ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

プロレスってさ A・ザ・ジャイアントに思うこと

2006-02-18 18:24:22 | スポーツ

アンドレ・ザ・ジャイアント。本名をジーン・フェレというフランス人(正確にはバスク人)でした。身長2メートル29センチ、体重250キロの超大型プロレスラー。この人を上回る身長のレスラーも数人いましたが、これほど存在感のあるレスラーはいなかった。

とにかくデカイ。どうも身長は公称以上あったようですが、本人が測らせなかった。ジャイアント馬場より頭一つ分大きく、体重は小錦並み。それでいて平均以上に運動神経もいい。私はアンドレがオフの日に卓球をしているのを見かけたことがありますが、そりゃ上手いものでした。明らかにラケットより手の方が大きいにもかかわらず、快調にラリーをしている姿に唖然とした記憶があります。

初めて観たのは、私が小学生の時だった。たしか立川市民体育館だったと思う。前座の試合中、トイレに行っての帰り、通路で立ち止まって試合を観ていたら、背後から圧力を感じた気がして振り返ると、巨大な腹があった。見上げると、それはポスターに出ていた外人レスラー、アンドレだった。気が付くと私はへたり込んでいた。ビックリ、唖然、呆然、ただただ驚くしかない巨大な肉体。

多分、控え室から出てきて試合会場の様子を見に来ていたのかもしれません。あれほどデカイ人間は、後にも先にも出会ったことはありません。彼を直に見ただけで、入場料分の価値はありましたね。ただ単にそこに立っているだけで、その肉体から発する圧力は人を圧するものがありました。

よく言われたのが、アンドレ最強説。無冠の帝王と言われていましたが、多分本気でやったら世界一強いのではと、プロレスファンの間では噂されていたものです。ですが、今にして思うとアンドレは、決して最強なんて望んでいなかったと確信しています。アンドレが望んでいたのは、普通の人間になることだったと思います。あまりに巨大すぎた彼は、世界中何処へ行っても奇矯な目で見られてしまう不幸を背負っていました。

生涯を独身で通し(子供はいたようです)、死んだ時も同居していた友人夫婦に見取られてのものでした。新日本プロレスで活躍していましたが、晩年に全日本プロレスへ移籍して馬場と楽しそうにタッグを組んでいたのが忘れがたい。

巨大すぎる自分を奇矯な目で見る日本人を嫌っていたと聞いていましたが、あまりに巨大すぎるがゆえに、どうしても見世物的な扱いになるアメリカのプロレスより、試合を演じさせてもらえる日本を好んでいたようです。稼ぎだけならアメリカで十分なのに、好んで日本に来ていたのが印象的です。

忘れがたいのが、80年代初頭の田園コロシアムでの、スタン・ハンセンとの試合です。巨大な肉体が全力でぶつかり合う迫力は、TVで見ていても震撼するほどでした。もちろんプロレスですから、格闘演技です。しかし迫真の演技は、観ている者を興奮に叩き込まずにはいられない、素晴らしいものでした。ボクシング、相撲、K1その他の興業系の格闘技で、あれほど迫力のある試合にお目にかかったことはありません。あれこそプロレスの醍醐味でした。

後年引退したハンセンが、あの試合を懐かしみ自分のベスト・マッチの一つに上げていました。アンドレにとっても、自分の肉体を思う存分駆使できた数少ない試合だったようで、よく二人して酒の肴にしていたとのインタビューに、さもありなんと納得しました。

あの頃、プロレスは楽しかった。なんか最近つくづく思います。まだ昔を懐かしむ年でもないのですがねえ~


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所得格差

2006-02-17 21:11:14 | 経済・金融・税制

今朝、朝食を作りながらニュースを聞いていたら、NHKの世論調査で所得の格差が生じている現状を悪いことだと感じている人が4割強もいるとの報道に唖然としました。ここまで日本人は痴呆化していたのか・・・まあ、冷静に考えれば、バブル崩壊とリストラの流れのなかで多くの日本人が自信をなくしている現状を反映した結果でもあります。

