筑豊

2015-04-10 08:53:45 | 旅行
新飯塚の勝盛公園にあったSL↑

公演「エッグ」観劇後、夜行バスで博多に行ってきました。あ、「エッグ」の感想で書いた姑は舅の間違いです。長文は訂正が面倒なのでここで訂正します。毎回必ず訂正箇所がありますが、本当に面倒臭いのでごめんなさいm(__)m

もちろん、目的は、念願だった親父のルーツを辿る旅です。

戸籍謄本に記載されている出生地をもとに、親父が生まれ育った土地と母校のある土地に行って参りました。

出生地は、実は田川じゃなかったんですよ。戸籍謄本には嘉穂郡横田と記載されていて、ネットで調べたら今は飯塚市に変わってるんですよ。

飯塚市横田で検索して、最寄り駅が新飯塚だと分かり、博多駅から先ずは新飯塚駅に向かいました。

元々この土地は嘉穂郡なので、その名から取ったと思われる嘉穂劇場に行ってきました。


この日は公演がなかったんですが、劇場見学ができるということで三百円払って見学してきました。

古い歌舞伎小屋みたいな建築で、座敷席に、上手下手に花道があり、舞台には手動式の盆もあり、セリもスッポンもありなかなかの舞台設備でした。

舞台から客席を望む光景を写メしました。↓


奈落にも入れたので、手動式の盆の設備も見ました。充電が僅かだったので、たくさん写メ出来なかったので写真はないです。

劇場を後にして駅にむかう途中に見えたのが、

ボタ山です。

五木寛之さん原作の「青春の門・筑豊編」に出てくるボタ山とは違っていて、ボタ山で画像検索すると多く現れるのがこの飯塚市のボタ山です。

唯一現存するボタ山だと地元の方が言ってました。

間違いなく、親父はこのボタ山を見て育ったので記念に…。↓


個人的にはボタ山と言ったらこの山じゃないんよね…。映画で観たボタ山とは全然違うから貫禄がないというか…。そりゃそうだもんね、原作のボタ山は田川市だから。

親父の生まれた横田は存在するんですが、一応時間配分を決めて移動していたので、時間がなくて横田には行ってません。

新飯塚近辺はバスも通っているので田舎田舎してなかった。博多から新飯塚に向かう途中は田舎田舎の雰囲気がありましたが、新飯塚は全然立派な街でした。

で、次に向かったのが、親父の母校の高校があった田川井田です。

今はなき田川東高校の跡地に立つ石碑を写メしました。↓


で、なんと、私が求めていたボタ山が!!!すぐ左後ろに!!!それがこれっ↓


この平な部分が綺麗に削られた跡です。角度が正面で面白味に欠けますが、魅力的な角度は建物が邪魔して写メ出来なかったんですよ(涙)理想は斜め45度に3つの山が微妙にズレて重なった姿を写メしたかったんですが、移動手段が歩きだったので、この写メを撮るだけでも時間が掛かったので諦めました。って以前に、充電が切れて充電出来る場所を探すので必死だった(涙)携帯ショップは見つからなかったですが、駅から数キロ歩いた所にマクドがあったので、そこまで歩いて、腹ごしらえも兼ねて充電をして、再び絶好なポジションをさがしてましたが、これが精一杯でした。全く同じ角度ですが…。↓


間違いなく、親父はこの平の部分の上部がある状態を見ていた訳だから、めちゃくちゃ嬉しかった。

映画のボタ山とはまた違うのかもしれないけど、この山に出会えただけで十分幸せでした。

実は夕方から本命の目的であったので、駆け足で(実際は走ってないですよ)移動&散策しましたが、親父が学生の頃は新飯塚駅(当時は別の駅名だと思いますが…)そこから田川東高校まで電車(汽車)で通っていた姿が想像できたので、運命のお導きに感謝!

実は、「エッグ」の日は希望休みで、他の日はまたもや広島に行くので、希望休オーバーしてたんですよ。なのに、なのに、広島に行く連休とは別に何故か三連休も頂きました!うちの上司は神様とグルなのか!?と疑ってしまったほど(笑)←そんげんなことなかばい←これ熊本弁!?(笑)偶然にきまっとるたい!←博多弁のつもり(笑)

これ本当に神様の導きだと思ってるんですよ。親父のルートを辿る旅はしたかったけど、行くきっかけがなかった。交通費も東京と違って高いし。学生の時は九州に友達がいたので何度か雑魚寝でフェリーを使って小倉や大分まで行ってました。学生の頃は時間がたくさんあったから、ゆっくり行けたけど、社会人になったら、簡単に1週間も休めないやん。

だから希望してない三連休はめちゃくちゃ貴重だったし、博多に行きたかった日を含む三連休だったし、その上、夜行バスもネット検索したら格安があったので今回はそれを利用しました。だから、本当に絶妙なタイミングで博多に行けて、田川に行けて嬉しかった!

