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ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

蒼ざめた馬をみよ 五木寛之

2010-01-13 08:58:00 | 
若い頃、夢中になっていた作家は幾人もいるが、40も半ばを過ぎてから再読してみて、やるせない恥ずかしさを感じさせるのが五木寛之だ。

文章が下手なわけではない。ストーリーの展開も上手いし、情緒の揺らめきを描くのも達者だ。決して文章力がないわけではないと思う。

にもかかわらず、否定的な思いに懸かられるのは、その世界観の底の浅さや、気取りすぎと吐き捨てたくなる軽薄さにある。

もちろん、同情すべき点はある。たしかにあの時代、社会主義は輝ける理想像であった。堕落した金満国家アメリカが如何に華麗なネオンを輝かせようと、社会主義の毅然とした立ち姿には憧れを禁じえなかった。

あの頃のソ連の姿は、決して裕福には見えなかったが、ボロをまとえど心は錦。平等な社会という人類史上一度として実現できなかった理想を実現しつつある社会として、世界の知識人たちの垂涎の地であった。

あまりに輝かしい理想に目を奪われて、その背後に隠された暗く残酷な現実を見過ごしていたのは五木寛之だけではない。進歩的文化人と称された多くの人たちが、同様なものであった。もちろん、まだ子供だった私もその一人であった。

その後のベルリンの壁崩壊で、世に曝された社会主義の惨状が、若き日の情熱に冷や水を浴びせたのは、或る意味残酷でさえあったと思う。

大江や小田、笠、小中といった進歩的文化人たちは、よっぽど面の皮が厚かったのか、それでも自分たちの行動は正しかったと開き直った。その態度は醜悪であり、むしろ左派の衰退を加速させ、若い支持者を失わせる結果となった。

私の政治への関心の第一歩は間違いなく左派の立場からであったから、その意味では進歩的文化人と大差はない。ただ、過去の稚拙さを恥じる気持ちを持ち合わせていることが大きな違いだと考えている。

別に謝れなんて言わないが、過去の判断の誤りを認める程度の良心はあってしかるべきだと思う。

そこで、左派文化人のスターの一人であった五木寛之だ。私の知る範囲で、この人が過去の過ちを詫びたり反省しているとの文は目にしたことがない。

昔から格好つけるのが好きな人だったから、過去の過ちや稚拙さを認めるのが嫌なのだろうか。あのような見方も当時は可能だったと強弁したいのだろうか。

かつて高校生の頃、夢中になって読んでいた読者の一人としては、憮然となるのを禁じえない。

表題の本は、若き五木寛之の代表作の一つ。旧・ソ連の暗黒部分を告発した本を、日本人青年が持ち出し、苦労の末西側で発行し、その結果作者は処刑された。しかし、その背後には共産体勢を誹謗する西側情報部の作戦があったとすることで、東よりも西側のほうが悪辣であると言いたいのでしょう。

要するに、当時鉄のカーテンの向こう側から漏れてきた東側社会の惨状を押し隠すための情報工作の一端を、五木寛之が担ったということだと私は憶測しています。

社会主義体制を美化していたい進歩的文化人には、願ったり叶ったりの本であったことは間違いないでしょう。今更、再読するだけの価値はないと思いますが、あの時代の自称良心的日本人がどのように事実を隠し、事実をそのままに認識することを避けていたかを知るには、適切なものだと思いますね。
コメント (4)
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