教師をやっていた「晩年」の頃、私は夏休みの宿題を出すのを止めました。
夏休みの少し前、授業の終わりに、
「もうじき夏休みですが、私は夏休みの宿題を出しません!」
というと生徒達は大いに遊べると思ってしまうんでしょうか、大喜びに教室がわきます。少し静かになったところで、
「そのかわり、宿題は自分が自分に出します」
教室はやっぱりなー、という声で一杯になります。
私の担当していたクラスの夏休みの宿題(課題)は各自がそれぞれ自分に合わせた課題を設定し、ひと夏の学習計画を立て、新学期に先生に見てもらうための評価方法を策定します。これらは家庭学習の時間でやってもらいますが、こちらからは大体どんなことがひと夏をかけて行うのにふさわしいかをいくつか例示したプリントを渡しておきます。
そして暑くてまともな授業にならない1学期最後頃の1コマを使い、各自が私にひとり1分で説明します。私の承認を得た課題、学習計画、評価はOK、そうでないものは練り直しですが、大体は微修正程度で合格です。少なすぎるのはむしろ少なく、修正が必要なのは大体は大風呂敷を広げすぎるものばかりです。
この方法は、新学期の最初の1時間も評価用に使いますので、授業の計画性がないと教科書の進度が遅れてしまいますので注意が必要です。
生徒達の評価方法には、例えば単語200語例文100文を暗記するので、任意の問題を先生から出して8割以上正解ならば合格というものであれば、新学期の最初の1時間内で評価が可能ですが、中にはちょっとした英文の作品を作るというのもあります。そういうのは一旦預かってから評価します。
教師側からみた負担の度合いは、1学期末にプリントなんかの課題を配って、新学期に確認テストをするなどの一般的なのに比べると少し時間を取ってしまいます。でも感覚的にはちょっと負担が増えるかなというくらいの感じでした。まぁ楽は出来ません。どんなにいい実践でも何倍も時間のかかる実践は意味がありません。普段の流れで出来てこそすぐれた実践だと思います。
一方生徒の立場で見ると、計画実践し、その評価を行うという流れを自ら行うのですから、プリントを与えられて受け身の学習をするよりははるかに意欲的に行えると思います。実際、計画のみで何もしなかったという生徒はいませんでした。
通り一遍の業者テストを配って、夏休み後にそのマル付けに忙殺されるなんてあまり教育的ではないと思いませんか?
夏休みの少し前、授業の終わりに、
「もうじき夏休みですが、私は夏休みの宿題を出しません!」
というと生徒達は大いに遊べると思ってしまうんでしょうか、大喜びに教室がわきます。少し静かになったところで、
「そのかわり、宿題は自分が自分に出します」
教室はやっぱりなー、という声で一杯になります。
私の担当していたクラスの夏休みの宿題(課題)は各自がそれぞれ自分に合わせた課題を設定し、ひと夏の学習計画を立て、新学期に先生に見てもらうための評価方法を策定します。これらは家庭学習の時間でやってもらいますが、こちらからは大体どんなことがひと夏をかけて行うのにふさわしいかをいくつか例示したプリントを渡しておきます。
そして暑くてまともな授業にならない1学期最後頃の1コマを使い、各自が私にひとり1分で説明します。私の承認を得た課題、学習計画、評価はOK、そうでないものは練り直しですが、大体は微修正程度で合格です。少なすぎるのはむしろ少なく、修正が必要なのは大体は大風呂敷を広げすぎるものばかりです。
この方法は、新学期の最初の1時間も評価用に使いますので、授業の計画性がないと教科書の進度が遅れてしまいますので注意が必要です。
生徒達の評価方法には、例えば単語200語例文100文を暗記するので、任意の問題を先生から出して8割以上正解ならば合格というものであれば、新学期の最初の1時間内で評価が可能ですが、中にはちょっとした英文の作品を作るというのもあります。そういうのは一旦預かってから評価します。
教師側からみた負担の度合いは、1学期末にプリントなんかの課題を配って、新学期に確認テストをするなどの一般的なのに比べると少し時間を取ってしまいます。でも感覚的にはちょっと負担が増えるかなというくらいの感じでした。まぁ楽は出来ません。どんなにいい実践でも何倍も時間のかかる実践は意味がありません。普段の流れで出来てこそすぐれた実践だと思います。
一方生徒の立場で見ると、計画実践し、その評価を行うという流れを自ら行うのですから、プリントを与えられて受け身の学習をするよりははるかに意欲的に行えると思います。実際、計画のみで何もしなかったという生徒はいませんでした。
通り一遍の業者テストを配って、夏休み後にそのマル付けに忙殺されるなんてあまり教育的ではないと思いませんか?