ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

風雲急ならず 北朝鮮情勢に思うこと

2013-03-14 12:38:00 | 社会・政治・一般
狼が来たぞゥ~

大騒ぎする村人が可笑しくて、何度も大声で嘘をついた少年は、本当に狼が襲ってきたときに警告を告げても信用されませんでした。

幼い頃に読み聞かされたイソップ童話だが、おそらく北の金正恩は知らないのではないかと思う人は少なくないだろう。核実験の強行に反発する米中などの意向を受けて、国連での制裁決議に反発するのは予測の範囲内だ。

しかし、アメリカへの先制攻撃を叫ぶなど、呆れるほどに好戦的な発言が相次ぐ。もっとも、その一方で資源に乏しい北朝鮮が外国の支援なしに戦争をすることは不可能に近いことも分かっている。

だからこそ、イソップ童話を思い出して、「狼が来たぞゥ~」と叫ぶことの愚かさと危険性を危惧してしまう。しかしだ、恐らく知っていて、分かっていても叫ばざるを得ないのだろうと思う。

三代目として独裁者の座に就いた金正恩だが、実力不足というか、権力基盤はまだまだ弱い。当初、経済改革などを志向していたようだが、これが軍の反発を生んだ。

もとより頼りになるのは妹の配偶者と、母の存在であったが、軍に対する支配力は弱い。だからこそ、軍部の意向に沿わざるを得ない。ここに虚構と知りつつ「狼が来たぞゥ~」と叫ばねばならぬ理由がある。

軍の存在価値は、敵があってこそである。軍隊にとって最大の脅威とは、敵ではなく平和による存在価値の喪失である。

軍隊というものは、巨大な官僚機構でもある。官僚機構であるがゆえに、組織は硬直化しがちであり、旧来の思考に縛られる。間違っても軍隊自らが新しい時代に適応して、自ら改革を求めることはしない。

これは旧・ソ連軍でも、シナの人民解放軍でも変わりない。むしろ社会主義を掲げるような国々は、そうじて軍隊は官僚機構として肥大化する傾向が強い。もちろん、その傾向は資本主義国でも変わりはしない。

ただ、西側先進国の多くは三権(行政、司法、立法)、もしくは二権力(司法、行政)による抑制機能がある。いくら軍が既得権力保持を固守しようと、予算権限を持たぬが故に、その力は著しく弱められる。

これは現在、世界最大の規模を誇るアメリカ軍とても同様であり、軍がいくら高性能(高価格)な武器を欲しがろうと、予算を握る立法府の賛意なくしては動けない。

そのため、アメリカ軍は世界規模での軍のリストラを敢行中である。これを軍縮だと勘違いしている向きもあるようだが、まるで見当違いである。むしろ施設の集中と、高機能化を求めた動きであり、限られた予算で如何に軍事力を維持するかを目的としている。

具体的に云えば、GPSやレーダーを使って飛躍的に命中率を高めたミサイルは、目標に当たらぬ無駄を減らすための方策であり、無人の偵察機、攻撃機の開発と運用は人的被害の抑制に大きな主眼を置いている。

だからこそ、冷戦後に置いてイラク戦争をはじめテロとの戦いでも、優位を保てているのだ。そのことは、当然北朝鮮の軍首脳部だって知っている。本当にアメリカと戦火を交えることとなれば、勝つ見込みはなく、イラクのフセインのように優位な社会的地位や権勢を失うことも分かっている。

だからこそ、核兵器の開発こそが生命線なのだ。核爆弾を搭載できる弾道ミサイルあってこそ、自国の立場を保てる。いや、もっといえば、核ミサイルなくして軍隊の存在意義はない。なぜなら、北朝鮮軍は、もはや近代的戦争を遂行する能力に欠けているからだ。

北朝鮮政府にとって核兵器とミサイルが国家の生命線であると同時に、唯一世界に誇示できる武器でもある。

それは使ってはならぬ兵器であり、使ってしまえばお終いの自殺兵器でもある。だが、使わずに威嚇に使う限りにおいては、きわめて有用な手段であることは、イランやイスラエルをみれば分かること。だから半島の戦火を恐れる必要はないと思う。

