及び、党員が除名される。この作品の時代背景は、この辺の時代にに限られている。
 日本共産党自身、その後の時代の潮流の変化に応じて変化しており、非妥協的な親中国路線とも、現代ソ連修正主義とも袂を分かち1960年代半ばには「自主独立路線」を確立している。

     部分的核実験禁止条約とは?
 1963年8月にアメリカ、イギリス、ソ連との間に調印された核兵器の一部実験の禁止する 条約である。地価を除く大気圏内、宇宙空間、および水中における核爆発を伴う実験の禁止を内容とする。

 この作品の時代背景は、1960年の第一次安保闘争から1963年の部分的核実験禁止条約の締結期頃までであり、勤労者音楽同盟と云う、純粋に音楽愛好者の団体が、背後に隠れた政治的フラクションの手によって翻弄され、乗っ取られていく姿が、勤音の、一人の名プランナー、この作品の主人公、流郷正之の姿を通して山崎豊子は描いていく。
 安保騒動の責任を取って岸内閣が倒れ、代って現れた池田内閣は所得倍増計画を打ち出し、高度経済成長が幕開けする。それまで食うや食わずで余暇活動には目を向ける余裕のなかった勤労者にも、余暇を見つめる余裕が出てきた。彼らは文化的な何かを求めていた。政府も民間も、この余暇に目を向けるようになる。この作品はそんな時代を背景にして描かれている。この作品で活躍する、勤労者が中心の「勤労者音楽同盟(勤音)」も、財界が支援する「自由音楽連盟(音連)」も、この勤労者の要求を満たすために立ち上げられたのである。両者は対立する。この作品では横軸に、勤音と音連の対立を、勤音内部の親ソ連派と、親中国派の対立を縦軸にして描いていく。ここに流郷正之と云う男が登場する。真に音楽を愛好し、政治や、思想を音楽団体の中に持ち込むことを嫌悪する。事務局長の瀬木三郎と共に、大阪勤音を築き発展させた男である。離婚経験のある、ニヒルで、投げやりで、何処かに煮え切らない芯を持っていた。進歩的な思想を持つが「反米、反ソ、反中」と云うリベラリストである。良いものは良いと云う考え方から、ソ連で世界的に有名なバイオリニスト・サベーリエフを呼ぶ時には、ソ連派と言われる会員で参議院議員のロシア語に堪能な、高倉五郎氏の協力を仰ぐ。サベーリエフを呼んでの例会は成功裏に終わる。音連を裏で采配する門林日東レーヨン社長は、流郷の企画力を評価し、音連に高い給料と好もしい待遇で、招聘するが、流郷は断る。勤音と音連の例会合戦は熾烈を極める。限られた音楽好きな大衆はその度に動く。会員の数は例会の度に増減する。定着しない。
 当時、共産圏では路線を巡って中ソが対立していた。その対立は人民党内、勤音内部にも反映する。人民党内では親中国派が勝利を収める。親ソ派の党員が除名され、シンパの文化人は排除される。勤音内でも親中国派の裏工作により、運営委員会の運営委員の選挙において親中国派が勝利を収める。例会の催しは、中国派に握られ流郷は浮き上がる。もう流郷は必要ない。査問委員会が開かれ、流郷の尾行によって得られた資料を盾に、流郷は勤音から追放される。そこには誰ひとり流郷をかばうものはいなかった。完全に中国派によって包囲されていた。大阪勤音の創設以来の友人であり、最良の理解者であり協力者であると信じていた瀬木三郎も、自己保身のために中国派に寝返り、流郷を裏切った。更に枕を共にし、愛もあったと思われる江藤斎子も平然と流郷を裏切り、何の感情も見せなかった。自分の愛情と党への忠誠を秤にかけ、流郷を裏切ることに決定した女の非情さに接して、流郷は怒りを感じる前に、党への忠誠のためには、愛をも犠牲にする、そんな規制の中でしか生きる事が出来ず、それを正義と思おうとする女の悲しさを感じて、流郷は憐れみを覚えたのである。
 流郷を切り、真に音楽愛好者の団体から、人民党の「仮装集団」に堕した勤音は果たしてどこに行くのであろうか。
 勤音上層部との間にギャップを感じた一般会員は果たしてついてくるであろうか?更に勤音が変身し、中国派に占められ、今後急進化するであろう勤音に対し、門林によって作られ発展した音連は、財界の主だった連中を表面に立て、急進化する勤音と対抗しようとする。
勤音の前途は多難である。

