ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「友愛」に思うこと

2010-01-06 06:50:00 | 社会・政治・一般
「愛してる」なんて、男が口に出せるか!

十代の頃は本気でそう思っていた。彼女がその言葉を欲しているのは分っていた。心のなかでは何度もつぶやいた科白でもある。それでも口に出して言えなかった。

これだけが原因だとは言わないが、彼女に去られてもなお、「愛してる」は言えなかった。口には出さなくても、心の中では真剣に愛していたのは確かなのだから、それで分って欲しかったなんて、男の甘えに過ぎない。

そのことが分ってきたのは20代も後半になってからだ。でもなかなか実行には移せなかった。

呆れたことに、平然と「愛してる」を口に出来るようになったのは、30代に入りキャバクラなどの風俗店で遊ぶようになってからだ。身体が欲しいが故に、平然と口に出来るようになるとは思いもしなかった。

まあ、相手にされなかったが、本当に愛しているわけでもない相手にこそ「愛してる」を口に出来るとは、我ながら不思議な気持ちだった。まったくもって不誠実であることは間違いない。

今、政治の世界で平然と「友愛」などという言葉を恥ずかしげもなく口にしているのが、我が国の首相様である。よくもまあ、臆面もなく口に出来ると呆れたものだ。

よくよく想像して欲しい。「友愛」なんて言葉を平然と口にする家庭用警報機の営業マンが自宅にやってきたらどんな気持ちか。あるいは「友愛」を看板に掲げた競馬等の公営賭博場を思い浮かべてもらってもいい。

胡散臭くないかい?

国家あるいは政府というものは、表向き如何に公正明大であろうと、裏では汚いこともやらねばならない。綺麗ごとだけで済むほど軽い責任であるわけない。国民の生活、安全、幸福に責任を持つが故に、汚いないこともやらねばならない。

「友愛」を掲げて治安維持が出来るのか?「友愛」振りまいて苛烈な外交交渉に臨めるのか?「友愛」口にしながら犯罪者を取り締まれるのか?

友愛を蔑むつもりはないが、友愛が万能薬でないことぐらい誰だって分ろうってもんだ。もちろん、堂々と友愛を実行せねばならぬ時もあるだろう。そこまで否定する気もない。しかし、友愛では片付かないことだって、最高責任者である以上必ずある。

市場経済の世の中では、政治活動をするのに資金が必要不可欠だ。多くの政治家及び政治家志望者は、この資金を如何に得るかで苦労する。嫌いな相手に頭を下げ、理想とは相反する政策にも耳を傾け、現実に妥協しながら政治資金を手にする。政治資金の獲得は清潔でもなく、公正でもなく、どぶ泥のなかに手を突っ込んでようやく手に入れるものだ。

しかし、日本有数の富豪であるママの優しい援助のもと、薄汚い政治資金獲得に手を染めることなく政界を渡ってきたお坊ちゃまには、この現実が目に見えない。

だから平然と「友愛」なんて綺麗ごとで政治が出来ると錯覚する。

若い頃は自らの未熟さから「愛してる」を口に出来なかった私は、年齢を重ねて面の皮が厚くなり、目的の為の手段として「愛してる」を口に出来るようになった。

でも、本当に心から愛している相手に「愛してる」を口にすることの責任の重さと覚悟を知ってしまったがゆえに、大事な時に口にできなくなった。

言葉は大事に使って欲しいもの。「友愛」は本来とても大事なことだ。にもかかわらず、安易に使うことは却って「友愛」を辱めることでもある。真面目さや誠実さだけで許されることではないと思う。
コメント (4)
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