◇ 『秘境西域八年の潜行 抄』 著者: 西川 一三 2001.10 中央公論新社 刊
どこでみつけたのか、魚沼に住む舎弟が彼の地の山菜と一緒に「ぜひ一読を」と送ってくれた。
小説は概ね虚構の世界で、最近は芥川賞受賞作品など持って回ったような作品ははとんとごぶさたで、
最近はエンターテオメントと割り切っていたが、ドキュメントものにはやはり惹かれる。事実を述べる重みが
直に伝わってくる。とりわけ本書のようにおよそ自分が体験しようもない世界を、淡々と記述する紀行作品
にはただただ驚嘆し、敬服を惜しまない。
著者・西川一三氏は、旧制中学を出た後当時の花形企業・満鉄に就職したが、支那事変解決のカギは
西北民族の包囲網をもって支那を攻略することにあるという、当時の大東亜共栄圏構築の国策に共感し、
チベット・モンゴルへの潜入を志す。このため満鉄を4年で辞し、興亜義塾という外務省要員養成学校で語
学・地理・歴史・政治・経済を学び、更に軍事訓練を受けたのち1年間蒙古人と生活をともにし、蒙古人に
なりきって支那西域に向かったのである。
西川氏は西域(チベット・インドなど)潜行8年をへて、昭和25年(1950)夏に奇蹟的に帰国を果たしたの
であるが、その1カ月後にGHQから呼び出しを受ける。「張家口大使館調査室」所属の身分にある氏として
は、占領軍の呼び出しに本省の見解を問うべく外務省に赴くが、木で鼻をくくった扱いでショックを受ける。
それから氏は半年にわたってGHQの情報担当官から取り調べを受けた。米軍は西域の詳細な知見を得
て、兵要地誌を作成したのである。
その後氏は3年かけて、潜行8年の記録を作成した。本書は題名に抄とあるようにその一部である。
昭和18年(1943)当時の東条英機首相から「支那辺境民族の友となり、永住せよ」との指令書を受領し
モンゴル人に成りすまし、チベットに向かう。友となり永住して何をするのか、この指令書では必ずしも明
らかではないが、このあと内蒙古、寧夏、甘粛、青海、チベット、ブータン、西康、シッキム、インド、ネパール
などの中国から西の各地を潜行した記録は貴重な文化人類学的価値がある。また世界の屋根ヒマラヤ・
カンチェンジュンガ直下の峠ザラーリ(標高6,700m)を、過酷な環境下で初めて越えた折の感動の瞬間の
記述などは、感動の共感なしでは読めない。
蒙古族、チベット族の性格はともかく、風俗・生活習慣などはいちいち刮目すべきもので、食習慣、トイレ
事情(蒙古族はトイレはなく垂れ流しで、直後に犬が食う。チベットでは建屋の常に最上階にトイレがあり、
ごみ・灰・汚水もすべてそこに捨て、最下階でこれを攫い肥料とする。)、入浴は生涯しない。遺体は風葬
で鳥・動物が食う。生前悪いことをした人は犬も食わずに遺体の一部が残ると信じられている。放埓な性
習慣、風紀の乱れ、倫理観の欠如、金力・権力への盲従等々。聞いて初めて知ることばかりである。
インド・ネパール篇は分量が少ないが、チャンドラ・ボース生存説の根深さや、インド独立国民軍の将校
たちとの交流のシーンなどを読むと、アジア人はひとつだという西川氏の説にうなづけるものがある。
前述の西北民族とは満州(満州蒙古族)、蒙古・寧夏、甘粛・新疆、青海、西蔵(チベット)・西康を指す。
これらの地域の民族は何十世紀に渡り常に支那と反目しあってきた。それは近年の新疆、チベットとの衝
突に見るように今も続いている。
(以上この項終わり)