ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ロンドン五輪でのサッカー

2012-08-23 14:06:00 | スポーツ

サッカー好きな私だが、オリンピックのサッカーにはあまり関心がない。

理由は簡単で、しょせんU23の世界大会の二番煎じに過ぎないからだ。まァ、国によっては23歳以上のオーバーエイジにフル代表のスター選手を入れて、優勝を狙ったチームもある。

今回、銀メダルで終わったブラジルが、その典型だが試合そのものは、それほどレベルが高いとは思わなかった。ワールドカップには遠く及ばない。実際、オリンピックで金メダルを獲ったチームといえども、そのままでワールドカップには通用しない。それがサッカーの世界の現実だ。

ただし、女子サッカーは事情が異なる。まだ歴史が浅いせいもあるが、女子ワールドカップと遜色がないレベルでの試合が行われている。今回、日本チームは初めて銀メダルを獲得したが、これは十分に快挙だと言える。

では、男子はどうか。

どうしても金が欲しかったブラジルは、フル代表クラスのネイマールやフッキを出場させたが、他のチームでは目立ったスター選手の登用は見られなかった。これは日本も同じで、本来出場資格のある香川はもちろん、フル代表の中心である本田も長友も遠藤も入れていない。

今回は、現在フル代表で若手のDFとして活躍している吉田、徳武を使っているが、本気なら名古屋のトォーリオか鹿島の岩政を使うべきだった。準決勝、3位決定戦のいずれも、若手中心のDFに甘さが出ての失点であることからしても明らかだと思う。

ちなみに今回、金メダルのメキシコは、DFの要にベテラン選手を登用している。この辺りが、まだまだ未熟な日本サッカーとの違いだと思う。

では、攻撃はどうだったのか。今大会で注目されたのは、俊足FWの永井だ。たしかに足の速い選手だが、まだまだ決定力に欠ける。実を言えば、永井は控えのFWだった。アジア予選では、ほとんど途中交代でしか出場していない。

なぜなら、今回関塚監督が採った戦法は、アジアでは通用しないからだ。アジアでは、ほとんどの国が日本に対して守備を固めてくる。俊足の永井が走りこむスペースはなく、終盤相手が疲れた時に活用する控えのオプションに過ぎないからだ。

今回の予選リーグで永井が活躍できたのは、相手が日本くみやすしとして攻めてくれたからだ。DFに十分なスペースがあれば、俊足の永井は大いに活きる。しかし、いざ本選に入ると、相手が警戒してスペースを与えてくれない。だから、メキシコ戦、韓国戦、いずれも永井は活躍できなかった。

この辺りが、関塚監督をはじめとして日本人監督の限界だと思う。

実際、ザッケローニ監督は今回のA代表招集に際して、永井は呼んでいない。当然の判断だと思う。

ただし、今回の関塚ジャパンの4位獲得は、出来過ぎといっていいほどの快挙であるのも事実。私の予想は予選リーグ敗退だったしね。韓国に負けたのは、ちょっと悔しいけど、あの世代は谷間の世代と揶揄されたとおり、いつもアジア予選で敗退して世界大会には縁がなかった弱小世代。

でも、Jリーグで鍛えられてのオリンピック出場であり、しかも4位。私としては悪くない結果だと考えています。むしろ、今回で天狗にならず、悔しさをばねに精進することを期待できるので、良かったと思うほど。

そろそろJリーグも上位争いが激烈になってきているので、ロンドンから帰国した選手たちにも、これまで以上に活躍して欲しいものです。

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マダガスカル3 

2012-08-21 13:15:00 | 映画

大人げないのは分かっているので、軽く読み流していただけたら幸いです。

動物を擬人化して表現する方法は、たしかに面白い。古くは日本の鳥獣戯画が有名ですが、世界各地に伝承された寓話や神話などに登場する神々や妖魔も、似たようなものだと言っても差し支えないと思います。

動物などを人間に擬してみると、親近感がわいたり、個性が強調されたりするので便利な手法だと考えるのは、古今東西変わらないのでしょう。なかでも、アニメーションの発達により、アメリカでウォルト・ディズニーがネズミやアヒルを擬人化して大衆の人気を博したことは特筆されるべきでしょう。

実際、アメリカを嫌い、憎み、敵対視しる人々でさえ、この二足歩行富士額ネズミや、ヒステリーアヒルの映像の面白さは無視できなかった。アメリカとは長年敵対関係にあるイランなどの国々でさえ、この手の動物擬人化アニメを完全に禁止することは出来なかった。

もちろん、アニメーションではアメリカに匹敵する大国である日本でも、この動物の擬人化手法は広く普及している。戦前の「のらくろ」や手塚の「ジャングル大帝」はもちろん、赤塚の「にゃろめ」もそうだし、ジブリの「平成狸合戦ポンポコ」や猫のマイケル、ハムスターのハム太郎などもそうだ。

たしかに楽しい、それは認める。

だが、表題の映画を観ていて、どうしても違和感を禁じ得なかった。NYの動物園で生まれ育った動物たちが、本来の故郷に戻りたがるのはいい。また、せっかくアフリカの大地に戻ったものの、NYの動物園を懐かしむ気持ちだってわかる。

でもなァ、サーカスに行きたいか?

そりゃ、動物園の檻の中よりマシかもしれない。そう思えても無理はない。でも、私の知る限り、サーカスで飼われている動物たちは、あまり長生きしない。これは別にサーカスが動物を虐待してるからではない。そりゃ鞭などを駆使して動物に撃d込むことはあろうが、往々にしてサーカス団員は動物たちを仲間と捉えて大事にする。

しかし、世界各地を移動して動くサーカスでは、その移動中の多くを狭い檻に入れられて動物たちは過ごさねばならない。検疫も多く、ストレスの多い環境であるのは間違いない。

一方、現在の動物園は意識改革が相当に進み、単なる展示興行ではなくなっている。希少動物たちの保護、生育の場であり、動物たちの研究場としての役割を担っている。動物の専門医との連携はもちろん、大学などとの共同研究、世界各地の他の動物園との連絡など従来の動物園とは様相が違っている。

率直に言って、動物にとってはサーカスよりも動物園のほうが好ましい環境だと思う。

だから、表題の映画を観ていて複雑な気分に陥った。楽しい映画であることは間違いない。3D映像の技術も見事だが、表情豊かな動物たちの演技は、やはりアニメーションならではの魅力。そして、なんといってもサーカスの場面。この場面だけでも見る価値がある。

実際、私も楽しく映画を観ていたのだから、文句を言うのも野暮だと分かっている。

でもなァ、やっぱり人間目線での動物たちだよ。動物たちが演技をするのは餌目当てだし、撃キることを楽しんでいるにしても、それは動物本来の姿ではない。本来の棲息環境に居るのが一番だと思う。

現在の動物園は、可能な限り本来の棲息環境を模して動物を飼うよう努力している。環境破壊が進み、本来の生息域では生きていくのが難しい種の保護を考えると、動物園は必ずしも悪い選択ではない。

動物を擬人化して表現する手法は便利だし、楽しいけど、やっぱり人間の視点で描かれてしまう。動物には動物の生き方があるし、それを尊重して欲しいなァと思ってしまった私は、やっぱり理屈っぽいな。

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放送禁止歌 森達也

2012-08-20 13:32:00 | 

十代の頃、私はTVよりもラジオを聴いていた。

聴くのはもっぱら夜半から明け方だ。深夜放送のファンだった。タムタムタイムやオールナイトニッポンやセイヤングにパックインミュージック。さすがに深夜3時を超すと、翌朝すぐには起きれない。

だから、三時過ぎには床に就くようにしていた。ところがだ、この時間帯は、ある意味無法地帯の観があり、もっとも自由な放送がされていた時間帯であったと知ったのは、40代を過ぎてからだった。

この明け方近くの時間帯は、けっこうイイ曲がオンエアされることだけは知っていた。だから二段ベッドの上にもぐり込み、携帯ラジオにイヤホン付けて、4時過ぎまで音楽を聴いていた。たしか「歌うヘッドライト」だったかな。

深夜にトラックを走らせるドライバー向けの番組だったと思うが、単なる明るい流行歌だけを流す番組ではなかった。あの頃は特段、意識することはなかったが、あの深夜一時過ぎから4時ぐらいまでの時間帯は、放送禁止とされていた歌がけっこう流れていた。

もっとも当時、その曲が放送禁止だなんて知らなかった。いや、ご存知の方もいると思うが、今も昔も放送禁止歌というものは存在しない。ただ、マスメディアの側の自主的な判断で放送を控えていた曲があるだけだった。

そんなことは知らず、ただあの頃は良い曲だと単純に思っていた。ただ、昼間や夜の歌謡番組などでは、まったく耳にしな曲であることをちょっと不思議に思っていた。

率直にって暗い基調の曲が多い。だが、その暗さには心に刻まれる深い響きがあって、一人静かにじっくりと聞きたい名曲が多かった。

赤い鳥の「竹田の子守唄」や岡林信康の「チューリップのアップリケ」。いずれも、いつのまにやら放送禁止とされて、忘れ去られた歌となっていた。ただ、曲自体は素晴らしいものが多く、なぜか無自覚に、つまり放送禁止と知らずにオンエアされることもあったようだ。

今だから分かるが、当時のラジオの深夜放送は、比較的規制が甘く、大目に見られていたからこそ放送されていたのだろう。ちなみに一番記憶に深く残っているのは、つぼいのりおの「金太の大冒険」である。この歌の放送禁止は仕方ないと思うが、深夜放送なら良いのではないかい。

最近になって、意識してこの放送禁止の歌を努力して歌ったり、放送したりする動きが出てきた。AOLで知り合った歌手の夏川玲さんは、わざわざ放送禁止の歌を集めてコンサートをやったりしていた。

おかしなことに、抗議の声もまったくなく、むしろ拍子抜けするほど、あっさりと放送されたりしている。いったい、今までの放送禁止とは何だったのか?

詳しくは表題の本を読んでもらうこしたことはないが、その中でおそらく強烈な抗議をしてくるはずと世間から思われている部落解放同盟の方たちが口々に言うように、状況を考えて、その是非を問い、自らの意志で決断すべきなのだろう。

「エタ」とか「ヒニン」という言葉が差別用語であるのは確かだ。しかし、だからといって、その言葉自体を単純になくせば差別がなくなる訳ではない。むしろ、それは安易な誤魔化しというべきだ。

相手を侮辱する目的で使うことは良くないが、日本の長い歴史の中で、そのような事実があったことを記す目的で使うのは、むしろ当然であり、それを禁止(自主規制であったとしても)するのは、むしろおかしい。

にもかかわらず、抗議されるのを恐れてか、差別用語自体を禁じてしまっている。私もこの記事を書くにあたって気が付いたが、日本語ソフトもいつのまにやら自主規制しているようだ。「エタ」も「ヒニン」もすぐには転換できない。

断言するが、差別用語を禁じても差別はなくならない。これは、差別に対する事なかれ主義に他ならない。事なかれ主義では、問題解決とはならない。

ところで、なんだって101ストリングス(西ドイツの楽団)の「みすいろの恋」が放送禁止なんだ。ポール・モーリアのはいいのにね。訳わかりません。訳がわからないのに、平然と放送禁止にしてしまい、それを長年の慣習として受け入れてしまっていることにこそ、問題の本質があると思いますね。

まずは、自分の頭で考えて欲しものです。

コメント (9)
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夏休み

2012-08-17 13:22:00 | 日記
先週末、夏休みをとって伊豆へ旅行に行った。

子供の頃、母に連れて行ってもらった海を見たくなったせいでもある。もっとも当時、泊まった民宿は分からず、温泉ホテルに宿を取った。40年ちかく前に遊んだはずの海辺は、今も変わらず・・・と言いたいところだが、時代の流れのせいか少し寂れた感が否めなかった。

海の家など施設は、それほどでもないが、なんといっても人が違う。明らかに子供の数が減っている。大人にも高齢者が多く見受けられたのは気のせいではないと思う。そして当然ながら、浜をにぎやかにさせる若者の数も少ない。

私が子供の頃は、海水浴客でいっぱいで、砂浜に休む場所を確保するのも一苦労であった。また、波打ち際も人がいっぱいで、その隙間を縫って海へ入っていったものだ。泳いでいても、人にぶつかることが多くて、けっこう難儀した記憶があった。

しかし、今回の海浜はそれなりに繁盛していたが、砂浜には十分なスペースがあり、泳ぐ際にも周囲を気にする必要は薄かった。やっぱり人が減っていたと思う。ちょっと寂しくもあるが、ゆったりと休みを楽しめるのは確かなのだから、余計な感傷だと思う。

私は泳ぐよりも、日陰に寝そべり、もっぱら読書に勤しんでいた。もっとも日中ともなれば30度を超え、あまりに暑いので、体を冷やすために海に入る。軽く泳いで、砂浜に戻ってくると、ビールが美味い。ただ、少し暑すぎるとぼやいていたら雲行きが怪しい。

まさかと思ったが、午後に入ると炎天は雲に覆われ、気が付くと雨が降り出してきた。本が濡れるので、屋根のある場所に避難する。通り雨かと思い、むしろ涼しくなるので大歓迎と笑っていたが、そうは問屋が卸さない。

肌に突き刺すほどの激しい雨となり、まるで天からのシャワーだ。大半の観光客は更衣室や海の家に避難しているが、まだ子供や若者は海の中で遊んでいる。まあ、どうせ海水浴で濡れるも、雨で濡れるも同じこと。

そのうち豪雨なみに降り出すと、涼しいを通り越して寒いほどだ。それでも遊んでいる子供もいるので、海辺をパトロールする監視員たちも困っているようだった。でも、海水浴中止の旗は上がらなかった。

波の打ち際まで行って、同行した知人の子供の安否を確認してみる。大丈夫、さすがに逞しく育てられたせいか、笑顔でビーチボールで遊んでいる。やっぱり、男の子はこうでなくっちゃね。

ふと、沖合に目を向けると、雨で白波が立つ海面にぼんやりと人の手らしくものが突き出しているように見えた。

ん?

