えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

金谷治:「荘子 第一冊[内篇]」読了

2009年06月30日 | 読書
読書記 岩波文庫「荘子 第一冊[内篇]」 金谷 治訳注

:なんとゆーか、やっぱり漢字萌えはあるかもしれない。
電車のコトコトと直射日光に当てられてひいこらしながら読みすすめている。
 荘周、字は子休。紀元前4世紀後半、戦国時代の宋国の蒙-現在の河南省商邸県の生まれである。中原、徐州の西にあたる。「史記」より彼の列伝を引くと、『かれの学問はひろく、あらゆる学派の説に通じていた。けれども根本的な点では老子の説いたところにおちつく。―中略―かれのことばはどこまでのびるか知れぬほどで、自由自在であった。だから王・公・大人たちも、かれの器の大きさをはかりかねたのだった。』(岩波文庫 史記列伝一:小川環 今鷹真 福島吉彦訳より)楚の威王に招かれても、自由を選んで行かなかった。万物斉同、すべてのものが等しくその立場を同じくする絶対の位置からものを見ようとし、考え、ことばを残したひとだった。と思う。
 むずかしいことはとりあえず脇に置いておくとして、「荘子」は全33篇から成り立ち、時代と共にいろいろな要素がまぜこぜになっている。そのうち「内篇」にあたる7篇は、元を辿ると前漢末-紀元8年ほどまで遡れるためこれが最も原典に近いのではないか、と言われている。ということは、語感も一番古い型が残ってるんじゃないだろうか。
 「養生主篇」にこんな一文がある。

手之所觸、肩之所倚、足之所履、膝之所踦、
砉然嚮然、奏刀騞然

手の觸るる所、肩の倚る所、足の履む所、膝の踦つる所、
(てのふるるところ、かたのよるところ、あしのふむところ、ひざのたつるところ、)
砉然たり嚮然たり、刀を奏むること騞然たり
(かくぜんたりきょうぜんたり、とうをすすむることかくぜんたり)

 この巻ではこれがいちばん好きな一文だ。王のために牛を捌く庖人の仕草を描写した一文である。牛の骨と骨の間に刀を入れ、手足をふんばり肩を入れるさまの滑らかさ、ざくざくと切り落とす音がまるで音律のように整然と響くさまが、見事に漢字へと変換されてるのだ。「奏刀騞然」がいい。刀を奏でると言う表現に、カクゼンという音がぴったりと寄り添っている。動きが舞い、刀が楽器、やさしい組み合わせの文章なのに、口で読むとはっとさせられる。明らかに古文なのだけれど、後の漢字の組み合わせ方すら計算的な技巧をこらした華やかな詩や散文よりも、ずっと力強く脈打つリズムがある。「内篇」は、意味を深く考えてゆくととても読みきれないほど、含蓄のありすぎる話ばかりなのだが、そのことばの調子は切れがよく快い。金谷治さんの訳と書き下し文に感謝!

コメント
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