(1)またも出た大相撲横綱による暴力事件だ。今度もモンゴル出身の横綱が酒席で説教中の関取の頭をビールびんで殴って頭部を骨折させたと報じられている。
これが10月下旬のことで、すぐに警察に被害届が出されながら日本相撲協会が公にしたのが昨日で相変わらずの問題隠し、無責任体質だが、ここで問題にしたいのは横綱の心技体、とりわけ要求される「品格」(dignity)についてだ。
(2)大相撲は国技とされて国から支援も受けて長い古い歴史を持つプロスポーツだ。かっては日本人力士だけが資格者とされてきたが、近年の力士志望者が減ったことを受けて日本相撲協会が外国人にも門戸を開いた。
近代的プロスポーツの流れに沿ったものではあるが、日本の国技とされる大相撲なので他のプロスポーツのように日本の実力を高めるために本場海外からの秀でた選手の獲得を進めるものと違って、そもそも志望者の減少対策としての外国人への門戸開放だった。
(3)日本相撲協会としては海外からの入門者を受け入れても国技としての伝統の日本人力士の優位性(priority)は動かないと見ていたのではないのか。つまり番付上位力士は日本人力士で占めて、心技体、品格維持に問題はないと見ていたのではないのか。
ところが力士の高給取りに魅力が集まったか、モンゴルを筆頭に外国人力士が急速に力をつけて番付上位を独占して現在の横綱4人中3人がモンゴル出身の横綱で占められている外国人力士の優位時代だ。
(4)近年の日本人力士でも大相撲の心技体、品格など身につけるのはむずかしい中で、外国人力士の姿、形は大相撲力士、横綱でも生まれた海外での文化、生活観はあきらかに日本人とは違って、違って当然で通常の国際化はそういう価値観、理念、信条の違いの特性を融合させて「あたらしい」文化、理念をつくりあげるのが国際化であり、国際協調社会の姿だ。
しかし大相撲の国際化は古い日本の伝統、歴史、文化の大相撲観に海外出身者をはめ込むことだった。これが国技としての大相撲をせめて守る手段となっていた。
(5)しかし日本相撲協会が自ら外国人に門戸を開いた時点で、国技としての大相撲は姿を変えて国際プロスポーツ化していたのだから、、それまでの古い理念、信条、文化は通用しなくなることを覚悟して「あたらしい」基準を考えるべきであった。
品格でいうなら、ある親方が「力士は土俵上では相手を張ったり、けたぐりもしたりするが、土俵を下りれば模範を求められる」(報道)と人格のむずかしさを述べている。
(6)たとえばプロボクサーはリングを下りれば、「パンチ」は殺人兵器、凶器(weapons)とみなされるというのが一般的観念、司法の判断であり、人より強い身体的個性、能力を社会も自らも抑制することが働くことが常識として求められることが一般化している。
大相撲としても技量にともなう品格について、個人の能力だけに求めることでなく「社会」、司法が求めて抑制が働くことが一般化することも大切だ。
これが10月下旬のことで、すぐに警察に被害届が出されながら日本相撲協会が公にしたのが昨日で相変わらずの問題隠し、無責任体質だが、ここで問題にしたいのは横綱の心技体、とりわけ要求される「品格」(dignity)についてだ。
(2)大相撲は国技とされて国から支援も受けて長い古い歴史を持つプロスポーツだ。かっては日本人力士だけが資格者とされてきたが、近年の力士志望者が減ったことを受けて日本相撲協会が外国人にも門戸を開いた。
近代的プロスポーツの流れに沿ったものではあるが、日本の国技とされる大相撲なので他のプロスポーツのように日本の実力を高めるために本場海外からの秀でた選手の獲得を進めるものと違って、そもそも志望者の減少対策としての外国人への門戸開放だった。
(3)日本相撲協会としては海外からの入門者を受け入れても国技としての伝統の日本人力士の優位性(priority)は動かないと見ていたのではないのか。つまり番付上位力士は日本人力士で占めて、心技体、品格維持に問題はないと見ていたのではないのか。
ところが力士の高給取りに魅力が集まったか、モンゴルを筆頭に外国人力士が急速に力をつけて番付上位を独占して現在の横綱4人中3人がモンゴル出身の横綱で占められている外国人力士の優位時代だ。
(4)近年の日本人力士でも大相撲の心技体、品格など身につけるのはむずかしい中で、外国人力士の姿、形は大相撲力士、横綱でも生まれた海外での文化、生活観はあきらかに日本人とは違って、違って当然で通常の国際化はそういう価値観、理念、信条の違いの特性を融合させて「あたらしい」文化、理念をつくりあげるのが国際化であり、国際協調社会の姿だ。
しかし大相撲の国際化は古い日本の伝統、歴史、文化の大相撲観に海外出身者をはめ込むことだった。これが国技としての大相撲をせめて守る手段となっていた。
(5)しかし日本相撲協会が自ら外国人に門戸を開いた時点で、国技としての大相撲は姿を変えて国際プロスポーツ化していたのだから、、それまでの古い理念、信条、文化は通用しなくなることを覚悟して「あたらしい」基準を考えるべきであった。
品格でいうなら、ある親方が「力士は土俵上では相手を張ったり、けたぐりもしたりするが、土俵を下りれば模範を求められる」(報道)と人格のむずかしさを述べている。
(6)たとえばプロボクサーはリングを下りれば、「パンチ」は殺人兵器、凶器(weapons)とみなされるというのが一般的観念、司法の判断であり、人より強い身体的個性、能力を社会も自らも抑制することが働くことが常識として求められることが一般化している。
大相撲としても技量にともなう品格について、個人の能力だけに求めることでなく「社会」、司法が求めて抑制が働くことが一般化することも大切だ。