別に日本に限りませんが、人間が社会を構築するようになって5千年あまり。いまだかつて所得が平等な社会なんぞ実現したことはありません。「キリング・フィールド」で有名なカンボジアのポルポト政権下で試しみたことはありますが、見事に失敗しました。数百万の死体を置き土産にしてね。

富が平等に配分された社会なんて、そもそも不自然なのですよ。努力して富を得た人もいれば、幸運に恵まれて得た人もいるでしょう。努力したけど富を得れなかった人もいれば、不運にも富を失った人もいるでしょう。それが人間の自然な状態です。

かつての封建社会では、血筋だとか土地に縛られて閉塞された社会が営まれてきました。これはこれで安定した社会ですが、変化に対応することは難しい。産業革命による生産力の飛躍的増大に対応するため、その人間の能力を自由に発揮させることを可能にしたのが近代の市民社会です。能力の高い人に、富を得る手段を提供することこそが、その社会全体を向上させるとの認識がその基盤にあるからこそです。結果の平等を目指したのではなく、機会を平等に提供することが目的なのです。

機会を平等に与えられることにより、結果的に優劣の差が生じてしまうことは、むしろ自然なことなのです。憂うべきは、機会を平等に与えることが出来ずに閉塞し、停滞した社会になってしまうことなのです。

ただね、やはりトンビが鷹を産むことは稀なのでしょう。貧乏な親の子は、やはり貧乏に育つ傾向が出てきているのは事実だと思います。教育格差による影響もあるでしょうが、知力の格差って案外親子間でも変わらない気もします。このあたりの諦めが、所得格差を厭う気持ちにつながっているのかもしれません。

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女王陛下のユリシーズ号(A・マクリーン)

2006-02-16 20:53:51 | 

毎年寒くなると、読みたくなる本がこれ。初めて読んだのは、中学生の時だった。当時私は深夜に勉強する癖があったので、寝ている家族に迷惑にならないよう、台所で勉強していた。いや、勉強と称して深夜ラジオに耳を傾けたり、読書に夢中になっていた。

暖房は足元のヒーターだけ。タオルケットを膝にかけて、時折震えながら机に向かっていたものです。そんな環境でも、夢中になると寒さなど忘れて本に読みふけっていたものでした。気が付くと朝になることもしばしば。あれほどまでに、読書に没頭できたのが、懐かしくて仕方ない。いや、羨ましいというべきか。

アリステア・マクリーンは、冒険小説の大家として有名ですが、案外駄作も多い。しかし、この作品だけは、文句なしに傑作だと断言できる。未だに数年に一度は、読み返していますが、やはり感動します。冒険小説には大概、謎めいた女性富豪だとか、セクシーな女スパイなんかが色取りを添える作品が多いのですが、この本に限って言えばほとんど女性が登場しません。多分最後のほうの受付の女性だけかも。ひたすら厳しい大自然と、傷つく仲間たちと仮借なき敵だけが描かれています。マクリーンの他の作品には、普通に女性が登場してますから、この作品だけは例外というか、レアな気がします。彼の処女作ですから、営業的な配慮なしで好きなように書いたのかもしれません。

で、この本を読む時だけは、暖房を止めています。凍えながら読むのが相応しい作品なのです。最近は年のせいか、布団にもぐりこんで読んでいるのが、少し気恥ずかしい。北海の凍て付く強風と、骨の芯まで固まるような寒気を想像しながら読みたいが故の振る舞いです。ちょっと馬鹿だと思うけど、誰に迷惑かけるでないし、まあイイでしょう。寒い冬の、私の秘めやかな楽しみです。

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ハマスの勝利に思うこと

2006-02-15 21:00:53 | 社会・政治・一般

少し前のニュースですが、イスラエルの占領下にあったパレスチナ自治政府のもとで行われた選挙で、ハマスが圧倒的多数を占めました。

これまでイスラエルに対する武装闘争を訴えてきたハマスを、有権者が支持したわけです。これって、簡単に言えば、民主主義が戦争を肯定したことでもあるはずです。まあ、実際は現自治政府の腐敗に対する批判票も、相当数含まれているはずですが。

しかし、アメリカは盛んに民主主義の拡大を叫んでいましたが、その心中はいかがなものでしょう。民主主義のもと、選挙権を行使した結果が、アメリカを否定することになった皮肉な現象を、当のアメリカはどう考えているのでしょうね。

他人事ではありません。日本にも、民主主義絶対信者が少なからず存在します。民主主義になれば、世界が平和になるなどと、根拠のない空論を信じ込んでいる人たちは、今回のハマスの勝利をどう考えているのでしょうかねえ~?

私の観た所、日本の民主主義絶対信者は、特に深くは考えてはいないでしょう。あの方々は、自分たちが世間から「良い人」に見られることこそが大事ですから、信じているのは自らの善人性だけでしょう。民主主義が正しいかどうか、なんて考える価値のないことなのでしょう。

だからこそ、戦前は「天皇万歳!!」と叫んでいたことを簡単に忘れ、戦後は「民主主義万歳!!」と、いとも簡単に立場を変更できるのでしょう。それゆえ、私はこの手の民主主義絶対信者の口にする「戦争の反省」なんぞ、まったく信用していません。

まして、戦争を否定すれば平和な世の中になるだなんて妄想は、日本にとって危険極まりないものだと考えています。平和を守る事と、戦争を否定することは、必ずしも一致しない。なぜこのような歴史上の事実から学ぶべき教訓を直視しないのか?平和を望むならば、そのために現実的な努力をすることは必要不可欠だと思うのです。信じているだけでは救われないと思うのですが、信じきっているお方々には、馬の耳に念仏なのでしょうねえ・・・

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電子申告

2006-02-14 09:42:50 | 経済・金融・税制

森・前首相の時に提唱されたE-JAPAN戦略。IT技術の向上に伴う電子政府の実現を目指したものであり、そのなかの一つに税務申告、納税の手続きを電子申告・電子納税システムに移行を目指したものがあります。通称E-TAXと名づけられ、平成15年に麹町と練馬西で試行され、平成16年に名古屋国税局管内で始まり、同年6月には全国で導入されています。

聞く所によると4000億円とも言われる予算を投入しての新システムですが、その利用状況は芳しくありません。国税庁は、E-TAXの利用目標を全体の手続きの5%、130万件としてきましたが、残念ながらその達成は程遠いものであるようです。

我々税理士のもとにも、盛んにE-TAXの利用を勧めています。もちろん税理士会も積極的に、その推進に協力しているようですが、実はそれは表向きの話。

別に反対しているのではありません。行政の向かうべき方向としては正しいと、私自身考えています。されど、私どもの事務所では依然導入に慎重な姿勢を崩していません。電子認証などは、慎重にやらねばならないのは当然にしても、そのソフト自体が、使い勝手が悪すぎる。

既にカナダやオーストラリアでは、数年前から電子申告は実用化しています。町から遠く離れた荒野に人が散らばって住んでいる国では、この電子申告のシステムはかなり有用なものだと思われます。しかし、全国の市町村にあまねく存在し、電車や車で簡単に税務署へ行ける我が国では、なにも無理に電子申告を使わねばならない理由は少ない。

せめて導入当初は電子申告控除を設けるとかしないと、今までのやり方を変える気持ちにはなれない。おまけに添付書類を郵送するのなら、わざわざ電子申告などして二度手間をする必然性がない。

もう少し利用者の利便性を考えたシステムを考えて欲しいものです。ETCもそうですが、どうして上から押し付けるような下策しか取れないのでしょうね。もっと民間の智恵を使いなされ、と言いたくなります。

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