今回は私も何と表現して良いのか分からないお話です。
私は神社で佇み浄化されるのが好きなのですが、中には長いく居られない神社が存在します。
以前、神を体感したいと私の宗家が使えた征夷大将軍を祀る神社に、丑三つ時に訪れました。そう言う不謹慎と言うか、神を試す行為をした為、50歳前後の菅原文太似の幽霊と対峙する事になりまして、喜び半分、怖さ半分で逃げてきた事があります。
幽霊を確認する。幽霊が居るのだから神も存在する。それは大変嬉しかった。
その反面、幽霊の表情から私を歓迎していないのが感じられた。やはり人を祀っているとは言え神社は神社。霊場には違いない。その土地から得体の知れない気が立ち込めている。それが時間帯等で良にも禍にも変化する。それをあの幽霊は教えてくれた様に想えます。
まぁー何と言うか、神社には長居は無用と言うか、長く居れる神社と早々に立ち去るべき神社が有ると思います。
どう説明したら良いのか分かりませんが、自分を受け入れてくれる神社と、そうでない神社が存在する。それはどう言う意味なのか。
私、神社は温泉に似ていると思うのです。
自分にとって熱過ぎる、温過ぎる温泉がある。長くは入っていられない。熱ければのぼせるし、温ければ風邪を引く。そう感じる神社がある。
反面、心地良くで何時までもその場に留まりたい神社も存在する。そう感じたのに、次に行ったら恐怖心を感じたりもする。その時々で雰囲気が変化する。やはり温泉みたいです。
神社には神職が滞在して結界を張り心地良く鎮まって居るとしても、夜には一変する。夜は死の世界。やはり夜に参拝すべきではない。
そして人によっては拒まれる事がある。
特に私の様な神殺しの家系の者は、安易な気持ちで参拝してはいけない。パワースポットとは言っても、霊場は霊場。懺悔と畏怖の気持ちが必要。
天皇家だって1000年の間、伊勢神宮には立ち寄らなかった。伊勢神宮に後ろめたさと恐怖、そして畏怖を感じていた。
それでも行くのであれば懺悔と感謝の気持ちが絶対に必要。何も考えずにご利益を得たいが為に行ったら、怒りを買うだけの様に思えます。
うーん、やっぱり表現が難しい。うーん。
私にとって神社は畏怖を覚える場所でもある。
温泉に入って「極楽、極楽」と人は発するが、「極楽」とは浄土の事であります。つまり死者の国です。
神社も霊場。死者の国。それは極楽でもあり地獄でもある。だからこそ、畏怖の気持ちが大切。
人は死んで浄化し生まれ変わる。その疑似体験、否、違う。神社の鳥居をくぐれば、その人は死者と成る。死んで浄化して現世に戻ってくる。それが神社であると思う。だからこそ畏怖を感じなければならない。
畏怖。先ずは畏怖。それが神社を参拝する上で一番重要な事だと思います。
今一、私も把握が出来ていませんが・・・・・。
ではでは。