  登場人物

  勤労者音楽連盟関係
 流郷正之
 この作品の主人公。大阪勤労者音楽同盟(大阪勤労)の有能なプランナー。大阪勤労の発足に当たり事務局長の瀬木三郎の勧めに応じて職員となる。400名あまりの会員しか持たない、こじんまりした勤音をそのプランナーとしての企画力により数年後には15万人にのぼる会員を持つ巨大な組織にまで育てあげる。良い音楽を安い値段で聴く、勤労者のための音楽団体を目指す。そして、この音楽組織の中で自分の音楽的ビジョンの実現を図る。その考えは進歩的ではあるが、組織の中に思想や政治を持ち込むことには極端な嫌悪感を示す。自分は反中(中国)反ソ、反米であるとその立場を明らかにしている。純粋に音楽好きな人間である。芸術とは人間に対する賛歌であって、思想は右であれ左であれ関係は無いという。良いものは良いのである。
 しかし、彼の心はうつろである。勤労の組織の中で自分の野心を遂げつつあるときでも、どこか投げやりで情事に耽っているときでも、溺れることのない何時も何処かに燃え切らない芯があった。暗い過去を感じさせた。
 流郷は、大阪勤労の組織が大きくなるにつれて、密やかに組織の中に入り込み、政治的に画策し、一定の方向に会員を誘導していこうとする、人民党のフラクショの存在に気付き、警戒心を強める。勤音は人民党の「仮装集団」であってはならない、と思う。
 東京勤音から大阪勤音に密やかに、人民党のオルガナイザーとして派遣され、財政担当という重要なポストに就いた江藤斎子に流郷は特別な関心を抱き、その意図を探るために彼女の間に肉体関係を持つ。彼女も流郷を政治的に利用することを考え肉体関係を持続する。相身互いである。
 流郷は多くの例会を成功裏に収める。オペラ「蝶々夫人」、ソ連の荒野を切り拓き、国土を建設にまい進する労働を賛美する「森の歌」、個々人の力を結集した集団の力強さ、多くの人間が力を合わせれば、何でも出来るのだという信念。そこには共産主義建設という、将来に対する喜びと、明るさがあった。800人の大合唱、それは素晴らしい人間に対する賛歌であった。それは、会員の心に喜びと感動を与えた。拍手は鳴りやむことは無かった。例会は成功裏に終わる。
 クラシック音楽という硬派の例会を主にやって、ジャズはアメリカ帝国主義の産物だと考える一部の頭の固い連中を退けて、流郷は、勤音の例会に「ジャズフェスティバル」をぶつける。これも成功裏に終わる。さらに日本版「ロミオとジュリエット」を行う。貧しい家庭教師と生徒の我儘なお嬢様との恋、この恋は成就すると云う、シェークスピアが聞いたら泣いて悲しむような内容。更に中共派による「つくし座」の公演。「ハワイアン祭り」と続く。硬派と軟派を使い分ける例会が続く。いわゆる大衆路線が取り入れられたのである。それは人民党内部の変化にも呼応していた。
 世界的なバイオリニスト・ロシア人のサベーリエフを呼んでの例会が流郷の最後の例会となる。勤労の例会に、サベーリエフを招くにあたり、勤労の顧問、人民党の親派、親ソ派の知識人で参議院議員の高倉五郎氏の力を流郷は借りる。サベーリエフの招聘は成功し、多くの会員の参加が可能な体育館で行われた例会は成功裏に終わる。
 この頃、路線を巡っての中ソ対立が人民党内部にも影響を与え、中国派とソ連派が対立していた。そして、中国派が勝利を収める。勤音内部にもこの抗争は反映し、ここでも親中国派が勝利を収める。親ソ派の排除が始まる。サベーリエフの例会に成功した流郷は、レニングラード交響楽団、モスクワ合唱団、ボリショイバレエなどの招聘も視野に入れ内諾も取っていたが頓挫する。高倉五郎は辞任に追い込まれ、勤音の査問委員会でソ連派と見なされた流郷もつるし上げの末、勤音を追われる。
 勤音を追われた流郷は街頭に出る。この時、勤音は「「中国現代音楽の夕べ」を、音連は「ボストンフィルハーモニーの夕べ」を開催していた。多くの音楽ファンの姿がそこにあった。彼らはどちらかの例会に参加するための一般大衆であった。流郷はそんな音楽好きな大衆の中を突き抜け、無関心を装っていた。勤音はもはや純真に音楽を楽しむ集団ではなくなっていた。人民党の「仮装集団」になり下がっていた。流郷とそんな集団とは、もはや無関係であった。
 恐らく流郷の心のなかには虚しさと、悲しさがあったに違いない。勤音での自分の活躍は一体何だったのだろうか?と思ったであろう。しかし、現代のような政治と経済の矛盾に満ちた社会の中にあって、政治的中立を保ち、純粋に音楽を楽しむことが可能であろうか?しかし、それと人民党の意志とは無関係である。