もう一度、目をやっても、その腕は波間に消えて見えない。まさか溺れたのか?いや、雨の落ちた痕跡だけが水面に見えるだけ。周囲を見渡しても、誰も気づいていない。はしご状の監視台に座って双眼鏡で観ている監視員も、とくに気づいた様子はない。

なんだ、私の見間違いか。私の眼鏡が雨で濡れていたせいだろう。

やがて雨は通り過ぎ、再び晴れ間が戻ってきた。ただし、雨が激しすぎたせいか、海水浴客の戻りは半分以下だ。だいぶ、ガラガラになった海水浴場は、風さえも寒く感じ、私は海に入ることにした。そのほうが温かく感じたからだ。

いや、本音を言えば、やはり先ほどの腕の突き出たあたりが気になったからだ。目の錯覚だと思うが、やはり確認したいではないか。その場まで泳ぎ着き、息を深く吸って潜ってみる。

この辺りは水深が5~8メートルぐらいだが、水質が綺麗で底まで見渡せる。数匹の魚影を見かけた他はなにもなく、やっぱり私の目の錯覚だった。安心して砂浜まで戻り、雲の切れ間から除く太陽を浴びて横たわる。

そのまま、うとうとして軽い眠りに入っていた。夢うつつに、波間に助けを求める人の手が見えた。

驚いて目が覚めた。あわてて波間に目を向けると、斜めにかたむいた太陽の日差しを受けて、海面が輝いているばかり。なにも怪しいことはない。でも、私の心臓はドキドキしている。

まったく、心臓に悪いぞ。

で、帰京して数日後になる今朝の新聞をみて、顔色が蒼ざめた。○□△海水浴場で水難事故・・・

よくよく読んだら、同じ名前だが違う県の海水浴場での事故だった。フゥ~まったく、三度も驚かされるとは思わなかったぞ。
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竹島騒動に思うこと

2012-08-16 12:07:00 | 社会・政治・一般

無駄騒ぎとしか言いようがない。

先のオリンピックで、竹島問題をアピールした馬鹿なコリアンがいた。以前にも書いたが、竹島は長年日本が領有した領土だが、戦後のどさくさに紛れて、韓国に奪われた領土だ。

結論から云えば、獲ったもの勝ち。

取られたならば、奪い返すべきであった。その努力を惜しみ、口先だけで抗議したって無駄。まァ、当時の日本政府は未だGHQの強い干渉下にあったし、独自の軍事力を持っていなかったが故に、対応できなかったのだろう。

おかしなことに、アメリカもこの件には、あまり動いた形跡がみられない。韓国政府が対馬の領有権を主張した時は、時のダレス国務長官があっさりと拒否していたことと比べても違和感はある。

察するところ、竹島の位置さえ把握しておらず、重要視していなかったのだと思う。

おかしいのは、その後の日本政府の対応だ。事なかれ主義の外務省が、騒ぎが大きくなるのを厭うてだんまりを決め込んだのはともかく、「竹島は日本固有の領土」だとアピールするだけにとどまっている。

馬鹿らしい。

固有の領土なんて概念は、どちらかといえば情緒の顕われに過ぎず、客観的でもなければ普遍的でもない。そもそも、領土なんてものは、それを実際に支配するものの物に過ぎない。

支配する力がなければ、意味のない概念だ。そして現在、実効力のある支配をしているのは韓国である以上、駐№ヘ韓国の領土。ただ、それだけが唯一の答えに過ぎない。

奪われた以上、奪い返す努力なくして、元に戻ることはない。「固有の領土」なんて言い分が、通る訳がないのは明白だと思うが、なぜか何度となく繰り返される。私は意味のない努力、結果を伴わぬ努力を認めてやる気はない。

そんな私からすると「固有の領土」だから返せなんて、馬鹿の遠吠えにしか思えない。「ボク、正しいよ。だから返してくれるよね」と涙目で甘えている、情けない坊やそのものだ。

泣きわめいている暇があるなら、奪い返すための努力こそやってみろ。どれだけの軍事力と予算が必要となるのか算定してみろ。そのほうが、よっぽど現実的だ。

余談だが、尖閣列島は日本の領土だ。固有の領土か、どうかなんて馬鹿な議論している暇があるなら、守るための具体的な方策を練ってみろ。一番有効なのは、アメリカ軍と自衛隊の共同使用の基地を作ってしまうことだ。武力あっての防衛。

この愚かしくも、冷徹な現実から目を逸らしなさんな。

憲法9条も、固有の領土論も、領土を守るのには役に立ちませんよ。必要なのは、大切なものは自分で守るという覚悟。その目的を果たすための一環としての軍事力であり、外交交渉なのだ。

コメント (5)
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