平成24年10月13日 10:00~
廣瀬臺山(ひろせたいざん)の200回忌記念展を開催している旅館「お多福」を訪れる。
廣 瀬 臺 山 略 歴
廣瀬臺山は宝暦元年(1751)、津山藩士廣瀬義平の長子として生まれた。
儒学を細合半斎に、書を岳玉淵に、画を福原五岳について学んだ。
敬愛する藩主松平康哉のために草したとされる『文武雅俗淫渭弁』(ぶんぶがぞくけいいベん)は、36歳の時に著わしたもの。老荘釈教の教えを斥けて、もっぱら熊沢蕃山・貝原益軒の学の必要を説き、為政者が持つべき思想の本質について熱く語っている。
江戸の文人達との交友は広く、老中に就任した白河藩主松平定信や米沢藩主上杉鷹山などの諸大名から、雲室・片桐蘭石・松崎慊堂・谷文晁・菊池五山・大窪詩仏まで、当時一流の文人たちと交わった。
また寛政の三博士と呼ばれた古賀精里・柴野栗山・尾藤二洲など大学者にもよく知られており、当時の臺山はまさしく作州津山藩の顔で、もあった。
その臺山は日常生活の中において「詩・書・画」の研績に情熱を注ぎ、特に「詩は志をいうもの」との立場に徹して、文武兼備のサムライとして本分の啓蒙に勤めた。
また臺山の画はその人格から、秀麗にして重厚、品格ある山水画を主なるものとしている。
なお、霊山はその人生のほとんどを江戸勤めで過ごしたが、晩年の文化八年(1811)津山に帰国し、二年後の文化十年(1813)に歿している。
旅館「お多福」
創業以来、80年を越える旅館「お多福」には、郷土の偉人・先人の遺墨や書簡など、多数の作品を収蔵する「作州維新文庫」があり、貴重な書画を中心として館内に展示保管されています。
お多福旅館名物料理:ケンケン鍋(キジ鍋料理)初秋~晩春の季節限定料理(予約が必要です)