院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

夏期講習のことなど

2013-08-16 06:55:55 | 教育
 高校や大学の受験性は夏休みも遊べず、勉強勉強で大変だろう。お見舞い申し上げる。

 中にはせっせと夏期講習に行っている生徒さんもいるかもしれない。私も行った。だが、後から思うと夏期講習はなんの役にも立たなかった。(少なくとも私にとっては。)

 夏期講習は、学校の勉強と連続性がない。だから印象に残らない。また、易しすぎたり難しすぎたりする。要するに夏期講習が受験に役立ったという印象がないのだ。

 家にいるとだらだらしてしまうから、との理由で夏期講習に行ったのだが、なんの効果もなかった。家でだらだらしていたほうがマシだった。

 テレビで「ワンポイント英会話」というのを1分間くらい放送する。日本語で言うのと英語で言うのとがかけはなれている表現が取り扱われる。でも、あれは何の役にも立たない。前後の脈絡がないから、なにも記憶に残らない。

 NHKの「基礎英語」というラジオ番組を一生懸命に聴いた。あれも役に立たなかった。自分の根性がないせいだと思っていたが、生身の相手がいないコミュニケーションの練習は効果がないと最近、実験で証明された。だから「基礎英語」で英会話ができるようになった人は一人もいないはずだ。

 「受験数学は記憶だ」または「受験数学は暗記ものである」と気付くのが遅かった。公式を覚えるだけでは駄目だとしきりに言われたので、受験数学もセンスだと思い違いしていた。

 受験では、このタイプの数学問題にはこの解法が使えるということを覚えていなければ、試験会場で新しい解法なぞ思いつくはずがない。(ほんものの数学には才能が必要だ。碁や将棋のプロと同じである。)

 この夏休み、頑張って勉強している受験生には申し訳ないが、苦痛を乗り越えてやった勉強は身に付かない。楽しみながらやった勉強こそ、この歳になるまで覚えているものだ。

(写真は記事とは関係ありません。)


京都嵐山「吉兆」探訪記

2013-08-15 05:24:26 | 食べ物
 高級料亭なんてそう何度も行ったことはないが、行った中で私は築地本願寺の向かいにある「つきぢ田村」の料理がもっともおいしいと思っていた。実際、「つきぢ田村」の料理長が昨年、人間国宝に選ばれ、私の舌もまんざらではないなと思った。

 ただ、「つきぢ田村」は国賓などを連れて行くような店ではなく、ビルになっていて、コースも最低2万円からある。(私は最低のコースしか頼んだことはない。)

 それではと思い立って、これまで3回行われた東京サミットで、海外の首脳が3回とも連れて行かれた「吉兆」に行ってみようと思った。(ただし、「吉兆」は何か所もあり、サミット参加者がどこの「吉兆」に行ったのかは知らない。小泉純一郎元首相は銀座の「吉兆」がお気に入りだという。)


(「嵐山吉兆」内部。)

 きのう私は妻とともに京都嵐山の「吉兆」(写真)に行った。ほんとうのところは、料理がどれほどおいしいか疑問をもっていた。私には「つきぢ田村」で十分おいしかった。それよりおいしい料理は想像ができない。今回の「吉兆」は3万5千円である。「つきぢ田村」より1万5千円分おいしいのだろうか?

 結論から言おう。京都嵐山の「吉兆」はお一人様3万5千円の価値がある。「ここまでやるか?」という料理が出てきた。材料はそう珍しいものではない。ナスやカボチャが、せいぜい京野菜だというくらいのものだった。だが、その味付け、煮加減、量、いろどり、切り方など、どれをとってもこれ以上の見事さはありえないと思わせるものだった。

 関東出身の私にはハモを食べる習慣がない。それでも、10回くらいはハモを食べたことがある。出されたハモの吸い物に驚嘆した。ハモとはこんなにおいしい魚だったのか。だしも濃すぎず薄すぎず、熱すぎずぬるくなく、絶妙に仕組まれた料理がほとんどタイムリーに出てくる。「吉兆」の一連のもてなしは、まさに芸術品と言えるだろう。また来たいと思った。

