初めてその雄姿を見たのは、92年正月の高校サッカーにおいてでした。長身でありながら、肩幅ががっちりして、足技も巧く、ドリブルが得意。なによりも、得点感覚に優れたストライカー、それが四日市中央高校のFW、小倉隆史でした。
その年の決勝戦は、東京の名門・帝京と四日市中央との試合でした。1点差で帝京が逃げ切る寸前、小倉の同点ヘッドが叩き込まれた時、国立競技場は一瞬の静寂から、怒号を伴う歓声に包まれたものでした。試合は両高優勝という形で終わりましたが、小倉の名前は全国に轟きました。
彼はその後、オランダの2部エクセルオールに留学し、チームの得点王となり、惜しまれながら帰国し、名古屋グランパスに入団しました。帰国2戦目だと思いますが、東京・等々力競技場で当時最強の名を欲しいままにしたヴェルディとの一戦は、まさに衝撃的でした。
キャプテン・柱谷をドリブルで振り切り、ブラジル代表歴のあるカピトンをまた抜きし、MVPディフェンダー・ペレイラと激しく競り合いながら、ゴールを切り裂く彼の姿は、まさに未来の日本代表のエースそのものでした。
かねてから、日本サッカー界が望んで得られなかった大型FW選手。高さと速さと、テクニックを持ち合わせた期待のエースの登場だと、誰もが確信したものでした。日本は不思議なことに、中盤に優秀な選手が多く、それに対して前線には世界に通用する人材が育たなかった。そのため、小倉選手に対する期待は高まるばかりでした。
彼はアトランタ五輪のチームの中心選手でもありました。当時、このチームには、GKに川口、DFに田中誠、鈴木秀人、サイドに服部、中盤に前園、中田英、伊東輝、FWに城、松原と人材の宝庫でしたが、エースは間違いなく小倉でした。
サッカーというスポーツは何が面白いって、ボールを持った瞬間、その選手が4番バッターであり、エースピッチャーでもあるのです。そして、チームのなかで一番信頼を集める選手にボールが、自然と集まるスポーツでもあります。アトランタ五輪のサッカーチームでは、その中心が小倉でした。
しかし、シンガポールでの練習中、彼は膝を断裂する重症を負い、チームから離れます。後を継いだ前園がチームの中心となり、あのアタランタの奇跡といわれた、ブラジル戦の勝利を起こしたのは有名な話です。
小倉は、その後も怪我とリハビリに終われ、あのベンゲル監督から「才能ならピクシー以上」とまで言われながらも、万全の体調に戻ることありませんでした。ヴェルディをはじめ幾つものチームを渡り歩き、最後はJ2ヴァンホーレ甲府を解雇されて選手としての経歴を終えることとなりました。
菊原、磯貝、財前と有望な若手が伸び悩み、潰れていく日本サッカー界の問題点を浮き彫りにしたのが、小倉隆史の存在ではないかと私は考えています。その後、中田英の飛躍、稲本、小野らが活躍していますが、私の目には小倉ほど輝いた選手はいませんでした。残念でなりません。
まず、最初にお断りしておくと、私はTKCの会員ではありません。書くべきか否か、随分迷った本の一つです。
この本は、TKCの創業者でもある税理士、飯塚毅と国家権力との数十年に及ぶ戦いの記録でもあります。封建時代の王様は「朕は国家である」と言い放ちましたが、日本のエリート官僚達は、自分たちこそが国家であるとの強力な自負を持っています。一人一人は高慢であったり、夜郎自大であろうと、やはり国家権力そのものを敵にまわす恐ろしさが実感できる本でもあります。
飯塚先生は、その高度な知性に裏づけされた、高潔な人格者であり、高い理想を掲げ、それを実践してきた尊敬すべき人物です。仏門での修行により鍛えられた、その精神はあくまで気高く、その掲げる理想の実現に、全身全力をもって打ち込んだ人物でもあります。
されど、飯塚先生は俗人の愚昧さには、案外鈍感であったのではないかと私は感じていました。その掲げる高い理想は、高尚な精神に裏づけされてこそ、価値あるものです。しかし、大概の凡人は深い欲望と、低俗なる戸惑いに左右される存在であり、得てして欲に流され勝ちです。ゆえに多くの納税者が、節税ならぬ脱税に捕らわれてしまった。明確な脱税ならいざ知らず、飯塚先生の提唱された手法(別段賞与等)は、税法の隙間をついた印象は拭いきれなかった。