むしろ注意すべきは、北の政府の権力構造の変化だろう。初代の金日成、二代目の金正日は、ほぼ完全に軍及び行政府を掌握していた。しかし、三代目は厳しいというよりも、かなり微妙な立場にあるようだ。

だからこそ、軍に媚びて「狼が来たぞゥ~」と殊更大声で叫ばねばならないのだろうと思う。

私はそう遠くない将来において、北京政府が謀略により傀儡政権を打ち立てるのではないかと想像している。これは他人事ではない。

なんとなれば、尖閣諸島どころか、沖縄に於いて親シナ寄りの政治集団を立ち上げて、日本からの独立を画策することだってやりかねない。オスプレイに反対しているような状況ではないと思いますね。

まァ、平和馬鹿の耳には届かないのは分かっているのですが・・・
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ダイハード・ラストデイ

2013-03-13 11:59:00 | 映画

こんな親父、いたら確かに迷惑に思うだろうなァ。

誰がって、もちろんブルース・ウィリス演じるところの世界一運の悪い刑事マクレーンである。世界的大ヒットとなった一作目の「ダイハード」から数えて5作目においても、相変わらず運の悪いというか、間の悪い男を演じている。

よほど日頃の行いが悪いのではないかと思っていたら、やっぱり悪かった。以前、娘を不運な事件に巻き込み大騒動となっていたが、今度は思春期に仕事優先で放り出していた息子を巻き込んでの大騒動。

何故か遠くロシアの裁判に巻き込まれた息子をみてやりにモスクワに乗り込んだ休暇中のマクレーン刑事は、またしても事件に巻き込まれる。しかも、せっかく助けるつもりで出会った息子からは、「なんで邪魔するのか!」と罵倒される有様。

一体全体、マクレーン刑事は何に巻き込まれ、何が起こっているのか。

そんな疑問に頭を抱えるよりも、まず体が動くのがマクレーンの良い(悪い?)ところ。そこから始まるカーチェイスの凄まじさは、アクション映画屈指のもの。いやはや、これだけ車がぶっ飛び、踏みつぶされ、はじけ飛ばされるカーアクションは滅多にない。

この場面だけでも観る価値ある。

事件に巻き込まれることに関しては、世界一運の悪い刑事であるマクレーンだが、どさくさまぎれに難事を乗り越え、無計画に行き当たりばったりで生き延びる名人でもある。どうやら、その資質は息子にも受け継がれているらしい。

日本版のタイトルには「ラストデイ」とあるけど、多分次回作もあるね。いずれにせよ、5作目が作られること自体、すごいのだけどね。ちなみに原題は「A Good Day to Die Hard」で、戦場で戦いに向かう兵士たちが、絶対に生き残ってやるとの意思を込めて口にする科白、死ぬにはイイ日だぜ「A Good Day to Die」のもじりです。

まァ、出来たら映画館の大画面で楽しんで欲しいです。そうでないと、あのカーアクションは満喫できませんよ。

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一票の格差 違憲判決に思うこと

2013-03-12 12:01:00 | 社会・政治・一般
違憲判決、当然である。

先の衆議院選挙における一票の格差を問題視した弁護士達による違憲訴訟で、裁判官は明確に違憲であると判断した。ただし、選挙そのものは有効だと現状追認したあたりが、現行の三権分立の限界なのだろう。

このブログでも何度となく書いているが、一票の格差は民主主義の根幹をなす多数決原理を危うくする極めて危険な問題だ。

戦後の高度成長時代に都市への人口集中と、地方の過疎化の進行が今日の一票の格差を生み出した。これは致し方ないことではあるが、その結果として過疎地の一票と、都市部の一票の格差は衆議院でも2倍以上、参議院ともなると4倍を超す。

簡単に云えば、過疎地の有権者の意見は過大に取り上げられる一方で、都市部の有権者の意見は過小評価される。

その結果が、過疎地の立派な道路と橋などの公共建築物であり、都市部の交通渋滞と狭くて高い住宅環境となっている。これを歪みと言わずして何と呼ぶのか!

