私は中学の時、一時的に卓球部に入部していたことがある。
それほど強い関心があった訳ではなく、むしろ当時のクラスメイトに誘われて、二人で連れ添って入部したのが実情だ。ただ、この頃から私は左右の視力が著しく乖離していることに悩んでいた。
小学生の頃は、どちらかといえば卓球は好きなスポーツだった。よく福祉会館の卓球室に通っていたものだ。しかし、中学に入った頃から、左右の視力に大きな開きが出来たことで、球技全般が苦手になった。
なにしろ、野球でバットを振れば三振ばかり。卓球でも空振りを連発するのだから嫌になる。でも、卓球自体は決して嫌いではなかった。しかしながら、当時の私は地道な練習が大嫌いであったから、すぐに幽霊部員と化した。
おまけにレギュラー選手であった奴と、別の問題で揉めて、結局喧嘩別れとなった。多分強制退部の扱いであったと思う。以来、卓球には冷淡であった。それでもスポーツ新聞に記事が載れば流し読みする程度の関心はあった。
だが、当時の日本の卓球は弱かった。昔は強かったらしいが、私が十代の頃から三十代まで、オリンピックなどでメダルを取ることはなかったと思う。決して日の当たるスポーツではなかったはずだ。
その状況を一変させてしまったのが、福原愛選手であった。
天才卓球少女として新聞などを騒がし始めた頃は、まだ小学生であった。やがて日本選手権でも活躍し、雲の上だと思っていた中国の卓球界でデビューし、実力を付けて活躍してきたことは、皆さんご存じの通りだと思う。
彼女一人の活躍で、それまで日陰のスポーツであった卓球に、再び火が付いた。女子卓球だけでなく、男子卓球にも人気は飛び火して、有望な選手が出てきて、オリンピックなどで実績を出すようになった。
次の東京五輪でもメダル有望競技の一つである。まさか、あの地味で人気がなかった卓球が、ここまで日の目を浴びるとは思わなかった。
この状況を作り出したのは、ひとえに福原愛選手あってのものだ。彼女が活躍し、世間の耳目を集めなかったら、今の日本の卓球の隆盛はなかったと断言できる。
残念ながら、福原選手は最後まで五輪で金メダルは取れなかった。しかしながら、たった一人で、卓球を復活させたことは確かであろう。あの小さな体で、「さァ~」の鰍ッ声と共にスマッシュを繰り出す彼女の雄姿があればこそ、強い後輩選手たちが登場できた。
長年奮闘してきた彼女も、ついに現役引退を決意した。長い間、お疲れ様でした。
人間、一人で出来ることなんて多寡が知れている。しかし、一人でもこれだけのことが出来るのだと私を驚愕させた選手、それが福原愛でした。