  江藤斎子
 大阪勤音の財政部の責任者。
 東京勤音の事務局から大阪勤音の重要な部門である財政部の責任者として派遣される。個性的な美しさを持ち執務に関する事以外はほとんど口を利かず、人を寄せ付けない冷たさを漂わせている。その基本的姿勢は勤音活動を通じて会員諸氏の意識を高め、啓蒙指導することにあった。大所高所から物を見、政治的に会員を一定の方向に持っていこうとする意図が見え隠れしていた。そして「低俗な音楽を駆逐し、良い音楽を聴き、創造するための音楽活動と啓蒙活動を、われわれ勤音の行動力を持って示さねばならない」という。その考えは、ジャンルを問わず、純粋に音楽を楽しみたいと云う、音楽愛好家との間に一線を画するものがあった。そこには政治と音楽を同時に考える左翼的思想家に特有なものを持っていた。その考えの基本は音楽はあくまでも手段であって、目的は政治にあった。そんな彼女の姿勢に対し、その真意を探るため、流郷は、彼女との間に肉体関係をもった。彼女はそれを拒否すること無く受け入れる。彼女自身、流郷を政治的に利用することを考えていたが、そこに愛情が無かったわけではなかった。女性の性(さが)は愛情のない肉体関係は拒否するからである。
 江藤斎子が勤音のなかで密やかに行っていたこと、あるいは行おうとしていた事は、次の二つであった、その一つは、勤音の内部に人民党のフラクションを作り、分派活動によって、勤音を内部から改変することであり、第二は、経理上の操作によって例会の度に赤字を計上し、裏金を作り、人民党に裏献金する事であった。彼女はまさに人民党から派遣されたイデオログーだったのである。流郷はその事を知る。その裏切り行為に怒りをぶつける。
 この頃、社会主義圏では、中ソの対立が激化しており、それは「部分的核停」を巡って一層激しくなっていた。その対立は人民党内部に、そして勤音内部にも多大な影響を与え、人民党内部で親中派が勝利を収めた関係で勤音内部でも親中派が勝利を収めた。ロシアの世界的に有名なバイオリニスト・サベーリエフを招いて公演を行ったことがわざわいし、流郷はそれに協力した参議院議員の高倉五郎と共に、ソ連派と見なされ追放されることになる。その急先鋒に江藤斎子が立っていた。尾行によって知り得た情報を盾に取り、査問会議で、徹底的に追及し、流郷の追放を決定する。江藤斎子の中には流郷との間の肉体関係で培った情愛のひとかけらも感じられなかった。そこには自分の愛情を党への忠誠に置き換え、そういう規制のなかでしか自分の人生を生きていけない女の憐れな姿があった。彼女はもはや人民党の親中派のイデオログーであるにすぎなかった。

  大野泰三
 勤音の委員長。運営委員会の選挙で新中国派が勢力を占めた後、退陣する。親ソ連派の会員。後を、親中国派の畑中が継ぐ。

  瀬木三郎
 勤労の事務局長。長年労働運動の中で育った人間。流郷の企画に対しては好意的で協力を惜しまない。大阪勤音を立ち上げる際に流郷を誘い入れて、ともに勤労の発展に寄与する。流郷の最大の理解者で、二人で大衆団体としての勤労を守り、政治的陰謀と戦うことを誓い合う。自分は人民党の支持者ではあるが党員ではないと云う。人民党のフラクションの政治的陰謀と戦うためには流郷の協力が必要と考え、事務局次長の地位を与える。しかしインテリ会員の弱さゆえ、親中派と、親ソ派の派閥争いの末、親中派が勝利を収め、自分の地位が危険になるに及んで、流郷を裏切る。流郷は信じることは出来ない。査問委員会で、人民党のオルガナイザーとして派遣された江藤斎子と共に流郷攻撃の急先鋒に立つ。流郷を勤音から追放する。

