◇ 上田宿から坂木宿へ
この日は電車でまた上田に戻る。
昨日の終点「本町二丁目」信号から本町三丁目信号まで歩いて左折、柳町に向かう。
途中、池波正太郎の真田太平記館があった。
柳町には土蔵造り、卯達の上がった家並みなどが続き、街道らしさが演出されている。
柳町の突き当たりで左折し紺屋町、西脇、常磐城とほぼ1キロ、まっすぐに進む。
途中に廃屋と化した旧い建物があった。もうこのような家を建て替える気力がなく
なったのだろう。痛ましいかぎり。
高橋という橋で上田城の外堀矢出沢川を渡り生塚(うぶつか)信号に出る。橋のたもと
の丸山家は明治になって売りに出た上田城を買い取り石垣の一部を移し積み替えたという。
映画「たそがれ清兵衛」の決闘シーンに登場したとか。
「せん加うし道」という道標があった。善光寺道(北国街道は善光寺道とも言った)のこ
とだろう。
18号国道を渡ると「正福寺」。寛保2年(1742)千曲川の氾濫で諏訪部の河原に流れ
着いた骸2800余体を葬った「千人塚」がある。
秋和の里を進むと新幹線をくぐる手前に一里塚公園があった。
虚空蔵山は山桜などが咲いて実にのどかである。
この辺りの街道みちは狭い。
◇ 坂木宿から戸倉宿へ
この辺り千曲川を扼する山鼻があり岩鼻の嶮という。
国道の歩道が狭く危険。坂城町はバラが盛んなところで国道沿いに1キロも何十
種類ものバラが植えられていた。
この辺りは塩尻という。日本海側の「高田塩」と太平洋側の「倉賀野塩」の出
会いと終点が尻となる。
坂木宿との間には鼠宿という間の宿があった。「ねずみ」という信号がある。
一里塚橋を渡ると鼠宿の由来を述べた説明板があった。
ほどなく善光寺常夜燈があった。
十王堂の裏手に」坂木の武将村上義清の供養塔。武田信玄の進攻を上田原の戦、
砥石崩れの戦と二度撃退した。
現代的な火の見櫓。
坂木駅は黒々と落ち着いたたたずまいである。
本陣跡は表門が残る。坂田家など旧家が並ぶ。
曲手道を左に行くと善光寺常夜燈があった。
しなの鉄道の線路を越えて、千曲川沿いの国道18号をひたすら進む。
戸倉宿には上戸倉と下戸倉の二宿があって交代に本陣・問屋場の役目を果たして
いたとか。
上戸倉の玉井家本陣跡は草原だった。下戸倉本陣跡は酒屋でもあったらしい。
今日乗った戸倉駅を横目に、その先「千曲駅」を目指して一目散。なぜなら上田から
新幹線に乗るためには千曲駅15:37の電車に乗らなければならなかったから。
(ところがこの電車が10分近く遅れて駈けこみで辛うじて間にあった。おかげでビールも
名物おやきも買いそびれた)
本日の歩行距離はおよそ19キロ。
(以上この項終わり)
◇ 海野宿から上田宿へ
田中宿からおよそ3キロほど歩いて海野宿入口に着く。
そして「白鳥神社」。この地の豪族であった海野氏の氏神で、白鳥になったという日本武尊
を祀る。
海野宿は長野県では中山道の妻籠宿、奈良井宿に次いで重要伝統的建造物群保存地区
に認定された。
媒(なかだち)地蔵は婚期が遅れていた加賀様の姫がお祈りして良縁に恵まれたという言い
伝えがある。
街道の中央部を用水が流れている。梅花藻の咲いていた中山道の醒ケ井宿を思い出した。
建物は出梁(出桁)造り、蚕室造り、海野格子(長短2本づつの縦格子をやはり2本づつの横
格子で支える)など独特の構造を持つ。また鯱瓦、本卯達(梲:うだつ)、袖梲、軒梲などが上が
った建造物が軒を並べていて、街道の雰囲気を満喫した。
生憎と予報を先取りした雨が落ちて来た(ただ弱い雨で間もなく上がって陽が差してきた)。
長屋門をもつ本陣・問屋場と馬の塩舐め石があった。
しなの鉄道大屋駅を過ぎると街道は千曲川に最接近する。
岩下地区の一角に「明治天皇岩下御小休所」碑があった。また傍らには明治元年会津征討
のため通過した征討軍総督仁和寺宮嘉彰親王御遺跡(小休所)の碑があった。
明治天皇は即位後江戸(東京)に移られたのち早くも明治5年の九州・四国の巡幸を皮切り
に各地に行幸された。明治9年に東北・北海道、同11年に北陸・東海道、同13年に甲州・東
山道、同14年に山形・秋田・北海道、同19年に山口・広島・岡山と合計6回の巡幸をされた
(六大巡幸という)。主要道路であった五街道には明治天皇御一行が小休止をされた場所(旧
本陣や地元の庄屋など名家が多い)では記念碑を建て、建物や御膳水など保存に努めている
ところが多い。
海棠が雨に濡れて咲いていた。(「海棠の雨に濡れたる風情」とは美女の打ち萎れた姿にな
ぞらえる)
海棠も 雨にぬれたり 千曲川
