嫌なものは嫌!
こう言われてしまうと、どうしようもない。
数年前の事だが、あるSNSで入れ墨の是非に関するニュースに対して、肯定的なコメントをしたことがある。すると見知らぬ方からひどく粘着された。
私は入れ墨に対して、ほとんど拒否感がない。なにせ子供の頃には、近所に入れ墨が身体に刻まれた人が身近にけっこう居た。博徒もいたが、普通の職人さんも居た。銭湯に行けば、背中に入れ墨の入った後姿を見ることは、さして珍しくなかった。
だから、コメントも肯定的な文となったが、私に突っかかってくる御仁は、入れ墨を許容する意見自体認めがたい頑固者であった。道理ではなく、感情的に完全に受け入れられないと、全身で拒絶しているかのような返信文に呆れてしまった。
私とて、入れ墨には他者を威嚇するかのような効果があることは認めている。また近年の日本では、やくざものが堅気もんを威嚇するための恣意的な入れ墨が多いことも分かっている。
でも、入れ墨自体は日本では古来よりある風習である。魏志倭人伝にも記載があるし、中世、近世でも決して途絶えることのなかった風習である。おかしくなったのは、現代以降だ。
やくざのような組織犯罪者が市民を威嚇するための風習として、入れ墨を認知させるようになったのは、昭和に入ってからだ。現実問題、日本が次第に近代化し、欧米化が進展するにつれて、入れ墨=反社会的との認識が高まったと思っている。
妙なことに、日本以外の国では、必ずしも入れ墨=反社会的ではない。お洒落というかファッションとしての入れ墨も、かなり多い。特にスポーツ選手には、入れ墨を肯定的に、あるいは主体的に入れているケースが少なくない。
もっとも古来から、入れ墨は呪い師や僧侶など宗教的な意味合いを持つことも普通であった。また戦闘に赴く戦士たちが、自らを鼓舞するため、あるいは敵を威嚇するための入れ墨も珍しくなかった。
つまり入れ墨自体は、有史以前から存在する人類の慣習であった。
ところが、戦後に日本では組織犯罪に悩んだ政府が、入れ墨=やくざもの、とのイメージを強く打ちだし、それが世間的に広く認知されている。そのせいで、海外からの観光客の入れ墨についても、画一的な対応(入浴施設やプールはダメ)を求める人が後を絶たない。
この問題が厄介なのは、入れ墨=犯罪者との認識を持っている人たちの多くが、善良なる市民であり、経済的にも恵まれた層のお方々であることである。自分たちが良き市民であることを強く自覚しているので、入れ墨に対する拒否感もまた正義であると確信している。
その一方で、海外からの観光客の更なる増加を目論む政府としては、日本の自慢の観光施設である温泉やプールなどの施設に関心を持つ外国人観光客を、入れ墨を理由に拒絶することは避けたいと考えている。
率直に云って、正しい、間違っているの問題ではなく、感情的な嫌悪感が根幹にあるので、解決策を見出しにくい。
私自身は、そもそもファッションとか外見に無頓着なので、入れ墨自体に興味がない。拒否感もない替わり、積極的に好感を抱いている訳でもない。ただ、入れ墨から威圧感を覚える人の感覚は理解できる。
でも、その日本人の好悪の感情を理由に、外国人を温泉施設等から除外するのも、なんか傲慢な気がして嫌。ここは日本なのだから、日本の常識に従えと、入れ墨拒否派の方々は主張する。それも一理あるとは思うが、いささか理不尽な気もする。
手術痕を隠す入浴着のような形で、入れ墨を入れた外国人観光客を容認するぐらいの寛容さがあっても良い様に思うのですが、絶対容認できない反対派は納得しないでしょうねぇ・・・
嫌なものはイヤ! こう言われちゃったら、話し合いもへったくれもないですね。
歴史を学ぶにあたり、IF(もし・・・)の視点は不要ではあるが、面白くはある。
いや、不要な視点だからこそ面白いのだろう。ただし余技だと思う。子供の頃から本筋から脱線するのが大好きであった私だが、一時期ずいぶんと流行った架空歴史ものには手を出さなかった。これは余技というよりも邪道だと思っていたからだ。