  永山
 組織部部長。後に事務局次長。親中国派。

  尾本と云う男
 勤労の事務局で会計係として財務部長の江藤斎子の下で働く、貧相ではあるが目の鋭い男。
 実は、人民党のオルガナイザーとして、その立場を隠して勤音に入り込み、裏で、人民党のフラクションを作り、そのキャップを務める。
 運営委員会の運営委員の選挙で、裏工作の功が奏して、中国派の会員が多数を占めた段階で、表に出て、会計係から、永山に代わり、一躍、重要なポストである、組織部の部長に栄進する。永山は事務局次長となる。そこには企画部と事務局次長を兼ねる流郷追い落としの伏線があった。
 彼が表に出た段階で勤労の性格は一変する。

  菊村俊一
 勤音の会員。詳しくは後に述べる。

  高倉五郎
 全国勤労者音楽連盟(全国勤音)の顧問。
 人民党のシンパであり、親ソ連派と見なされている革新派の評論家である。学生時代から一貫して労働運動に身を投じ、世界平和会議の評議員、日ソ協会副会長、アジア・アフリカ文化会議の理事などを歴任している有名人。公正な立場で、外部から批判と助言を仰ぐために全国勤音に顧問として迎えられる。参議院議員全国区から無所属での出馬を決め、その支援団体が勤音に選挙協力を要請する。彼のような音楽理解者が、議員になることの利益は勤音にとって計り知れないものがあると、勤音は内部の「音楽活動と選挙は別もの」と云う反対を押し切って支援に踏み切る。支援活動は着々と進む。しかし、突然、人民党の中央選対から高倉支援打ち切りの指令が届く。その理由は高倉の人気が必要以上に上がり過ぎ、関西地盤の人民党の候補者・加賀正の票を食う恐れが出てきたからで、このままでは加賀は落選すると云う危機意識がそこにあった。加賀は人民党の公認候補、一方、高倉は人民党のシンパであるとはいえ無所属である。人民党がどちらに比重を置くかは明らかである。ポスターや宣伝ビラは撤去され、高倉は独力で戦わなければならなかった。開票の日、投票結果はなかなか出なかったが、高倉は当選し、加賀は開票の終盤近くにやっと当選を決める。高倉は人民党の支援を打ち切られたにもかかわらず加賀を抜いて当選したのである。高倉は一般大衆の支持が多くあったことに自信を持つ。
 流郷は、この時、勤音の例会にソ連の世界的に有名なバイオリニスト・サベーリエフの招聘を企てていた。高倉はロシア語に堪能で、その交渉に当たっては言葉の障害を乗り越えて事を成就することが可能であった。幾多の困難はあったが招聘は成功し、例会も大盛会のうちに終了する。高倉と、流郷は互いに喜び合う。
 高倉は参議院議員の当選後、各地を遊説する。支持打ち切りの不満もあってか、日頃の人民党に対する鬱憤を披露して、人民党を刺激する。この頃中ソの対立が激化しているときでもあり、特に「部分核停条約」を巡っての争いは激しさを極めていた。中国はこれに反対していた。運営委員会の選挙の結果、勤音の運営委員は親中派で占められる。高倉は人民党が親中派勢力派で占められ、核停条約に反対の意を表明しているにもかかわらず、自身はソ連派らしく条約に賛意を表明する。それは人民党にしては党を裏切る行為であった。彼は無所属であり、選挙協力も打ち切られている。人民党の意向に沿う必要はないのである。しかし、彼の処遇を巡って、勤労内部では議論が百出する。その結果、高倉は勤音の顧問を解任される。
 勤労は次第に政治集団へと変身し、人民党の「仮装集団」になり下がっていった。