そこを飯塚先生に私怨をもつキャリア官僚が付けこんで来た。もの凄い勉強家であった飯塚先生は、不勉強からくる間違いを指摘することが、プライドが異常に高いキャリア官僚の面子をどれだけ傷つけたか気付く事が出来なかった。人間って奴は、感情に支配されやすい生き物なのですが、高潔なる人格は案外そのことに不感症なのかもしれません。
飯塚先生自体は脱税とは無縁であったとしても、その提唱された手法が脱税をそそのかしたと決め付けられて、数十年にわたり国家権力の横暴に振り回される恐ろしさ。なおかつ、それに耐え忍んだ人生に注目した作家、高杉良の慧眼にも敬意を表したいと思います。
所得税の申告のため、現在個人事業者を中心に顧客回りをしていると、様々な人生を垣間見ることになります。
先日、あるお客さんと一杯飲み、その流れで東京郊外の町のフィリピン・パブに行った時のことです。フィリピーナの愛称で知られる彼女たちは、その愛敬と芸達者なことで人気があり、風俗店の定番のひとつになっていましたが、現在はその数を激減させています。
原因は法務省の入国制限です。かつては年間2万人程度が興業ビザで日本に出稼ぎに来ていたのですが、現在は300人前後だそうです。フィリピン政府が、経済制裁だと騒いでいましたが、日本のお役人もマスコミも知らん顔を決め込んでいます。
さすがに若い子は少なかったが、あの独特な日本語の言い回しが賑やかなその店には、けっこうな数のフィリピーナが働いていました。聞いてみると、興業ビザは下りないが、ファミリービザなどで来日しているとのこと。さすがに、あの手の発展途上国の人間は逞しい。
お客さんのご贔屓の娘さんも多分にもれず、姉妹が日本人と国際結婚しており、そのつてで来日しているそうだ。店内を見渡すと手を振ってる子がいる。よく見ると昔、新宿の大型キャバレーで売れっ子だった娘さん。席に呼んで話を聞くと、現在昼間はホームヘルパー養成学校へ通っているとのこと。
一昨年、日本とフィリピンとの間でFTA(自由貿易交渉)が成立し、その中に看護師やホームヘルパーが含まれていたのは知っていました。またNHKが現在、名古屋で試験的にフィリピーナのホームヘルパーを活用している報道をしていたので、将来は外国人の介護を受けることは予測していました。
しかし、既に東京でも専門学校などが、外国人のホームヘルパーを養成しているとは知らなかった。FTAで決められた資格には、当然日本語の試験がありますから、外国人の看護師やホームヘルパーが入ってくるのは、数年先だと考えていましたが、読みが甘かった。
現在、国内の介護事業者の大半は赤字です。設備投資の負担もさることながら、やはり大きいのが人件費。フルタイムで働いても、月収15万から20万程度ですから、なかなか人が集まらず、また続かないのが介護事業者の悩みです。たしかに外国人なら、いい働き手になるでしょう。
でも、私の知人のフィリピーナは、今は知りませんが、かつては月に30~40万前後は稼いでいたはず。年齢の問題もありますが、月15万程度でやっていけるのか?尋ねてみると、その答えに驚いた。
まじめな仕事(彼女らはホステス業は嫌ってる)に就けて、しかも社会保険に入れるなら月15万で十分だと。日本の最新の医療を3割負担で受けられるなら、それが良いと。私は行ったことはありませんが、聞くところによるとフィリピンは医療技術は低くないそうです。しかし、設備は老朽化していて、社会保険制度が十分でないため、よい医療は庶民には受けられない。十分な高度医療を受けようと思うと、かなり高額でむしろ日本の方が安く済むそうです。
話を聞いて納得しました。語学力の高い彼女らが今後、日本でホームヘルパーや看護師として活躍する日も遠くないようです。ただね、仕事中に学校の宿題やるのは止めなはれ。しかも、客の私にやらせるな(苦笑)
果たして景気は回復したのか、デフレ脱却したのか?