本当はね、誰かに誘われて導かれて行くんだと思ってたんだけどね…。まさかの一人旅でした(笑)

今回はもちろん親父のルーツを探す旅でもあるにはあったんですが、結果的には、母親の心理を知りたくなる旅の終わりでした。

ここからメンヘラ発言が含まれるのでご注意下さいね。

私の両親は見合い結婚で、親父は大学進学を機に、何故か母親(私の祖母)と一緒に神戸に引っ越してきたんですよ。そのまま就職してオカンと結婚して兄貴が生まれ、私が生まれる前に西宮に引っ越してきたんです。西宮の方が親父の職場に近かったからもあったとは思うし、神戸の家はアパートで二人の子供を育てるには狭かったもあるとは思うんですが…。ちなみに西宮に引っ越した時には祖母は親父の兄が住む埼玉で同居してました。ちなみに秩父ね。

親父は暴力夫だから、オカンは兄貴を連れて家出をしたこともあったんですよ。生活が出来ないから結局は戻ってきたとオカンが言ってました。私が物心ついた時からもずっと暴力夫だったから、私が物心つかなくても暴力夫だったと思うんですよ。オカンは親父と別れたくて仕方なかったはずなのに何故私は生まれてきたのか、ふと疑問に思った訳であります。

思わなくていい疑問なんだけど、ぶっちゃけ、私って望んで生まれてきたのかな…?って、それを想像すると何故か悲しくなってきました。

今まで考えたことなかった疑問がふと湧いたんですよ。叔母にそれとなく訊いてみようかなとも思ったけど、訊いたらまたおかしくなったと思われそうだから訊かないけど、ぶっちゃけのぶっちゃけ、めちゃくちゃモヤモヤしながら帰宅しました。

でも、今このブログを書いていたら、そんなのどうでもいいわ!と開き直りました(笑)だって母親も父親もいないから訊けないやん。親戚に確認したら、なんでそんなこと訊くの?自殺するんじゃないの?と間違いなく病気扱いされること必至だから、もう思わないことにしました。

たとえ望んで生まれてこなくても、たとえ愛を渇望して生まれてきたとしても、人生は愛することを学ぶために生きているんだと改めて思い直したので、疑問に思うのやめました。いつか、その疑問の解答も分かる日が来ると思ってます。だって田川に行ってボタ山見れたんだから。

もうついでに書きますが、

オカンは亡くなるまでずっと苦労人で、親父の給料だけでは生活出来ないから、仕事を3つ掛け持ちしてました。今だから分かることだけど、精神的ストレスを抱えていたから、私が小さい頃は顔面神経痛で苦しんでました。そのために新興宗教にはまったんです。亡くなるまでその宗教に尽くしてました。だから余計、親父の暴力は病気するまでは増す一方だった。親父は共産主義者みたいに、神様を信じない人だったから。オカンが神棚に食事をお供えする時も、人間に先に食わせるのが当たり前やろ!的考えの人間だったから、本当に喧嘩と暴力が絶えない家庭だった。

オカンも意地を張って宗教やめないし…。

結果的には、私はどちらの言い分も理解する羽目に陥ったけど、最終的には、私も神様の存在を信じることで少しは人生が楽になった。

オカンの信仰心も、最初は子供の私からしても矛盾がある態度を取っていたけど、亡くなる10年は献身的な人になっていて宗教の枠を超えて人望が厚かった。ダンカンさんの亡くなれた奥さんみたいな人だった。本当に誰にでも献身的だった。

オカンからはずっと美輪さんみたいなことを聞かされていたんですよ。兄貴には結婚を勧めていたけど、私には全くではないけど勧めなかった。その代わり、「たくさん苦労してきたんだから、人の役に立つ人間になりなさい」とずっと言われてきました。

だから、このブログを書いているんだと、いや書かされているんだと私は思ってます。めちゃくちゃ私の家庭環境を暴露しまくってますが…。

自分のために書いているブログですが、誰か一人でも心の助けに…なっていたら嬉しいです。

ぶっちゃけ、私も毎日自分と闘ってます。自分を見失わないよう奮闘の日々です。私より大変な方もおられるかと思いますが、どうか自分に負けないで下さい。泣きたい時は思いっきり泣いていい。でも、笑いたい時も思いっきり笑える自分でいてね!

今日のまとめ:いつものごとく、意味不明文章をお許し下さいm(__)m

何故、博多に来たか?興味がある方は、シャーリー・マックレーン著書の「アウト・オン・ア・リム」がヒントです。この本、私が言いたいことと同じことが書いてあってビックリ!

最後まで読んで下さった方への私からのおまけ写メ。

嘉穂劇場のホリゾントの壁に置かれたフクロウの巨大な置物(?)↓


田川井田駅前にある風治八幡宮の御神木↓


皆さんにハッピーが訪れることを祈って…。