  自由音楽連盟関係
 門林(もんばやし)雷太
 日東レイヨン社長。関西財界の重鎮として、経営者連盟の理事から、文化教育団体、スポーツ団体、音楽芸能団体まで、数え挙げれば、ざっと50近い肩書を持つ多趣味な男性。自由音楽連盟を立ち上げる。
 勤労者音楽同盟(勤音)という、その政治的色合いを強めていく労働者団体の存在を知り、その発展に危機感を持つ。特に、先ほど行われた勤音の例会「森の歌」が大盛会に終わり、その内容がロシアの荒野を切り開き国土建設に邁進する労働に対する賛歌であり、最後に「レーニン万歳」と叫ぶと聞き、黙視できなくなる。財界に働きかける。まず手始めに門林を中心にして関西財界の主だった8人で作られている「8人会」に相談を持ちかけ、財界の支援のもと、産業人をその基礎に置き勤音に対抗できる音楽鑑賞団体を作ることを決定する。
 手始めに、弱小で経済的に苦境に立つクラシック専門の「音楽文化協会」という音楽団体の分裂に乗じて、その一方に肩入れし、その独立を促し、これを乗っ取って、自由音楽連盟(音連)を立ち上げる。「勤音が組織にイデオロギーを持ち込むなら、音連は組織に金をぶち込む」と門林は豪語する。まさに労資の対決である。
 第一回の例会は大盛会に納めなければならない。アメリカの有名楽団「ニューヨーク・フィルハーモニー」を日本に招待し、ドボルザークの「新世界より」をぶつけた。世界的に有名な「ニューヨークフィル」の公演であり、第一回例会ということもあって、利益を度外視した安価なチケット販売が効果を表し、R会館という広い会場は補助席まで埋まる大盛況に終わる。
 かくして勤音と音連との対立抗争は幕開けする。会員の獲得競争が始まり激化する。
 時は高度経済成長の真っ盛り、ようやく一般の大衆も、食うや食わずの生活から、余暇活動に関心を持つようになる。それに乗じて勤音も音連もその活動を強め、会員獲得に鎬を削ったのである。
 音連の出現と、その活動は勤音の活動に影響を与えずにはおかなかった。会員数も激減する。音楽好きの絶対数は、まだまだ限られており、その限られた人数を巡って食い合いが始まったのである。音連はその本来の活動以外でも、勤音の活動を妨害する。門林が大株主であるR会館の貸し出しを拒否したり、チケット販売を巡って警察沙汰を起こしたり、と対決する。その度に勤音はその対策に苦慮する。
 音連は、本来の活動でも勤労に挑戦する。有名楽団をその例会に招き、勤音に挑戦する。しかし、音連の活動の裏には、財界があるとはいえ、その協力には限界があり、金のかかる海外有名楽団の招聘、赤字覚悟の安価なチケット、等々は、次第に音連の経営を財政的に圧迫していく。とくに、勤音の例会・世界的に有名なロシアのバイオリニスト・サベーリエフの公演の成功と会員数の増大は、門林の危機意識に拍車をかける。音連は財政的にも、公演プランの面でも、危機的な状況にあった。門林は強力なプランナーを求めていた。門林は、勤音の名プランナー流郷に声をかけ、多額な給料と良好な待遇を餌に流郷を音連に引き抜こうとする。流郷自身は、音楽愛好家の集まりであり本来政治的には無関係な筈の、勤音内部に密やかに進行する政治的偏向と、人民党への裏献金があるのではないかという疑惑を感じており、それが自分とは全く無関係な、勤労内部の、政治的フラクションで決定されていることへの疑問と怒りを感じていた。その疑惑を解明することが先であり、さらに音連の右より体質、門林に対する嫌悪感等があったので、その誘いを拒否したのである。門林は諦めきれず、いつまでも待つという。
 門林は上本町9丁目あたりの閑静な住宅街が立ち並ぶ一角に妾宅を構えていた。そこに和代という、芸妓上がりの女性を妾として囲っていた。此処で過ごす時間が門林にとっては唯一の憩いの時間であり、日頃の疲れを癒していた。そこには本妻のいる実家では味わうことの出来ない自由な時間があった。和代は習い覚えた小唄などを披露して門林の無聊を慰めていた。そんな和代が妊娠する。その事により、和代は、門林との関係は義務的なものから、愛情を持つ関係に代わっていく。門林は、そんな和代を、より一層愛するようになり、いずれ生まれてくる子供は認知しなければならないと思う。そんな生活に門林は満ち足りていた。しかし、和代の弟で、勤労の職員でもある菊村俊一は、妾である姉の存在を恥じており、門林の子供を身ごもった姉に対して「門林のような化け物の子供は堕せ」と叫び、姉の腹を蹴る。門林に対して罵詈雑言をあびせる俊一に対して適当にあしらっていた門林もさすがに怒りを爆発させる。「おれは反動の親玉かもしれないが、人間の心は持っている」「とっとと帰れ」「二度と来るな」と叫ぶ。門林には人間的な優しさはあったが、俊一には姉の日蔭者としての境遇の悲しさ、切なさを全く理解出来ない紋切り型の左翼の活動家に過ぎなかった。左翼の思想は、本来、人間的な優しさから始まっているのである。その基本を忘れたところに社会主義諸国の崩壊がある。
音連の活動は人民党のフラクに固まり、流郷を追放した勤音との対決をますます強めていくであろう。

