いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

活字離れの妄想。 wildfancies to become estranged from a movable type

2018-11-03 19:59:00 | 日記
 (1)読書週間恒例の学校読書アンケートで高校生になると1か月の間の不読率は本で56%、雑誌で66%と過半数を占めた。これを高いと見るのか、スマホの時代で本で44%、雑誌で34%が何かしら読んでいるとみればそう悲観的な数字でもない。

 どんな時に本を読みたくなるのかには「ひまな時間ができたとき」が61%と高く、何もしないよりは本でも読んでみようかと思うことがまだ知識欲が高いことをうかがわせて、活字離れが指摘されて久しいがそう悲観することもない結果とみる。

 (2)毎日何がしかの話題を書く立場からすれば、本を読むよりはモノを書くほうが創造力、想像力、知識力、構成力、発散力、気力が高まり、精神的に充実感が高まる傾向は強い。記事を書いてほしい。

 通常好きな本、興味を持った本は一気に読みたくなる、読み切ることが多いが、本は完読するのに一定の時間を要して読みつないでいくことが普通で話の流れがスパンで途切れることで持続力(sustainability)、根気を要して、よほどの気力、忍耐力でもないと読み切ることがむずかしい。

 (3)書くことは全体の構想力、構成力がまずあって、それをどう現実のものにするかはその先は未知の領域であり、どうにでも展開することが可能で無限の可能性を秘めているだけ持続力は高くなる。

 よく活字離れといわれるが、情報化時代、社会の中で新聞、本、雑誌など紙ベースのメッセージ能動的探索型からケイタイ、PC、スマホ、タブレット文化による電子技術によるメッセージ受動的分析、分類型の形態文化の変化を指していうことが多い。

 (4)メッセージ情報への形態がどう変わろうとメッセージ情報を識別認識するのは信号ではなくやはり言語感覚、活字であることには変わりはない。ひらがな体であろうと漢字体であろうとカタカナ体であろうと目からであろうと耳からであろうと脳内処理としては活字として識別認識、理解していることにはかわりはないのだから、活字離れというのもふさわしい表現なのかは問題だ。

 むしろ紙ベースの活字文化の煩雑さ、わずらわしさ、めんどうさよりはタブレットのスピード、変化、操作の時、場所を選ばない自由性、利便性、気楽性が好まれるのは当然で、しかし活字離れというのはタブレット文化の自由性、利便性、気楽性を「誤認識」する錯覚文化として考えられているのではないのかと思うことがある。本は活字でタブレットは信号、シグナルだと。

 (5)実は活字離れは文化、脳力、能力の中では存在しないものであり、それは読むよりは書くことで知識欲、知的能力の充実感、達成感がより生まれることで実感することだ。
 活字は言葉とともに重要で基本的な文化的伝達方式であり、活字離れの妄想(wildfancies to become estranged from a movable type)から脱却しなければならない。

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