 それでは、「つきぢ田村」と京都嵐山「吉兆」の違いは何だろうか?それは端的にムードだけである。まずビルと築100年の豪邸の違いがある。そして、一番大きく違うと私が思ったのは、仲居の質だった。屋ばらと仲居の差は、ちょうど1万5千円分あると思った次第。

ハリウッド映画における「訛り」

2013-08-14 04:24:46 | 文化
 私は英語が読めるが話せないという世代である。中学の教師がキングズイングリッシュしか認めない人で、 together は絶対にトゥギャザーとは読まないと教わった。

 当時、アメリカのポップスが大量に流入していた時代で、歌詞の中に I wanna...がしきりに出てきて、意味が分からなかったのだが、アメリカでは I want をそう発音することがあるとは一度も教えてくれなかった。

 little がリルと発音されることや、 a lot of がほとんどララブと聞こえることについても教えられなかったから、自分で想像するよりなく少々苦労した。

 アメリカは人種のるつぼだから、訛りには鷹揚なのではないか推測する。ハリウッド映画にアーノルド・シュワルツネッガーが主演したり、渡辺兼が出演したりすることからも、それが伺える。

 シュワルツネッガーはオーストリア出身だし、渡辺は日本人である。ハリウッド映画では意味さえ通じれば、訛りは問題にならないのではないか?

 それに引き替え、日本ではNHKの朝の連続ドラマに見られるように、訛りがドラマの重要な構成要素となる。その分だけ、ハリウッド映画は表現の幅が狭いのではないかと思うが、どうか?

続・熱中症は本当に増えたのか?

2013-08-13 04:51:12 | マスコミ
 昨日の報道で「80歳の男性が自室で死んでいた。部屋が閉め切られていた。熱中症と思われる」とあった。

 そんなことが、なぜ分かるの?心筋梗塞でないとなぜ言えるの?脳卒中は?大動脈破裂だって急死しますよ。80歳の人の急死は別に珍しいことではないのだ。

 このところマスコミは、熱中症熱中症と言いすぎる。3年前にはこれほど熱中症とは言わなかった。熱中症は大むかしから知られている。溶鉱炉の作業員がまれにかかることがあった。

 マスコミが煽ると、国民が不安になるではないか。根も葉もないようなことで国民を不安にさせて、なにかよいことがあるのだろうか?

 マスコミ内部には私のような考えの人が一人もいないのだろうか?

懐かしの「少女フレンド」

2013-08-12 05:07:00 | 社会
 私が小学校3年生の時に、「少年マガジン」、「少年サンデー」が相次いで発刊された。これまで月刊だった少年雑誌が週刊となった初めである。

 それから4年後に「少女フレンド」、「マーガレット」が創刊され、少年少女雑誌は週刊時代に入った。

 そのころの「少女フレンド」には、グラビアでアメリカ大統領J.F.ケネディ家の紹介があった。ケネディ家の暮らしをアメリカ中産階級の代表だと考えて、日本の少女たちはアメリカの暮らしぶりにあこがれた。

 そのグラビアには娘のキャロラインちゃんが登場した。自分たちより少し年下のキャロラインちゃんに、日本の少女たちは感情移入することができた。

 このキャロラインちゃんこそ、次の駐日アメリカ大使に予定されているキャロライン・ケネディさんである。

 「少女フレンド」の時代、日本の総理大臣は池田隼人だった。「貧乏人は麦を食え」と言って顰蹙をかったが、「所得倍増」を唱え実現させた総理大臣である。

 「少女フレンド」は、アメリカ大統領家を報じても、池田隼人家の私生活に興味を示さなかった。それは日本の少女たちが、日本の総理大臣の私生活に興味がないことを、編集部が承知していたからに他ならない。

熱中症は本当に増えたのか?

