ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

入れ墨に思うこと

2018-09-20 13:40:00 | 社会・政治・一般

嫌なものは嫌!

こう言われてしまうと、どうしようもない。

数年前の事だが、あるSNSで入れ墨の是非に関するニュースに対して、肯定的なコメントをしたことがある。すると見知らぬ方からひどく粘着された。

私は入れ墨に対して、ほとんど拒否感がない。なにせ子供の頃には、近所に入れ墨が身体に刻まれた人が身近にけっこう居た。博徒もいたが、普通の職人さんも居た。銭湯に行けば、背中に入れ墨の入った後姿を見ることは、さして珍しくなかった。

だから、コメントも肯定的な文となったが、私に突っかかってくる御仁は、入れ墨を許容する意見自体認めがたい頑固者であった。道理ではなく、感情的に完全に受け入れられないと、全身で拒絶しているかのような返信文に呆れてしまった。

私とて、入れ墨には他者を威嚇するかのような効果があることは認めている。また近年の日本では、やくざものが堅気もんを威嚇するための恣意的な入れ墨が多いことも分かっている。

でも、入れ墨自体は日本では古来よりある風習である。魏志倭人伝にも記載があるし、中世、近世でも決して途絶えることのなかった風習である。おかしくなったのは、現代以降だ。

やくざのような組織犯罪者が市民を威嚇するための風習として、入れ墨を認知させるようになったのは、昭和に入ってからだ。現実問題、日本が次第に近代化し、欧米化が進展するにつれて、入れ墨=反社会的との認識が高まったと思っている。

妙なことに、日本以外の国では、必ずしも入れ墨=反社会的ではない。お洒落というかファッションとしての入れ墨も、かなり多い。特にスポーツ選手には、入れ墨を肯定的に、あるいは主体的に入れているケースが少なくない。

もっとも古来から、入れ墨は呪い師や僧侶など宗教的な意味合いを持つことも普通であった。また戦闘に赴く戦士たちが、自らを鼓舞するため、あるいは敵を威嚇するための入れ墨も珍しくなかった。

つまり入れ墨自体は、有史以前から存在する人類の慣習であった。

ところが、戦後に日本では組織犯罪に悩んだ政府が、入れ墨=やくざもの、とのイメージを強く打ちだし、それが世間的に広く認知されている。そのせいで、海外からの観光客の入れ墨についても、画一的な対応(入浴施設やプールはダメ)を求める人が後を絶たない。

この問題が厄介なのは、入れ墨=犯罪者との認識を持っている人たちの多くが、善良なる市民であり、経済的にも恵まれた層のお方々であることである。自分たちが良き市民であることを強く自覚しているので、入れ墨に対する拒否感もまた正義であると確信している。

その一方で、海外からの観光客の更なる増加を目論む政府としては、日本の自慢の観光施設である温泉やプールなどの施設に関心を持つ外国人観光客を、入れ墨を理由に拒絶することは避けたいと考えている。

率直に云って、正しい、間違っているの問題ではなく、感情的な嫌悪感が根幹にあるので、解決策を見出しにくい。

私自身は、そもそもファッションとか外見に無頓着なので、入れ墨自体に興味がない。拒否感もない替わり、積極的に好感を抱いている訳でもない。ただ、入れ墨から威圧感を覚える人の感覚は理解できる。

でも、その日本人の好悪の感情を理由に、外国人を温泉施設等から除外するのも、なんか傲慢な気がして嫌。ここは日本なのだから、日本の常識に従えと、入れ墨拒否派の方々は主張する。それも一理あるとは思うが、いささか理不尽な気もする。

手術痕を隠す入浴着のような形で、入れ墨を入れた外国人観光客を容認するぐらいの寛容さがあっても良い様に思うのですが、絶対容認できない反対派は納得しないでしょうねぇ・・・

嫌なものはイヤ! こう言われちゃったら、話し合いもへったくれもないですね。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする