えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

鴨下信一「面白すぎる日記たち」読了

2009年06月21日 | 読書
:文春新書「面白すぎる日記たち-逆説的日本語読本-」鴨下信一 1997年


「よく一日の日記の終りに「何時何分 眠る」と書いてある。
あなたはこれはおかしいと思わないだろうか。眠ってしまえば、
日記は書けない。」

 どんな意見にも、「なるほどな」と「ちょっとまてよ」という読み方は
できます。この場合、「ちょっとまてよ」派は「これから眠りますよ」と
言う意をこめて夜半に筆を執る性質ではないでしょうか。
でもちょっと変ですよね。
そんな第一章「日記はいつ書くのか」の冒頭を足元からはじめた鴨下信一の、
日記紹介はあくまで謙虚に始まっています。

背後の著者紹介を読むと、鴨下信一には『忘れられた名文たち』という
著書があります。古今東西の、文章を読むことが好きな方のようです。
そのせいか、日記の紹介をしながらもさかんに「美文」という言葉が
文中には登場します。
本書『面白すぎる日記たち』は、全九章で構成され、それぞれの
題にあわせて多くの日記を紹介してゆく体裁をとっていますが、
料理屋で「おまかせ」を頼むような本の選び方がなされています。
まったく著者の好きな方向から本がえらばれており、
たとえば第一章なら、藤原師輔、アンディ・ウォーホル、原田熊雄、
古川ロッパ、入江相政の名前が並びます。

鴨下信一がえらいなあ、と思ったのは、本書で日記の著者として、
目次で紹介されている外国人はアンディ・ウォーホルしかいないのですが、
彼の日記の引用がないことです。
「日記の文章の、この文章規範を無視した日本語の面白さこそ、
じつはいちばん読んでいただきたいところなのである。」
日本語の面白さをサブタイトルとする話の貫き方は、ほんとに好きで
書いているなあとしみじみさせられます。
最終に持ってこられた板倉勝宣(1897~1923)の日記の引用は、
ほんとにほんとに好きなおかずは最後に取っておく、そんな楽しみと、
またこの人の観察眼のよさにどっきりさせられてよいです。
彼が何者なのか、またなぜこの日記が最後なのか、理由の一手として
板倉の一文を引きます。

「  
 上高地の月
 
 井戸の中の蛙が見たら、空はこんなに美しいものかと、私はいつも
上高地の夜の空を見るたびに思った。空の半分は広い河原を隔てて、
僅か六町さきのふもとから屏風のようにそそり立った六百山と霞沢岳の
ためにさえぎられて、空の一部しか見ることができない。

―(後略)―



日記を読むのは知的ゲームである、と宣言する著者のしあわせそうな発見だと
思います。
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