しかしながら、真面目に歴史を考察するに当たり、IFの視点は多面的な見方を可能にするので、無下にすることもない。
私が日本の歴史を考えた時に、考えてしまうのは「なぜ、日本は西洋の植民地とならなかったのか」であり、「もし、西洋の植民地となっていたのならば、どのような未来があったのだろうか」である。
アジアに最初にやってきた西欧は、香料を求めてやってきたポルトガルである。インドのゴアに拠点を置き、インドネシアなどに進出していく過程で、漂流した一隻が日本に流れ着いて、鉄砲伝来となったことで知られている。
そのポルトガルだが、スペインに合併されて、より強力に植民地政策を進める過程で、日本へキリスト教の宣教師を送り込んできた。彼らが本国へ情報を送り、植民地政策に大きく貢献した情報員としての任務を有することは、彼らの手紙などから明らかであった。
この時期、西欧の主たる目的は、貿易相手としてのシナであり、黄金の国ジパング、つまり日本であった。アフリカやアジアに対して露骨な蔑視と優越感を持っていたスペインやオランダは、この二か国に驚嘆していた。
シナは西欧を遥かに超えた巨大な帝国であり、都市計画に基づいて築かれた首都・北京の壮大さは彼らを驚嘆させた。インドネシアやフィリピンを容易に征服したスペイン、オランダも武力制覇は諦めざるを得なかった。
一方、当時のヨーロッパの金価格を暴落させた日本の金輸出は、まさに黄金伝説ジバングに相応しいものであり、相当な熱意をもって侵略を目指したが、尖兵たるキリスト教宣教師たちの報告に、その野望を諦めざるを得なかった。
当時の日本は、戦国時代であり、日本各地に武装した兵士が溢れていた。呆れたことに、当時のヨーロッパでも実現していなかった火縄銃による集団戦闘さえ、実際に行われていた。
ちなみに、西欧で火縄銃による大規模な集団戦闘が行われたのは、30年戦争の後半であり、日本はそれに70年先駆けてそれを実現していた。当時の火縄銃は、一発発射すると次弾装填までに一分ちかくかかる。
そこで交替要員を交互に配置しての連続攻撃を思いついたのが、戦国時代後期の雑賀衆である。プロの傭兵軍団であった雑賀衆は、本願寺に雇われて織田信長と激戦を交わしている。この時、大苦戦した信長は、大量の火縄銃による集団戦法を学び取り、自軍にも採用した。そして後に武田騎馬軍団を長篠の戦いにおいて破っている。
3千丁を超える火縄銃を持っていた武将など、当時のヨーロッパにはいなかった。宣教師たちの報告に恐れおののいたスペイン、オランダは、日本への直接的な支配を諦めざるを得なかった。
その後、日本を完全に支配した徳川幕府は、オランダと清に限定して交易することにして、西欧との関わりを排除して、250年にわたる平和な時代を作り上げた。
もし種子島にポルトガル人が流れ着かなかったならば、そして鉄砲伝来がなかった、歴史はどうなったであろうか。鉄砲がなくても戦い馴れた兵士を数十万人抱えた日本であるから、そうやすやすとは侵略を許さなかっただろうと思う。
しかし、鎖国は無理だったように思う。シナ同様に、沿岸の幾つかの町を、交易拠点として西欧に使われていた可能性は高い。後からやってきたイギリスの遣り口などから推測すれば、内乱を起こさせて分断され、事実上の植民地化への道を辿った可能性が皆無とは言えまい。
西欧の植民地と化したアジアの国々の後進性を考えれば、日本が独立国としての地位を守れたことは、まさに武力あってのものである。平和を守るために、必要にして十分な武力があったからこそ、日本は衰えず、支配されず、独自の文化を守ってこれた。
日本史における戦国時代を学ぶならば、この視点は現代にも通じる大切な視点である。しかるに、日教組の強い影響下にある日本の歴史教育の現場では、そのようなことが教えられることはない。
