えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

偉大なのはよっくわかるけど

2009年06月27日 | 雑記
昨晩久々に飲んだ。
研究会の懇親会に未練がましく参席して、
桂花珍酒(こんな字だったか、ともかくジャスミンのお酒です)
ソーダ割りなぞ口に運びながら「村上春樹ってエッセイが
面白いですよね」と先生に向って口に出したことを思い出した。

エッセイがおもしろいのはあたりまえのことだ。

本として読ませるための技術があることは当然だが、
他人のやってることならたいがい面白く見えてしまう、
そんなくすぐりが予めかけられている上で、
ふるいにかけられたものが評判を呼ぶのだからこれは
世界的な作家に対してはちょっとフェアじゃない気がした。

ただエッセイは日記じゃない。
まったく普段本を読まないような、携帯電話の打ち込みで
文字をおぼえたような人たちが書く文章、
あるいは、本を読まなくても、何かしら言葉をつかって
考える必要のある人たちが筆を握った時の文は、
文字を読みなれた読者には確かに新鮮なのだけれど、
それもふまえて「見せるためのネタ」意識から
離れられないのがエッセイの限度だろう。ブログもまた然り。

いっぽうで日記は?
こちらはもっと素のにおいがする。
言い換えれば計算も見得もすくないから(無いとは言わない)
好きなように―自分でつくった習慣も含めて―やっている。
何を書いても良し悪しがない。
ただ読むとなると、

『日記を読むことは、混乱を我慢することだ』―グスタフ・ルネ・ホッケさん

これはもうしょうがない。好き勝手やっているその好き勝手っぷりを
読もうと思うのだからしょうがないタハハと笑って
やるしか読み手はできない。たいがい日記の著者はお亡くなりになってるし、
リスペクトは大切なのだ。

そういえば、「1Q84」は「It's only a Paper Moon」の一節から
はじまっていた。ジャズのことばをわかって、使える、
そうしたところがいいのかもしれない。村上春樹は。
コメント
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