20世紀において世界に拡散したものの一つにフットボールがある。
日本ではサッカーとして知られる球技で、イギリス発祥とされ、イギリスの商船が泊まる港町から世界中に広がった。遊びとして、またスポーツとしても、これほど世界中で愛された球技は稀だと思う。
だが、これほど点の入りにくい球技も珍しい。また必ずしも決着を付けず、引き分けでも良しとする球技であることも変っている。点の取り合いとなる球技が圧涛Iに多い中、サッカーだけがひたすら我慢の時間を強いられる。
だからこそ得点の場面では、選手のみならず観客も喜びを爆発させる。解放のエクスタシーとでも表現したくなるが、その喜びも我慢の時間があればこそなのだろう。
率直に云って、かなり不思議な球技だと思う。だが、サッカーが欧州のみならず、アフリカやアジアでも大人気なのは事実である。サッカー後進国と云われた日本とアメリカも、1990年代以降急激に人気が高まっているのはご存じのとおり。
サッカーは非常に単純な球技だ。ボールを足でのみ扱い、手を使ってはいけない。ただし頭や身体でボールを扱うのは認められている。ただ、ボールを相手陣内のゴールに入れれば得点である。
サッカーボール一つあれば、とりあえずサッカーは出来る。ゴールポストがなくたって、審判がいなくても遊べる。だからこそ、世界中でサッカーは遊ぶことが出来た。この簡便さが普及の一因であることは確かだ。
しかし、それだけではない。
ボールを使った団体競技のなかで、フットボールは最も選手の自由度が高い。野球で喩えれば、ボールを足元に置いた瞬間、その選手はピッチャーであり、バッターである。
ボールをどこに蹴ろうが、ドリブルをしようが、それは選手の考え次第である。相手陣内に進むも、横に駆けるも、あるいはバックパスでも自由自在である。ただし、手を使ってはいけない。守らねばならないルールは、それだけだ。
これほど自由度の高いゲームは滅多にない。
しかも、同じボールを蹴る球技なのに、国によりフットボールは驚くほどに違いをみせる。ブラジルのフットボールは、断じてアルゼンチンとは違う。ドイツのフットボールは、イタリアとはまるで違う。
アフリカのフットボールと、アジアのフットボールが違うことは、フットボールの初心者でも分かる。同じルール、同じボール、同じグランドを使っているのに、それでいて個性が出る。
サッカー後進国であった日本だが、先のワールドカップ・ロシア大会ではアジアからの出場5か国のなかでも際立った結果を残した。正式な記録こそ、一勝二敗、一引き分けだが、目の肥えた世界のフットボール・ファンから一目置かれる記憶に残る試合が出来た。
それを誇らしく思う気持ちはあるが、だからといって過大に評価するのは避けたいと思う。日本のフットボールはまだCクラスだ。優勝レベルがAクラスであり、優勝を狙えるのがBクラス。予選を勝ち抜けるかどうかギリギリなのがCクラス。
少し前まではワールドカップに出るのが精一杯のDクラスであったのだし、Jリーグ以前はEクラスであったのだからたいした進歩ではある。でも、まだまだやるべきことがある。
ロシア大会の前、本田選手がワールドカップでの優勝を口にしていたが、それを冷笑していた人は多いと思う。私もその一人である。でも、選手のみならず、サメ[ターから一般国民までが本気で優勝を願うレベルまでいかないと、優勝は難しいはずだ。
何故か? それを知りたかったら表題の書を読むしかない。
多分、私が生きている間に、日本のワールドカップ優勝は実現することはない。少し寂しいというか、残念に思うけど、優勝を願いながらも、どうしても後一歩が届かない強豪国が幾つもあることを思えば致し方ないのだろう。
でも、夢を見るのは自由だよね。自由こそフットボールの最大の魅力なのだからさ。