やたら数だけは多い国会議員どもは、自分の選挙区が不利になるような選挙改革に賛成する訳はなく、表向き賛意を示しながら裏では必死の妨害をしてきた結果が、今日の格差でもある。

一応言っておくが、選挙区とは国会議員のためではなく、有権者のためにある。その選挙区の区割りが適正でないからこそ一票の格差が生じている。

選挙とは、有権者の多数意見が反映されてこそ、最大多数の最大幸福という民主主義の原則が実現する。

選挙とは、地元の長年の利権を確保する手段でもなければ、少数意見を尊重する手段でもない。最大多数原理とは、多数意見による少数意見の合法的押し潰しであり、過疎地の利権を切り捨てる合法的方策でもある。

それが実現していなからこそ、有権者は選挙に空しさを感じて投票に行かない。今日の日本では、選挙は有権者の意見を反映する手段としての信用度を失くしつつある。だからこそ、国政選挙であっても投票率は6割程度なのだ。

その結果が、善意だけを振りかざす自称良心的市民の代表だとか、特定の宗教団体とかの跋扈を許す現状を招いている。40%近い投票しない無言の有権者は、現状では無視され、犠牲となっている。それを許しているのが、この一票の格差なのだ。

投票しないのが悪いと言う意見にも一部の理はあると思うが、一票の格差が2倍を超える選挙では投票に意味を見いだせないのも無理はない。

暴論かもしれないが、国会が一票の格差を変えてまでして自分の選挙区が不利になるのを嫌がるのなら、一票の重みに加重平均を加味して平等性を確保するやり方だってある。

裁判官が既に実施された選挙の無効判決を出すのを嫌がるのは分かるが、誰かが猫に鈴を付けない限り、一票の格差はなくならないと思う。誰か勇気(蛮勇ではあるが)ある裁判官はいないものか。

まァ、現行の司法制度では役人的、すなわち現状追認型の思考をする裁判官が出世しやすいので、当分無理だとも分かっているのですが、それだけに不愉快ですね。
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黄昏に燃えて ウィリアム・ケネディ

2013-03-11 11:47:00 | 

浮浪者は楽じゃない。

浮浪者になったことはないが、学生の頃に九州などの遠方の山へ合宿登山に行った帰りに、思いっきり貧乏旅行をしていたことがある。要は宿に泊まらなければ、たいして金がなくても長期の旅行は可能だ。

幸い3週間近くテントでの野外生活に慣れていたので、寝袋をダッフルバックに詰め込んで、日々野宿をしながら旅をしていた。この経験があるので、浮浪者の生活がある程度理解できる。

一番苦労するのは、その日の寝床をどうするか、だった。しばしば橋の下での寝泊りを聞くが、私の経験からするとあまり良い場所ではない。たしかに雨はしのげると思うが、湿気が辛い。

朝、起きた時に夜露で体がビッショリ濡れていた時の気持ち悪さは忘れがたい。あれは大失敗であった。高温多湿の日本の夏で、野外で野宿するときは地面に防水性のあるマットをひくかしないと、夜露にやられて不愉快な思いをする羽目に陥る。

私が橋の下を厭う、もう一つの理由は地面のデコボコさにある。河原だとどうしても石が散乱していて、寝心地が極めて悪い。半身用のエアマットを愛用していたが、河原の石の上で眠るのはかなりつらい。

また野宿の際の便利な道具として段ボールを挙げる人は多い。実際多くの浮浪者が愛用している。ただ、あれはかさばるので私のような旅行者には持ち歩きづらい。だから私は滅多に使わなかった。

ただし防湿性、防風性に優れているので、浮浪者が愛用するのはよく分かる。実際、日本の冬を野外で乗り切るためには、段ボールは必需品といっていい。夏場だって床に敷くだけで、寝心地は格段に上がる。震災などで帰宅難民と化した場合には、覚えておくといいでしょう。

もう一つ、便利な道具として付け加えたいのが新聞紙。冬場なんて、新聞紙を体に巻いておくだけで、暖かさが別世界。しかも携帯性に優れ、入手しやすい。浮浪生活には必需品と云ってイイと思います。

