昨晩久々に飲んだ。
研究会の懇親会に未練がましく参席して、
桂花珍酒(こんな字だったか、ともかくジャスミンのお酒です)
ソーダ割りなぞ口に運びながら「村上春樹ってエッセイが
面白いですよね」と先生に向って口に出したことを思い出した。
エッセイがおもしろいのはあたりまえのことだ。
本として読ませるための技術があることは当然だが、
他人のやってることならたいがい面白く見えてしまう、
そんなくすぐりが予めかけられている上で、
ふるいにかけられたものが評判を呼ぶのだからこれは
世界的な作家に対してはちょっとフェアじゃない気がした。
ただエッセイは日記じゃない。
まったく普段本を読まないような、携帯電話の打ち込みで
文字をおぼえたような人たちが書く文章、
あるいは、本を読まなくても、何かしら言葉をつかって
考える必要のある人たちが筆を握った時の文は、
文字を読みなれた読者には確かに新鮮なのだけれど、
それもふまえて「見せるためのネタ」意識から
離れられないのがエッセイの限度だろう。ブログもまた然り。
いっぽうで日記は?
こちらはもっと素のにおいがする。
言い換えれば計算も見得もすくないから(無いとは言わない)
好きなように―自分でつくった習慣も含めて―やっている。
何を書いても良し悪しがない。
ただ読むとなると、
『日記を読むことは、混乱を我慢することだ』―グスタフ・ルネ・ホッケさん
これはもうしょうがない。好き勝手やっているその好き勝手っぷりを
読もうと思うのだからしょうがないタハハと笑って
やるしか読み手はできない。たいがい日記の著者はお亡くなりになってるし、
リスペクトは大切なのだ。
そういえば、「1Q84」は「It's only a Paper Moon」の一節から
はじまっていた。ジャズのことばをわかって、使える、
そうしたところがいいのかもしれない。村上春樹は。
研究会の懇親会に未練がましく参席して、
桂花珍酒(こんな字だったか、ともかくジャスミンのお酒です)
ソーダ割りなぞ口に運びながら「村上春樹ってエッセイが
面白いですよね」と先生に向って口に出したことを思い出した。
エッセイがおもしろいのはあたりまえのことだ。
本として読ませるための技術があることは当然だが、
他人のやってることならたいがい面白く見えてしまう、
そんなくすぐりが予めかけられている上で、
ふるいにかけられたものが評判を呼ぶのだからこれは
世界的な作家に対してはちょっとフェアじゃない気がした。
ただエッセイは日記じゃない。
まったく普段本を読まないような、携帯電話の打ち込みで
文字をおぼえたような人たちが書く文章、
あるいは、本を読まなくても、何かしら言葉をつかって
考える必要のある人たちが筆を握った時の文は、
文字を読みなれた読者には確かに新鮮なのだけれど、
それもふまえて「見せるためのネタ」意識から
離れられないのがエッセイの限度だろう。ブログもまた然り。
いっぽうで日記は?
こちらはもっと素のにおいがする。
言い換えれば計算も見得もすくないから(無いとは言わない)
好きなように―自分でつくった習慣も含めて―やっている。
何を書いても良し悪しがない。
ただ読むとなると、
『日記を読むことは、混乱を我慢することだ』―グスタフ・ルネ・ホッケさん
これはもうしょうがない。好き勝手やっているその好き勝手っぷりを
読もうと思うのだからしょうがないタハハと笑って
やるしか読み手はできない。たいがい日記の著者はお亡くなりになってるし、
リスペクトは大切なのだ。
そういえば、「1Q84」は「It's only a Paper Moon」の一節から
はじまっていた。ジャズのことばをわかって、使える、
そうしたところがいいのかもしれない。村上春樹は。