 野々宮
 音楽文化協会と云う、クラシック専門の団体を割って「音連」の基礎作りをする。音連の事務局長。

 黒金恒雄
 日本レーヨンの総務部長。門林の片腕。

  東京勤音関係
 鷲見
 東京勤音の事務局長

  門林雷太関係

 門林雷太 記載済み

 門林松子
 門林雷太の本妻。3人の子持ち。長男の恭太、長女の藤子、この二人は既婚者であり子供もいる。藤子は夫聡一郎の浮気には悩まされている。末娘の桃子はまだ大学生を卒業したばかりで独身。父親をからかって「右翼のボス」と呼ぶ。そんな桃子を雷太は可愛く思う。
 妻である松子は夫が外に妾を囲っている事を知りながら、詮索をしようとしない。嫉妬をするのは本妻としてはしたないと思う。男は、仕事の欲望を湧かせるためには家庭を犠牲にしても仕方が無い、と父親に教え込まれている。女にとってはそれが男の勝手な理屈だと思いながらも納得している。おそらく彼女の父親も実業家であり、閨閥結婚であろう。外に女を囲っているに違いない。そうでなければ、彼は松子の父親である。娘の夫の不業績を許すわけがない。

 和代とその弟・菊村俊一
 菊村和代は門川と云う「日東レーヨン社長」の囲われ者である。
上本町9丁目にある門林の別宅に日蔭者の妾として、過ごしている。
和代が19歳、弟の俊一が8歳の時、両親を失い、たった一人の身寄りである子だくさんの貧しい叔母の家に引き取られ、弟の食費と高校を卒業するまでの学費を作るために芸者に出る。それから3年目に門林に落籍されたのである。叔母は借金を作っており、それを肩代わりする必要もあって、囲われ者のお妾さんになったのである。それにもかかわらず弟の俊一はそんな姉を恥ずかしく思い、貯金をして門林の影響から脱出せよという。しかし、芸妓生活と、囲われ者の生活しか知らない和代は途方に暮れる。彼女に出来る事は芸妓時代に覚えた習い事以外にない。お客を喜ばすことは出来てもプロとしてお金を取れるかどうかは心もとない。そんな状態で独立して世間の荒波に耐えていけるであろうか?それよりも日蔭者の生活は気楽であり、安心であり、歳とった女中さんも付いており、生活の心配はない。名を捨て、実を取る生活を続けている。そして門林の子を身籠る。和代は門林に愛を感じ始める。女の性の悲しさがそこにはあった。そんな姉の姿に俊一は怒りを感じる。高校を卒業してから俊一は姉の援助をきっぱりと断り、日新工業に勤める傍ら、夜間大学に通い勉学にいそしむ。勤音の会員でもある。アコーデオンを唯一の愉しみにし、勤音のレクレーションには絶えず参加しアコーデオンを奏で、踊りを楽しむ。踊って歌って恋をして勤音ムードに浸り、ピンクムードを楽しむ。それが左傾化していくための第一歩であることを俊一は知らない。それ故に、だんだんと左傾化していく勤音の姿勢には疑問を呈し「僕は勤音は、あくまでも勤労者のための音楽鑑賞団体であって、その自主性は断固守っていかねばならない」と主張する。
 しかし、音連と云う門林が陰で操り、勤音に対立する音楽団体の人間と乱闘事件を起こし、警察に捕まり、音連関係の人間が門林の裏工作によって、早々に解放されたにもかかわらず、自分は何日も拘留され流郷による身柄引き受けまで、解放されなかったことから、権力と企業の結びつきを感じ、次第に左傾化していく。この事件で彼は日新工業を解雇され、流郷の計らいで勤音の職員として働くことになる。そんなことから流郷に対しては特別な親近感を持つ。しかし流郷は、この事件を契機に紋切り型の左翼思想にかぶれていく俊一の思想傾向に危機感を持つ。そして自分の書斎の書棚に並ぶマルクス主義の基本文献である「資本論」や「ドイツイデオロギー」の古典を指さし、古典を読むことの重要性を聞かせ、「学習会」で人民党の傾向的作者による、古典のダイジェスト版しか読んでいない俊一を窘める。しかし、俊一は、江藤済子等の人民党フラクションの命令を重要視し、勤音は自主性を持たねばならないという立場から、会員の意識を高め啓蒙し、一定の方向に導いていかねばならないと云う立場に次第に近づいていく。それが勤音の使命であると考えるようになる。しかし、流郷はそんな俊一に危機感を持つ。そして云う。「指導啓蒙とは誰に云っているのか、それは大衆を馬鹿にしている言葉ではないのか? 大衆の考え、意欲、夢や希望をくみ取って、それを実現していくことこそ、大衆路線であり、それが勤音の使命であり、それを無くしているから、一般会員と上層部の間にギャップを生みだしているのではないのか?そして流郷は、指導、啓蒙などと、大所高所から物を云う、今の勤音の一部人民党のフラクションの姿勢を激しく批判する。更に言う。「勤音は一党一派に偏しない立場を維持し、人民党の所有物であってはならない」と。そして「会員大衆を忘れた組織活動はあり得ない、大衆を馬鹿にするものは、何時かは大衆によって葬りさられるであろう」と。
 しかし、そんな正論は俊一には通じない。全員が人民党員であると云われている、民俗芸能の継承を由とする劇団「つくし座」を訪問し、その生活を見て、労働と学習が一体化している人民公社的な集団生活があることを知り、感動する。その報告から、次回の例会は「つくし座」の公演と決定する。
 中ソの対立は、人民党内部、その親派である勤音にも影響を与え、対立は激化する。中国派が勝利を勝ち取り、そのあおりを受けて流郷は勤音から追放される。俊一は流郷に対して「自己批判をして勤音に戻れ」と云う。間違っているのはあなたであって勤音ではないと云う。俊一は「立派な」活動家に育っていた。流郷は、ため息をついて、何も云わずに俊一のもとを去っていった。そこには偏狭なドグマチズムに犯された一人の人間に対する憐れみがあった。