2013-08-11 08:00:26 | 医療
 ここ10年ほど死亡診断書を書く機会がないが、むかしは急死の場合、死因を「心不全」と書く「習わし」があった。というのは、あらかじめ何かの病気を患っていない限り、急死した人の「死因」は病理解剖しなければ正確には分からないからだ。

 事件性がないことが明らかな場合は、ふつう解剖をしない。だから、死亡診断書の死因に基づいて統計をとっても正確な結果は得られない。

 テレビでは毎日々々、「熱中症」「熱中症」と叫んでいる。最近「熱中症」が増えてきたともいう。65歳以上の高齢者に多いという。

 先日この欄で、80歳以上の人が急死しても何の不思議もないのに、その日が暑かったからというだけで「熱中症の疑い」と「診断」することに苦言を呈した

 熱中症の報告は外国でも増えている。しかし、外国とは主にヨーロッパなどの先進国である。もっと気候が暑く、気温が50°C近くまで行く国、すなわちアフリカ、アラブ、インドなどからは、なぜか熱中症が増加したとの報告はない。(このことも上の記事で指摘した。)

 熱中症の増加は人為的なものではないのか?すなわち、暑い日の急死を(むかしは心不全で片づけていたのに)最近は熱中症で片づけるようになったのではあるまいか?

 そうだとすると、急死は65歳以上に多いから、熱中症が65歳以上の高齢者に多いという主張は、(死亡診断書の死因を医者がどう書くかという「習わし」に左右されて)その正当性に疑問符をつけなくてはならない。

 厚生労働省の医者(同省には技官として医者がいる)も「熱中症には気を付けましょう」と診断や治療の指針を出すのみで、死亡診断書に書かれている熱中症の診断そのものを怪しんではいないようなので、一言言ってみた。

牧野富太郎と「さかなクン」

2013-08-10 04:58:19 | 学術
 日本植物学の父、牧野富太郎と、お魚タレントの「さかなクン」の類似点に気づいている人は多いだろう。

 牧野富太郎は世界的な業績を残しながら、学歴がないために(小学校中退)アカデミズムの本流に入れず、東京帝国大学から博士号を授与されたときには65歳になっていた。

 「さかなクン」も東京水産大学に入れず、キャリアは本道の水産学にはない。彼の驚異的な魚の知識は独学である。それでいて、多くの水産学者、魚類学者と親交がある。これらの学者たちも「さかなクン」の網羅的な魚の知識にはかなわないだろう。

 「さかなクン」の私生活は隠されていて(子供たちに夢を与えるという理由らしい)、年齢は38歳と推測されるが、妻子や家族がどうなっているのか謎である。この辺も、いかにもオタクめいていて面白い。

 多くのタレントが「作られた自我」を演じる。(これをキャラと呼ぶ。)「さかなクン」もむろん「作られた自我」を演じている。だが、タレントと違って、「さかなクン」の「自我」の作り方に痛々しさを感じるのは私だけだろうか?無理をしている感じがあるのだ。

 牧野富太郎はおびただしい数の植物の博物画を残している。「さかなクン」も巧みに魚の絵を描くことはよく知られている。そのため、彼は魚のイラストが得意だ言われるが、とんでもない。彼の魚の絵は、れっきとした博物画である。その詳細なこと、牧野に劣らない。

 「さかなクン」が牧野と違うところは、牧野は植物の食べ方の研究をしなかったが、「さかなクン」は魚料理に通暁しているという点である。私は幼少時、魚の図鑑を見ていて、その魚がどこに棲息してどういう生態かということよりも、美味しいかまずいか、食べられるかそうでないかに大いに興味があったので、「さかなクン」が魚料理に詳しいのは心から理解できるのである。

「仮面ライダー」が始まったころ

2013-08-09 05:56:49 | 漫画
 「仮面ライダー」の漫画が少年マガジンで始まったのは、私の大学生活が始まったころと同時期である。(実はそれ以前に小学生向けの「こどもマガジン」に掲載が始まり、「こども・・」が少年マガジンに吸収されたらしい。)高校生のころから漫画好きだった私は「仮面ライダー」に対して2つの感想をもった。