かくも段ボールと新聞紙に拘るのは、秋から春にかけての野宿で最大の敵が寒さだからです。冷たい外気に体温を奪われる辛さなんて、冬山だけの世界だと思い込んでいましたが、都会での野宿でも同様だと知った時は驚いたものです。こればっかりは経験してみないと分からない辛さだと思います。

だから私は可能な限り、雨風をしのげる場所を探し、潜り込んで一夜を明かしたものです。地方、それも田舎のほうならば駅の宿舎の待合室が一番いい。ただし、旅行者らしい恰好をしていないと、巡回の警官につまみ出される。はっきり言いますが、野宿の最大の敵は警察です。

私は未経験ですが、小遣いをせびりにくるチンピラも要注意です。そして、あまり書きたくないのですが、親しげに近づいてくる旅行者風の浮浪者も危ない。ちょっと油断すると荷物を探られたり、小銭をたかられたりと碌なことがない。

警戒心の強い私は、幸いこの手のトラブルからは、いつも上手く逃げていましたが、危険性自体はいつも認識していました。野宿の敵は寒さと人間なのです。

それでも、いつの時代も野宿をする人間は絶えることがない。生活苦からの逃亡者や、犯罪者もいるし、帰る場所を失くしたが故に流浪の生活を止む無くされた浮浪者もいる。

表題の作品は、第一次世界大戦後の束の間の繁栄の後、世界を襲った大恐慌後のアメリカにおける浮浪者が主人公だ。自らの失態で帰るべき家に帰ることが出来なくなった元メジャー・リーガーである主人公が長年の流浪生活の末に帰郷した。

人も街も変わってしまったようで、変わらぬ人がいる。その日、その日を生きるのに必死な反面、酒と怠惰から逃れることも出来ずにいるもどかしさ。元・妻と子供たちが住む家の前で佇む主人公。

決してハッピーエンドとは云えない話ではあるが、社会の底辺に生きる人々の切なさと愚かさ。そして世間の冷たさと、それでも残っている暖かさを感じられる逸品です。機会がありましたら是非どうぞ。

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ストロベリーナイト

2013-03-08 11:59:00 | 映画

雨が好きかと問われると、いささか返答に窮する。

夏の豪雨はけっこう好きだ。ちょっと身震いするほどの激しい雨には、自然の強大さを思い知らされる気がして、敬意さえ抱いている。

梅雨のしとしと雨も、わりと好き。湿度が高すぎると嫌だが、少しひんやりする程度の優しい雨は、大地を潤す感がして落ち着いた気持ちになれる。

もっとも夏から秋にかけての変わり目の雨は、素直に好きとは言いかねる。夏の熱気が雨で消し去られるのは嬉しいが、秋雨前線はあんがいと居座りやすく、じとじとと降り続くのが嫌らしい。

でも秋に訪れる台風による大雨は好き。物騒な話だが、唸る風と叩きつける雨音を聴くとわくわくしてくる。そして台風が通り過ぎた後の朝の爽快さが嬉しい。

でも、冬の激しい雨は嫌いだ。コートを襟立てても、いつのまにやら冷たい雨がしみ込んでくる。身体ばかりか心まで冷やす気がして好きになれない。

そして春の雨。私にとっては確定申告を終えた安堵感を感じる雨であり、一雨ごとに寒さが薄れ、暖かさが近づいてくることを予感させる雨でもある。更に付け加えるのならば、花粉を流し去る雨でもある。

同じ空から降る雨ではあるが、季節により大きく違う雨でもある。

表題の映画では、この雨が上手に使われている。激しい雨、シトシト雨、霧雨といくつもの種類の雨がスクリーンを彩る。外での場面は、ほぼ9割方雨なのだから、撮影はさぞかし大変だったのだろう。

私は知らなかったのだが、女性刑事姫川を主人公とした警察ドラマはTVでは、けっこう人気であったらしい。その最終話にあたるらしいのだが、シリーズをまったく観ていない私でも十分楽しめた。

ちょっとだけケチをつけるとすれば、血の色は確かにイチゴの色に似ているかもしれないが、本当の血の色はもっと深く、もっと濁っている。鮮血の夜ではあるが、ストロベリーナイトってタイトルは、あまり似合わないと思うな。

コメント (2)
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