  その他
 千田 某
 協和プロと云う芸能プロダクションの経営者。名よりも実利を取る、音楽が判り、興業の分かる、典型的な商売人。勤音の企画部責任者・流郷と仲が良い。勤音に食い込み商売を成立させている。流郷もその一味違う興業手段には一目置き、利用している。相身互いの関係である。どこか憎めない、おおらかな人柄である。
 クラシック専門のマネージャーから転身し、今は、小難しいクラシックよりも若者向けで、感能で聴かすポピュラーの時代と考え、ジャズを中心とする協和プロダクションを立ち上げる。そのプロダクションにジャズ畑の有能なタレントを抱え、その卓越した経営能力で、新しいマーケットを次々と開拓し、一介の音楽青年から、43歳で十数人のタレントを抱えるプロダクションの経営者になる。右にも左にも顔を利かし、勤音にも、音連にも深く食い込み、如才なく付き合う。政治的立場は決して明かさない。それは商売上不可欠な要素だと考える。「自分は反ソ、反中、反米だ」と云う流郷に対し、「自分も同じだ」と親しみを示す。しかし流郷はちょっと違うと思う。
 千田は、勤労や音連のような芸能連盟に、所属のタレントを供給し、さらに会場の借り入れなどを含めて一括して受注するなどを生業としている。

 以上でこの作品「仮装集団」の紹介を終える。この作品には政治の手に操られる音楽集団の中に潜む、様々な人間の不気味なエネルギーが上手く表現されている。人民党は日本共産党をモデルにしているが、取材拒否などに会い、書きにくい作品だったと作者は述べている。
1966年1月から翌年2月まで週刊誌<週刊朝日>1967年4月に文藝春秋から単行本で刊行された。1975年に新潮文庫版が、2006年にはは新装版が刊行されている。

 次回は第147回芥川賞受賞作品、鹿島田真希作「冥土めぐり」を予定している。乞う、ご期待。

   山崎豊子作『仮装集団』 新潮文庫 新潮社版


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