 1つは、これまで「○○仮面」というタイトルはあったが、「仮面○○」というのは初めてだなぁというものである。

 もう1つは、仮面ライダーの顔のデザインが特異だということである。仮面ライダーはいかにも正義の味方といった顔ではない。むろん悪人ヅラではなく、中立的なのだが、それが珍しいと感じた。

 仮面ライダーの顔のデザインは石森章太郎が何種類かを作って、当時まだ幼かった息子さんに見せたらしい。息子さんが一番カッコいいと指摘したのが、現在の仮面ライダーの顔のデザインである。石森章太郎自身がそう述べていた。

 漫画にすぐ引き続いて実写のテレビ版が始まった。(漫画とテレビのコラボは予定されていた。)そのころ私の名古屋の下宿にはテレビがなく、私は当時のテレビ版仮面ライダーを見ていない。(テレビだけではなく、扇風機も洗濯機も下宿にはなかった。)

 仮面ライダーは40年たった現在でも人気がある。こんなに長持ちするとは思わなかった。当時「黄金バット」のアニメがあった。「黄金バット」は父親が子供時代からあると聞いて驚いた。仮面ライダーは黄金バットに匹敵するくらい長命なのだ。

 仮面ライダーのテレビ版を見ることもなく、私の興味は手塚治虫作品の復刻版へと移っていった。

大人気の子供向け番組「キョウリュウジャー」

2013-08-08 06:03:30 | 芸能
 子供向けの「キョウリュウジャー」という番組が大人気である。5人揃って「ゴレンジャー」の流れをくむ戦隊もので、実写(特撮)のドラマである。

 今年の2月に始まったばかりだが、すでに「仮面ライダー」の人気を超えている。小学校1年生の甥は「仮面ライダー」のファンだったが、「キョウリュウジャー」に乗り換えてしまった。

 「仮面ライダー」と「キョウリュウジャー」はどこが違うのだろうか?「仮面ライダー」にはストーリーがあるが、「キョウリュウジャー」にはないと言ってもよい。「仮面ライダー」は人間が対話してストーリーを運んでいくのだが、「キョウリュウジャー」にはそのような場面がほとんどなく、全編「変身」と「戦い」である。つまり、見ていて面倒でないのだ。

 ストーリーらしいものがないのは、大人向けの映画でもある。ジャッキー・チェンの拳法ものや、007などのチェイスものはアクションシーンを楽しませる映画であって、ストーリーはオマケである。「キョウリュウジャー」にストーリーがあるとすれば、「悪者」をレンジャーがやっつけることだけである。「悪者」はいかにも悪者らしくデザインされて、なぜ悪いのかという説明は全然ない。

 セリフが少なく善玉と悪玉がはっきりしていて、主に戦闘シーンを見せるという点において、これらのドラマはダンプ松本がいたころの女子プロレスにも似ている。「キョウリュウジャー」は「仮面ライダー」と同じくおもちゃ会社とコラボしていて、出てくるマシンは恐竜にせよ剣にせよ、おもちゃとしてすでに設計済みだと思われる。おもちゃのこうした売り方は、30年前からすでにあった。

(一説によると「仮面ライダー」は子供の母親に人気があるという。出演男優がイケメンだからである。ちなみに「キョウリュウジャー」の出演男優もイケメンである。)

アリナミン(武田薬品)の薬効データのウソ

2013-08-07 04:18:39 | 医療
 武田薬品が「アリナミンは効く。ちゃんとデータを示す」と大見得を切って、そのデータを公開した。

 だが、このデータは薬効判定としては極めて稚拙なものである。医学雑誌なら、三流誌でもこのデータの掲載を拒否するだろう。なぜなら、対照群がないからである。

 普通、薬が有効であるのかどうかを示す方法としては、ほんものの薬を投与する群と、偽の薬(プラセボー)を投与する群とに分けて、両群の間で違いがあるかを調べなくてはならない。