現在、政府と日銀が金融政策を巡り冷戦状態にあります。日銀としては、既にデフレを脱却していると考え、限りなく0に近い金融緩和策を変更し、金利引き上げにかかりたい意向のようです。
一方、政府・自民党はこの日銀の意向に反発を示し、谷垣財務大臣が日銀に対し政府との調整を求め、中川政調会長は「日銀法の改正」など持ち出し恫喝まがいの発言をしている始末。
実のところ、日銀が金利を上昇させると国債の利払いが増加してしまう。また、金利引き上げによる景気の後退の懸念も拭い切れず、消費税等の増税論議に水を差す。これが政府・自民党の本音でしょう。
でもねえ、ここ数年銀行は最高の利益を計上している訳です。それなのに預貯金の金利はコンマ以下。どうもそのあたりに矛盾を感じざる得ないのですがね。もっとも銀行の利益は、貸し出し金利によるものというより、手数料収入に偏ったものであるのも事実です。
一方、アメリカは次の景気後退とインフレに備えて、この一年半で金利を3%以上も引き上げています。果たして景気は回復したのか、デフレ脱却といえるのか、実は私も迷っています。
部分的に景気回復、インフレ懸念も分かるのですが、やはり全体には波及していない感が強い。現在、確定申告のため、個人客を中心に飛び回っていますが、やはり数字は上がっても、利益率は低く、手持ちキャッシュに余裕は少ない。やはり積極策には出ずらい。
どうも、私の実感とマスメディアの景気回復報道とのギャップが埋めきれない。本当に景気回復なら日銀の金利引き上げは実施すべきですが、私には自信が持てない。ただでさえ忙しいのに、悩み多き日々が続きます。
1970年代後半から80年代にかけては、今とは比較にならないほどプロレスは人気がある娯楽でした。猪木の新日本プロレスと、馬場の全日本プロレスが中心でしたが、プロレスブームそのものは、どちらかといえば、新日本プロレスが中心でした。
私は格闘者としては、案外馬場のほうが強かったのでは?と思っていましたが、プロレスラーとしては、猪木のほうが断トツで面白かった。私人としての猪木は、ほら吹きで、嘘つきで、かっこつけ屋でしたが、だからこそプロレスは面白かった。どんなヘボい相手でも、そこそこ観客を盛り上げる術を知っていた役者でした。それに比べると馬場は試合の相手を選んだ。いや、選ばざる得なかった。異様な長身であった馬場は、大柄の外国人相手でないと、試合が盛り上がらなかった。ただし私人としての信用度は、馬場の方が格段上でしょう。胡散臭さが付きまとうプロレス界にあっても、馬場のビジネス上の信用は常に安定していたものです。
一方、興業主としての実績は猪木、というか新日本プロレスのほうが上でした。IWGPというチャンピオン・ベルトを創り上げたり、異種格闘路線でプロレスの格上げを目指したり、旧・ソ連から金メダル・アマチュアレスラーを連れてきたりと、常に話題の中心を担っていました。
格闘路線について一言、言わせて貰うと、元々技を受け合うことを前提とし、相手の技をかわすディフェンス技術をもたないプロレスラーが、真剣な格闘技をやること自体無理がある。私が知る限り、ほとんどの試合が、勝ち負けのシナリオらしきものがあったらしい。相当な金が動いたはずですよ。まあ、観客としては、盛り上がって、楽しければいいのですがね。
新日本プロレスがおかしくなりだしたのは、猪木の無茶苦茶な経営が原因だと言わざる得ない。猪木がレスラーとして実力があった時は、それでも不満を抑える事ができた。しかし、実力が落ちだした80年代後半からは、所属レスラーの離反を抑えきれず、あげくに猪木本人が政界へ逃げ出す始末。
見方を変えれば、よくぞ今日まで続いたものです。私自身はと言えば、自分がプロレスごっこをやらなくなってから、つまり社会人になってからは急速にプロレスに対する関心が薄れ、試合場にも足を運ぶことはなくなりました。それでもね、昔の試合をTVやビデオで観たりすると、懐かしさがこみ上げてきます。その面白さ、興奮は今のK1以上のものでしたからね。