子供の頃の友達には、喧嘩した後で仲良くなった奴が数名いる。
その一人にAがいる。仲良くなってからのことだ。夏休み、市民プールへ遊びに行き、休憩時間にお喋りをしている時、Aの右腕の上腕部分に噛み跡と思しき傷があることに気が付いた。なに?その傷はと問うと、Aが呆れたように「おめえが噛んだんじゃねえかよ」と、私を軽く殴る振りをした。
え!あァ、そうだ、そうだったなと答えたが、その直後に軽く身震いしたことは良く覚えている。夏だというのに、急に体温が冷え込んだ。そして思い出してしまった。
子供の頃、我が家には中型の茶色の老犬がいた。元々は父の知人の飼い犬であったが、その知人が亡くなり、奥様は郷里に帰るが、犬は連れていけないとかで、父が引き取ってきた。
実はその奥様は犬嫌いで、父の知人が亡くなってからは、どうもその犬を虐待していたらしい。それを見かねた父が、強引に引き取ってきたことは、後になって教えられた。
実際、我が家に来た時は、妙にオドオドしていた。母が近づくと、怯えたように伏せてしまい、母を困惑させていた。私や兄が近づくと、父の背後に隠れてしまう始末である。どうやら苛めていたのは、知人の奥様だけではなかったようだ。
犬の扱いに慣れていた父だけにのみ、その犬は心を許していたように思う。でも、世話焼きの母に毎日ブラッシングをされ、汚かった茶色が、輝く茶色に変わる頃には、兄や私にも心を許してくれた。
朝の散歩は早起きの兄で、学校帰りの夕方は私で、休日は父が昼間に散歩していた。犬が家に居る幸せってあるのだと思っていた。年の離れた兄が大学進学と共に家を出て都会で下宿となり、朝の散歩は私で、夕方は母の担当となっていた。
ただ、その頃は父と母の関係が良くなくて、家の中は重く、暗い空気が漂っていた。母はパートに出るようになり、学校から帰宅しても家に居るのは老犬だけだった。
もう十数年生きてきた老犬は、その頃は散歩も行きたがらなくなっていた。私は帰宅すると、家には入らず、老犬のそばでその日の出来事や、辛かったこと、嫌なことを話していた。時には老犬にしがみ付いて泣いたこともあった。
そんな時、老犬は動かず、じっと私に身を任せていてくれた。嫌がってはいないことは、尻尾をみれば分かった。偶に涙の痕を舐めてくれたこともある。あの時、老犬がそばにいなかったら、私は自殺していたかもしれない。
当時、学校でいじめの対象となり、訳も分からず、迫害された。教科書を破られたり、給食を捨てられたり、地味で厭らしい悪戯をされていた。主犯が誰だか分からないので、余計に面唐ナあった。
ちなみに冒頭のAは、いじめには加わっていない。身体が大きく、運動部でも活躍していたAは、いじめられている私を遠くから冷たく見ているだけであった。だらしない奴だと、私を見下していた。
その日、私の筆箱が三階の教室からほうり捨てられて、校舎の裏に落ちていた。誕生日に買ってもらった、お気に入りの筆箱はバラバラになっていた。なにかが頭の中で切れた感じがして、私は喚くように、吼えるように大声で泣き喚いた。
そこにAが入ってきて「うるせいよ」と私を小突いた。瞬間、私は切れた・・・
実はその先は覚えていない。後で聞いたら、まるで狂犬のようにAに向かっていき、噛みつくは引っ掻くはの大騒ぎとなった。まるで人間の暴れ方ではなかったらしい。
私が意識を取り戻したのは、病院のベッドの上であった。父と母が心配そうに、私をみていたことに驚いた。いったい何があったのか。訳が分からず、呆然としている私だが、母が抱き着いてきて大泣きしたので、私も釣られて泣き出してしまった。
父の運転する車で帰宅して驚いた。老犬がいない。どこにいったのかと訊いたら、母は「お前の腕に抱かれて死んでいたよ。お前が看取ったみたいだね」と言う。私はもう一度、失神した。
次に目が覚めた時、傍に居たのは兄であった。急報をきいて慌てて帰ってきたそうだ。兄の話だと、口を血だらけにした私が走って帰宅したこと。それを見て驚いた近所の方が、慌てて様子をみに来たら、老犬を抱きかかえて泣いている私を発見したこと。私は泣くばかりで、まともに喋ろうとしないので、警察を呼んだそうだ。
連絡を受けて帰宅した母は、自宅の庭に横たわる老犬の遺骸と、救急車に載せられる私を見てパニックになり、警官に取り押さえられて、私と一緒に病院に運ばれたそうだ。
結局、一週間ほど私は学校を休む羽目に陥った。何が起こったのか、さっぱり分からなかった。日曜日にAが見舞いに来て、腕の包帯をみせながら「お前、普段おとなしい癖に、切れると狂犬だなァ」と笑っていた。この時からAとは友達になった。
後でAから聞いた話なのだが、喧嘩の最中、私は犬のように吼えていたらしい。その後、飼っていた犬が同時刻に死んだせいで、私に「狂犬憑き」のあだ名が付いてしまった。そう、老犬はあの日の日中に老衰死している。
Aにも、親にも話していないが、あの喧嘩の直前、私の頭の中に犬の吠え声があって、その直後に私は切れて暴れ出したようなのだ。どう理解したらよいのか、未だに私は分からない。
老犬が私に替わって戦ってくれた気もするけど、それは私の手前勝手な解釈に過ぎない。その後のことだが、「狂犬憑き」のあだ名を頂いた私は、あれ以降苛められることはなくなった。
また父と母も、なにがあったのかは知らないが、いつのまにやら仲睦まじくなっていた。まるで、老犬が死ぬときに、すべての厄介事を持ち去ってくれたかのように。
・・・この話、関係者がまだ生存中であるので、フェイクかなり入っています。又聞きの話ですからどこまで本当なのか分かりません。ただ、A君の上腕には噛み跡が残っているのは確かです。ちなみに私=ヌマンタではありませんので悪しからず。
てっきり…と思ってました。