――
5月16日、享年88歳。滝平次郎(たきだいら・じろう)がガンで
天に召されていた。つい手前まで、ご存命だったことを、
なぜか悔しく思う。
あとお名前の読み方を間違えていたことも床をだしだし叩きながら悔しくなった。
次々去ってゆく人たちを、惜しく思うのは、それ以上の人たちを、
まだ見出せていない、視野の狭さなのか、後を継ぐもののいない寂しさなのか、
よくわからなくなってきた。
先週本を発見したときは、既にこの世にいなかった滝平次郎。
せっかくの機会(と言っては失礼にあたるか?)、彼の絵の世界をすこし
探検してみようかと思っている。
「うなじと脛やばいよね」よりもそっとマシな思考が出来るように。
――
さて。
まったく滝平氏とは関係の無い「日本の美術館名品展」まで久々に
遠出してまいりました。
北海道から熊本まで本州の美術館のスター達を一時に集めた、
日本人の趣味がモロ分かりのたいへん面白い展覧会です。
「ようもまあ買いあさったなあ」
など憎まれ口の一つでもたたきたくなるほど、前半の洋画家の
集めっぷりはすさまじいのひと言です。
当然ただ無闇に集めたのではないですが、選び方に共通してるのかな、と
思ったのは、たとえば、「水の反映」(ポール・セザンヌ)、
人気の高いユトリロ、「青の時代」のピカソ、
どれも静寂を絵にたたえていると思います。
前に立つと沈黙を強請されるたたずまいの絵が、どうも共通感覚として
あるのではないか、名画の選び方を見ると考えさせられます。
靉光(あいみつ)の「花と蝶」が見られてよかったです。
おととしの展覧会を見逃してしまい、最近好きになり始めて
ちょっとこまっていたのですが丁度良かった。
この人、日本人なのですが、筆さばきはあまり日本人ぽくないです。
どちらかというと、現在のアジアの画家達のような、絵の具に重みのある
よくわからんものをしっかり描く、そうした書き方をする人です。
「眼のある風景」が一番有名なのではないでしょうか。
本展覧会の「花と蝶」は、未完ということもあり、まだあまり絵の具が
載っていませんが、それでも華やかな緑の葉に、クロアゲハの
羽と、血脈のような花びらの蘭が見え隠れする、色の置き方は
並べられたほかの画家よりも異彩がありました。なんか変なんですよね。
あと、後半の「日本画家」のエリアでは片岡珠子にやられてきました。
「面構」の発音のふてぶてしさにふさわしい画家の勢いの前に、
けっこう早足で前を通り過ぎる人々の姿は、あえて眼をそむけているようで、
おもしろかったです。
先々月だったか、初めて眼にした時は「なんじゃこら」と思いましたが、
元気の無い(こら)作品にはさまれている時、そのアクの強さに
かえってすかっとするのです。
「徳川家康公」と「等持院殿」の二点、下膨れの垂れ眼の一見そっくりさん
ですが、家康公が思わずその下膨れにコークスクリューをぶちこみたくなる
堂々としたふてぶてしさに対し、等持院は貴族らしくちょっと腰の引けた、
ずうずうしさへ、やっぱりほっぺに右ストレートを打ち込みたくなります。
特に家康公の目の周りを縁取る白の、迷いのなさは圧巻です。
こうした展覧会は、
追いかけたい画家が増えて困ってしまいます。すぐ忘れますが(おい)
5月16日、享年88歳。滝平次郎(たきだいら・じろう)がガンで
天に召されていた。つい手前まで、ご存命だったことを、
なぜか悔しく思う。
あとお名前の読み方を間違えていたことも床をだしだし叩きながら悔しくなった。
次々去ってゆく人たちを、惜しく思うのは、それ以上の人たちを、
まだ見出せていない、視野の狭さなのか、後を継ぐもののいない寂しさなのか、
よくわからなくなってきた。
先週本を発見したときは、既にこの世にいなかった滝平次郎。
せっかくの機会(と言っては失礼にあたるか?)、彼の絵の世界をすこし
探検してみようかと思っている。
「うなじと脛やばいよね」よりもそっとマシな思考が出来るように。
――
さて。
まったく滝平氏とは関係の無い「日本の美術館名品展」まで久々に
遠出してまいりました。
北海道から熊本まで本州の美術館のスター達を一時に集めた、
日本人の趣味がモロ分かりのたいへん面白い展覧会です。
「ようもまあ買いあさったなあ」
など憎まれ口の一つでもたたきたくなるほど、前半の洋画家の
集めっぷりはすさまじいのひと言です。
当然ただ無闇に集めたのではないですが、選び方に共通してるのかな、と
思ったのは、たとえば、「水の反映」(ポール・セザンヌ)、
人気の高いユトリロ、「青の時代」のピカソ、
どれも静寂を絵にたたえていると思います。
前に立つと沈黙を強請されるたたずまいの絵が、どうも共通感覚として
あるのではないか、名画の選び方を見ると考えさせられます。
靉光(あいみつ)の「花と蝶」が見られてよかったです。
おととしの展覧会を見逃してしまい、最近好きになり始めて
ちょっとこまっていたのですが丁度良かった。
この人、日本人なのですが、筆さばきはあまり日本人ぽくないです。
どちらかというと、現在のアジアの画家達のような、絵の具に重みのある
よくわからんものをしっかり描く、そうした書き方をする人です。
「眼のある風景」が一番有名なのではないでしょうか。
本展覧会の「花と蝶」は、未完ということもあり、まだあまり絵の具が
載っていませんが、それでも華やかな緑の葉に、クロアゲハの
羽と、血脈のような花びらの蘭が見え隠れする、色の置き方は
並べられたほかの画家よりも異彩がありました。なんか変なんですよね。
あと、後半の「日本画家」のエリアでは片岡珠子にやられてきました。
「面構」の発音のふてぶてしさにふさわしい画家の勢いの前に、
けっこう早足で前を通り過ぎる人々の姿は、あえて眼をそむけているようで、
おもしろかったです。
先々月だったか、初めて眼にした時は「なんじゃこら」と思いましたが、
元気の無い(こら)作品にはさまれている時、そのアクの強さに
かえってすかっとするのです。
「徳川家康公」と「等持院殿」の二点、下膨れの垂れ眼の一見そっくりさん
ですが、家康公が思わずその下膨れにコークスクリューをぶちこみたくなる
堂々としたふてぶてしさに対し、等持院は貴族らしくちょっと腰の引けた、
ずうずうしさへ、やっぱりほっぺに右ストレートを打ち込みたくなります。
特に家康公の目の周りを縁取る白の、迷いのなさは圧巻です。
こうした展覧会は、
追いかけたい画家が増えて困ってしまいます。すぐ忘れますが(おい)