諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

瀬織津姫は水神であり、疱瘡神であると思う。その5

2019年06月20日 20時58分11秒 | 瀬織津姫
とんだ脱線をしてしまいました。

私のブログは計画性も無く考えながら、行き当たりばったりで書いていますので、毎回、こんな感じになります。すまんです。それではヘロヘロながら続きます。

浪分神社の白馬に乗った海神に戻ります。

白馬に乗った海神。海神かどうかは分かりませんが、塩竃に白馬に乗った神がいました。志波彦神です。

志波彦神は白馬に跨り川を渡った。白馬は川の石に滑り転倒。志波彦神はその拍子に頭に被っていた冠を川に流してしまった。それにより、その川は「冠川」と呼ばれるようになった。それが現在の七北田川でです。

七北田川は不思議なくらい川石が少ない。伝承では志波彦神が川石に躓いて冠を流したことに怒り、部下の神々に川石を川から退けさせた。だから川石が無くなったとされます。

事実、仙台地下鉄・八乙女駅から橋を渡った七北田川の対岸に、部下の神々が川から上げた石を置いたとされる場所があります。その場所には現在、武烈天皇を祀る石留神社が鎮座しています。これは何を意味しているのか。

大和朝廷と蝦夷との戦いで、大和朝廷側は自分達の戦死した兵士を冠川(七北田川)に流したとの伝承があります。

もしかしたら、川石に引っかかって流れなかったのでは。それで蝦夷兵が川石を川から上げたのでは。その事実を隠す様に志波彦神が川を白馬で渡って転んだ話に変えたのではないか。

でも分からないのは石留神社に武烈天皇が祀られている事。

武烈天皇が即位したのは確か10歳。そして17歳前後で無くなった。後継者を残していなかったので、次の天皇には出雲の流れにある継体天皇が就いた。

武烈天皇は記紀において名君である話と、カリギュラ皇帝のような変態じみた性格だったとの話が伝わっている。その点をどう考えるか。

一つの解答として石留神社は二柱神社の境内外の末社である事を考えなければなりません。

石留神社の近くには同じ二柱神社の境内外社の高玉明神が祀られている社がある。宇迦魂神、つまりお稲荷様が祀られているが、高玉とは番町皿屋敷のお菊さんと全く同じ殺され方をした少女の事。

私は以前、この高玉明神の伝説だけでなく、番町皿屋敷のお菊さんも瀬織津姫がモデルであるとしてブログに書きましたが、それは今も間違いではないと思っています。

正確には賽の河原で死人の衣服を脱がせ、木の枝にかけ、枝のしなり具合でその死者の罪の重さを計った奪衣婆から番町皿屋敷等々の話が創作されたのは間違いないでしょう。衣類も皿も一枚、二枚と数えるので。

そして奪衣婆は川で人々の祓い清めの手伝いをしていた人間の女性がモデルなのは、学術的には正しいと思う。

祓い清めは神道的な儀式。仏教から見たら異教。だから恐ろしげな奪衣婆を登場させたと考えられる。高玉伝説、番町皿屋敷の話もそう。これは仏教の優位性を高める為に、神道の儀式を貶めた話なのだと思う。

それプラス武烈天皇を変態としてでっち上げ、蝦夷の神である志波彦神の部下としたのではないだろうか。

お笑いタレントの鹿野英孝の先祖は、この武烈天皇の側近です。約1500年前、武烈天皇の失脚、或いは暗殺を機に、鹿野英孝の先祖は宮城県の栗原市まで左遷された。だから鹿野英孝の実家である櫻田山神社では武烈天皇を祀っている。

何で櫻田山神社に「桜」の字が付くのか。元々は「櫻田」の地にある山神社だから「櫻田山神社」となったらしいが、だとすれば大山祇神が祀られている筈。大山祇神の娘は木花開耶姫だからそれなら説明が付く。


話を高玉明神に戻します。

この高玉明神がある七北田川で当時の人間・瀬織津姫が祓い清めをしていた可能性が高いと思う。祓い清めは川でするものですし。

そして忘れてならないのは二柱神社。神仏習合時代は仁和多利大権現と称していた。つまり鬼渡神を祀る神社だった。

代表的な鬼渡神は阿須波神。そして阿須波神は志波彦神と考えて良いと思う。

志波彦神を信仰していたのは蝦夷。そうなると祓い清めの儀式は蝦夷の文化であり伝統。つまり人間・瀬織津姫は蝦夷だったと考えられるのではないか。


続く。




コメント
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