年号やタイトルを暗記することが歴史を学ぶことではない。過去に何があって、それが現代にどれだけ影響しているのか、それを学ぶことが歴史の価値である。反戦教育が平和につながると信じている、おバカ教師がどれほど有害か、よくよく理解して頂きたいものである。
私が度々、批判的に思っていたアジア大会におけるサッカー日本代表のU21チームは、結局準優勝に終わった。
なにせ相手はU23にフル代表3人を加えて必勝態勢できた韓国である。それでも前後半は0-0であり、延長前半で0-2、延長後半で一点を返しての1-2の敗戦であった。
地上波では放送されていないので、ネットでの観戦となったが、まァ相変わらず激しいというか反則上等の乱暴なサッカーの韓国です。大怪我をした選手がいなくて何よりでした。
私が今回の森保・ジャパンに批判的なのは、その試合運びがルーズで、チャレンジがない消極的なものであったからです。だからといって、守りに徹している訳ではなく、ミスを避けて、責任回避を図るチームプレイが嫌だった。
特に一対一のプレーにおける消極性は、情けないほど。これほど闘志を感じさせない代表チームも珍しいもんだと唾棄していました。
ところが不思議なことに、この韓国との決勝戦では、今までになく闘志を感じさせるプレーが続出して、私はビックリでした。
やれば出来るじゃん・・・
どうも韓国のラフプレーに触発されてのものであったようで、ようやく国際試合らしい激しいプレーの応酬は悪くなかった。でも、体力に勝る韓国に延長で押されていたのは明白でした。だからこその必然の敗戦だったかもしれません。
でも、試合後の日本選手たちは心底悔しそうな表情を見せたので、まァ得るべきものはあったのでしょう。
実は宿敵と云われた韓国との試合は、本当に久しぶりでした。前回のアジア大会、東アジア選手権以来ですから、ほぼ4年ぶりです。韓国は日本との試合になると、絶対に負けられないとばかりにラフプレーに走るので、日本サッカー協会は試合を避けている感じがあります。
想像だけど、FIFA及びアジア・サッカー連盟も同じように考えているように思います。ワールドカップのアジア予選でも、日本と韓国は対戦しないように組み合わされることが多いですから。
私自身、荒れる試合が多いので、韓国とわざわざやる必要はないと考えていました。でも、どちらかといえば、育成に成功しているとは言い難い日本代表のアンダー世代には、今回の試合は良い刺激になったようです。
日本サッカーは、その国民性からも綺麗なプレーをしたがります。Jリーグでも反則の基準はかなり厳しく、そのせいで国際試合では苦労しているのが実態です。
世界では、反則もプレーのうちだと考える国のほうが多いのが実情です。特にアフリカや南米では、上手な反則は、選手の技量のうちだと認めているぐらいです。でも、欧州では人気選手の怪我を経営的にマイナスだと考えるサッカー関係者が少なくない。
だからこそ、先のロシア大会ではヴィデオ判定が持ち込まれたのです。次のカタール大会では、果たしてヴィデオ判定が採用されるか、どうかは未定です。採用されれば、反則は減るでしょう。でも、採用されない可能性もある。
世界では、まだまだ反則が横行するサッカーが多いのが実情ですから、日本の若手にもそのような経験を積ませておくことは必要だと思います。その意味で、反則プレーを闘志あふれるプレーだと強弁する隣国の存在は、上手く使えば今回のようによい薬になると思います。
まっ、使い過ぎは禁物ですけどね。
妖怪のせいなのさ。
そう言い切った方が楽かもしれない。何のことかと言うと、うつ病や自律神経失調症といった精神系の病気のことである。
私は20代の頃に、非常に強い薬を多量に、しかも長期間にわたり服用していたが、そのせいで鬱状態に陥ったことがある。もっとも当時は、その症状が鬱からくるものだと分かっていなかった。もちろん、薬の副作用だなんて考えもしなかった。
でもはっきり覚えているのは、あの精神的な苦しさである。身体が重苦しく感じるほどに辛かった。とにかく苦しくて、なにが苦しいのかも分からないけど、身体を動かすことが億劫うで、一日家にこもって布団にもぐりこんでいた。