 さらに40年以上前から、投与する医者の方も自分が投与する「薬」が実薬であるかプラセボーであるかを分からないようにしておかなくては、普通の学術誌は取り上げてくれなくなっった。自分が投与している「薬」がどちらであるかを医者が知っていると、薬効を判定するのにどうしても医者の予見が入ってしまうからである。

 投与されている薬が実薬であるかプラセボーであるか、患者だけでなく医者の方も知らないで行う薬効判定の方法を「二重盲検法」という。「二重盲検法」については、これまでしつこく述べてきた。

 武田薬品のアリナミンに関するデータは、二重盲検でないばかりか対照群さえないので、学術的にはなんの意味もない。そんなデータをウェブに得々とと発表するのはどういう神経だろうか?

 武田薬品には優秀な薬学者がたくさんいる。彼らが二重盲検法を用いていないデータに価値がないことを知らないはずはない。彼らの疑問は商業主義によって握りつぶされたのだろうか?

歌番組は一流歌手に合唱をさせるな!

2013-08-06 04:12:19 | 音楽
 最近のテレビの歌番組は分からない。EXILEのように激しい踊りを伴っていたり、西野カナのように(壁は高いほうが挑戦し甲斐があるというような)道徳の教科書みたいな歌を良いとは思わない。

 テレビ局の方もそれを承知していて、和田アキ子や川中美幸のような私たちでも知っている一流歌手を出演させる番組を別に作っている。

 ところが、最近とみに気になるのが、彼ら一流のソリストに合唱をやらせることが目立つことである。ソロと合唱とは根本的に違う。合唱をやらせるのはソリストに失礼である。金を支払えばよいというものではない。なによりも個性がぶつかり合ってサウンドが台無しになってしまう。

 ソリストにはそれぞれの個性があり、それらは食べ物で言えば寿司だったりビフテキだったりウナ重だったりする。

 だが、寿司とビフテキとウナ重をごちゃまぜにされると、まずくなる。テレビ局はソリストに合唱をやらせるべきではない。一流のソリストが合唱している姿は豪華でも何でもない。プロデューサーの悪趣味が露呈されるだけである。(ソリストのほうも合唱を断るべきである。)

(紅白歌合戦の最後の合唱は、お祭りだから仕方がないとは、いつぞや書いた。)

日本民謡に地域差が見られないのはなぜか?

2013-08-05 05:06:14 | 音楽
 名古屋市長の河村さんの話し方で知られる「みゃぁみゃぁ言葉」名古屋弁は、名古屋市内でしか使用されない。まして名古屋から電車で1時間の当地、豊橋市の言葉は名古屋弁とは似ても似つかない三河弁である。「食べなさい」を「食べりん」という。名古屋弁なら「食べやぁ」となる。

 名古屋はもちろん愛知県内で「だ」を「や」で置き換える「そうやねぇ」という言い方はしない。ところが長良川を1本隔てた岐阜県では「そうやねぇ」を使用する。

 川は人々の移動を大いに妨げてきたのだろう。川の向こうとこちらで(距離的には遠くないのに)言葉が違うのだ。

 ところが日本民謡は、東北であろうと九州であろうと、サウンドが同じなのはなぜか?川一本隔てれば言葉が違った時代から日本民謡はあったのに、それらはどこでも同じ音階(47抜き音階)を使用し、コブシを効かせる。そして、アラヨーイといった囃し言葉が入るところも共通している。

 47抜き音階(ヨナ抜き音階)とは、ドレミ・・のうち4度と7度(すなわちファとシ)を抜かす音階である。現在でも演歌はこの音階で作られている。

 ひとり沖縄だけが別の音階、すなわち26抜き音階を用いる。ピアノでもギターでもよいから、レとラを抜いて適当に弾いてみてほしい。沖縄的なサウンドになるはずである。

 方言が地方によってかくも違うのに、民謡のサウンドが同じなのはなぜだろうか?研究した人はいるのだろうが、私のところまでは情報が来ていない。

「ネット依存」と「本依存」

2013-08-04 04:54:37 | 読書
 このごろ「ネット依存」がよく話題になる。スマホが普及してから、中高生で一層問題にされるようになった。「ネット依存」のきちんとした定義はないが、要するに一日に何時間もネットと繋がっていないと気が済まない状態を言うらしい。

 「ネット依存」の良くない点は、夜遅くまでやっていて寝不足になるとか、まぁ今のところその程度である。

 電車やバスの中で、ずっとスマホをいじっている人がいるけれども、彼らは「ネット依存」なのだろうか?