太鼓淵という名勝ポイントがある。以前は太鼓岩まで吊り橋が架かっていた。
今はない。
上田城の真田昌幸は徳川秀忠の2万2千の大軍をここで破った(神川合戦)。
馬頭観世音碑が建つ。神川小学校の校門。
長野新幹線が千曲川を渡るハープ橋。河原には18匹もの鯉のぼりが舞っていた。
山笑う 千曲の里は春霞 川面きらめき鯉のぼり舞う
城郭上の石垣に塀を築き、重厚な門構えを備えた旧上田宿本陣柳沢家。
長野新幹線としなの鉄道の線路を越えると上田宿に入る。
信州大学繊維学部の正門。かつて上田蚕糸専門学校であった頃の講堂が今も使われ
ていて、有形文化財となっている。
大学の門の前の道右側には「科野大宮社」。信濃国の総社であった。
信州の松下村塾的存在であった活文禅師の私塾多門庵が科野大宮社の並びにあった
というが見つからなかった。佐久間象山もここで学んだという。
上田市内に海野町という町がある。真田氏は本家海野氏を優遇し城下に海野郷の人を招
き町を作った。
その海野町の一角に旧本陣(現在は衣料品店)、高市神社などがある。
昼食時にお店がなく、「信州ではそばを食べなくちゃ」という相棒の希望もあって、やっと海野
町の先に「刀屋」という蕎麦屋を見つけた。人気の店らしく大繁盛で滑り込みセーフで、後から
来た人たちは並んで待っていた。蕎麦は美味しく、中盛りを頼んだら東京で大盛り相当の量だ
った。
上田城は二人ともかつて見学したことがあるので、割愛し、本町二丁目信号で打ち止め。
折角の機会なので、上田の北「戸倉・上山田温泉」に泊まることにして、しなの鉄道で戸倉へ。
宿泊した「元湯上山田ホテル」は本格的な硫黄泉で、大浴場・貸切露天風呂・一般露天風呂
など歴訪し温泉を堪能した。
ただ戸倉・上山田温泉自体は往時の華やかさはない。
☆本日の歩行距離は19.3キロ
旅枕 千曲の瀬音 春の風
(以上この項終わり)
◇ 小諸宿から田中宿へ
日の出は5時25分。浅間山の裾野に陽が上がった。
天気予報では今日は午後から天候が急変し雨・雷・竜巻の荒れ模様とのこと。
予定の時間を繰り上げて8時前にホテルを出発した。
市町(いちまち)から新町に向かう。大きな布引観音の道標があるが、何の気もなしに道
なりに左に曲がってしまった。
右手の小高い丘に墓所があり、「おれが死んだらこんなところに葬ってもらいたいなあ」
などとのんきなことを考えていたら道がどんどん下っていく。あわてて地図を見直して完全
に街道とは違う道を進んできたことを知り、急いで引き返した。この間往復15・6分時間
をロスした。なぜ間違えたかといえば、北国街道が道路工事中で通行止めの標識が出て
いたからだ。
幾分登り坂を上って広い国道18号バイパスに出た。右手には芦原中学がある。
みすぼらしい青木一里塚跡があった。
「第一北国街道踏切」を渡り、国道18号を越える。
街道はほぼ国道沿いに進む。車の往来も少ない。今日は土曜日なのに人っ子一人
見えない。
やがて国道18号に出る直前、5層の屋根を持つ異様な古民家風の建物が現れた。
入口に「たかこの布あそび」とある。どうやら民芸ワークショップらしい。
この辺りの民家でよく見かける様式。屋根の上に「気抜き」という子屋根がある。昔養
蚕が盛んだったころ、蚕室の温度管理のために家屋内で火を焚きその煙抜きや温度
調節のために設けたものである。
宿場でなくともなかなか立派な家が多い。なかには門だけは立派という家も見かける。
滋野郵便局の先に「牧野(ぼくや)一里塚跡」があった。
この地は江戸時代の力士「雷電為衛門」(21年間に254勝10敗という)の生地で、大きな
石碑が建っている。碑文は佐久間象山が書いたというが、この石を欠いて呑むと出世したり、
勝ち運が巡ってくるといういい加減な迷信が広まって碑文はすっかり消えてしまっている。そ
のため明治になって新しくちゃんとした石碑が傍らに立っている。
あまり見かけない土蔵らしき建物を見つけた。
また街道筋に特有の出し桁造りの家を見つけた。
突然頭の上から「こんにちは」びっくりした。上は小学校の校庭だった。躾がよいので誰も会え
ば「こんにちは」という。大人も子供も。日本もまだ捨てたものではない。
「こんにちは」子等の笑顔や佐久の道
ひたすら進むと田中の宿場。いきなり立派な広い舗装道路に出た。田中宿の中心部である。
脇本陣跡とあるお店(瀬戸物屋さん)があった。本陣は奥の方にあるらしい。民家の敷地に門
だけが残っていた。
馬に乗ったお地蔵さん。勝軍地蔵というらしい。この辺りに一里塚があった。
(以上この項終わり)