 寝不足になるほどネットをやり、電車やバスの中でもネットをやり、歩きながらでもネットをやる。このような行為のどこがいけないのだろうか?

 昔は、本に夢中になってついつい寝不足になるとか、電車やバスの中で本を読むとか、歩きながら本を読むということがあった。(二宮金次郎が、その典型である。)

 「ネット依存」の伝で行けば、これは「本依存」ということになってしまう。「ネット依存」が問題となって、「本依存」が問題にならないのは、どこかバランスを欠くように思うのだが、どうか?

夏休みの存在意義

2013-08-03 05:18:10 | 教育
 8月1日は小学校の夏休みの「出校日」だった。久々に街に黄色い帽子の列を見かけた。「出校日」は私が小学校時代にもあって、面倒だった。

 「出校日」はなんのためにあるのだろうか?夏休みの中だるみを防ぐためという説もあるが、それなら夏休みをなしにすればよい。「出校日」は教師の給料日だとの話がある。教師が出校するから生徒もというわけだが、なぜ給料日に生徒が付きあわなければならないのか?

 実際は、祖父母の田舎に行っている子供や、海外旅行をしている生徒は出校しなかった。

 夏休み帳がイヤだった。あんなもの、子供が毎日コツコツやれるはずがない。たいてい夏休みの最後に必死になってやった。1980年ころ、夏休み帳が廃止になったことがあって、教育委員会もなかなかやるなぁと思ったが、いつの間にか復活した。

 毎日の天気を付ける宿題もあった。そんな退屈なこと子供には苦痛だ。有名私立中学受験の塾では、そんな無駄なことをする暇があったら受験勉強をせよと、夏休み中に塾が作った天気表を配る。

 学校からの指示ではないが、町内の朝のラジオ体操も苦痛だった。夏休みでないときよりも早起きしなくてはならない。景品に釣られて参加したが、早起きは子供心につらかった。

 夏休みの自由研究とか工作も面倒だった。それらはむしろ親の出番だった。それによって、子供は親たち大人がいかに凄いかを知った。そういう意味で、自由研究や工作は存在価値があるだろう。

 全体的に見ると、やはり夏休みには必要だ。なんだか、夏休みで一段と成長したような印象があるのだ。だから夏休みは昔からどこの国でも廃止されずに残っているのだろう。

 教育学の世界では、当然夏休みの存在意義について論じた学説があるのだろうが、私たちの目に触れることはない。

後頭部を殴打されると気絶ではすまない

2013-08-02 04:59:29 | 社会
 後頭部を気絶するほど殴打されると、下手をすると死ぬ。映画やテレビで、殴打されて気絶してもじきに気が付くのは、嘘である。あれは、あくまでも演出上の約束事である。

 もし現実にドラマと同じことをすると、とんでもない結果になる。後頭部の殴打→気絶を約束事だと知らない人が多くなったので、ドラマはそのような約束事を廃止した方がよい。

 昔はリストカットで自殺するという約束事が、映画やテレビにあったような気がする。こちらの方の約束事は、本当は死ねないからまだ許せる。リストカットでは自殺できないことは昨日書いた。

 睡眠薬自殺というのは第二次大戦ころの薬ならありえたけれども、現代の薬では不可能である。2日ほど眠ればケロリと起きる。1000錠くらい飲んでもだ。山口県の5人殺しの犯人が、大量の睡眠薬をもって自殺するつもりで山に入ったというが、今の睡眠薬では死ねない。犯人は時代錯誤と言うべきである。