私は基本的に楽天的というよりも能天気なところがある。鬱の経験がまったくなかったので、それが精神的な苦しみだと思いつかなかった。ただ、当時難病のせいで、長期にわたり自宅療養を強いられていたので、そのせいだと思い込んでいた。
鬱病だと知ったのは、ある程度回復し、社会人として働き出してからだ。インターネットが普及し、同じ難病患者が集うサイトで開催されたオフ会で、ステロイドの副作用の一つに鬱があると聞かされて、思わずなるほどと思った。
そういえば、ステロイドには躁鬱作用があると記されていたけど、当時は自分が鬱になること自体、まったく想定していなかったので気が付かなかった。だから、単純に苦しんでいた。本当に苦しかった。
この経験があるから、精神的な苦しみで、働くことが出来ず、家にひきこもる人たちの気持ちはある程度理解できる。
でも、理解は出来ても、時として理解したくない場合もある。
仕事柄、いわゆる資産家と云われる人たちと会うことは珍しくない。もちろん一部だと思うが、この資産家の子弟には、案外とニートが多い。誤解を招くといけないから、はっきり言うが大半は親の資産を十分認識しており、それを守るための意識が強い真面目で勤勉な人だ。
また親の資産と自分は別と云わんばかりに、自らの仕事に集中して、それなりに実績を挙げている立派な方もいる。世の偏見とは裏腹に、資産家の子弟は案外と真面目で、堅実な方が多い。
しかし、例外はどこにでもある。
小学生の頃のクラスメイトにH君がいた。素直で真面目で、人当たりが良くて、とても感じのイイ奴だった。家はマンションの最上階を独占していて、いわゆるオーナー様であった。卓球が出来るくらい広いベランダにビックリしたものだ。祖父は地主様であり、長男である父親はH君とは違ってすごく偉そうにしていたことは覚えている。
あの頃は、私やH君他数名でプラモデルの同好会に入っていて、広い自室をもっているH君の家で、各自が作った自慢のプラモデルを見せ合っていた。その趣味をH君のお父さんはあまり好意的にはみていなかったと思う。それでも、私たちはH君とは仲良くやっていた。
でも進学した中学校が違ったので、私は次第にH君とは疎遠になっていた。あれから40年以上がたったある日のことだ。東京近郊の顧客の元を訪問し、帰りが遅くなったので、駅の近くの居酒屋で夕食をとっていたら隣の席の客に声をかけられた。
誰かと思ったら、小学校の時のクラスメイトのMとSであった。二人ともプラモデル仲間であったが、中学が違ったので再会したのは、ほぼ40年ぶりである。
二人ともこのあたりに住んでいるのだが、それは偶然であったらしく、偶にこうして飲んでいるそうだ。久々であったので、いろいろと情報交換をしている最中に、プラモ仲間であったH君の事を尋ねたら、二人とも急に暗い顔つきになった。
「Hの奴、多分、今も自宅に引きこもっていると思う」と云われて、私はビックリした。あの人当たりの良いイイ奴が?!
H君は中学に入った後、急に音楽に目覚めたようで、バンドを組んでエレキギターをかき鳴らし出した。そのせいでMやSとも距離を置くようになった。まァ、これはよくある話である。
その後、高校に進学した頃には、それなりに人気があるアマチュア・バンドの一員となって学園祭などで演奏していた。この頃からH君は親との喧嘩が絶えず、幼馴染でもあるMやSの元にH君の母親から「息子の目を覚まさせてほしい」なんて連絡もあったそうだ。
私は知らなかったが、地元の大地主であるH家では、息子を弁護士にして財産を守らせることを考えていたらしい。だからこそ、プラモデルもバンドも父親には到底認められるものではなかったようだ。
結局、音楽は大学までとの約束で一応、進学したのだが、父親の希望である弁護士になるための勉強は碌にせず、バンド仲間と遊び呆けていたらしい。ところが在学中に、そのバンドに某音楽プロダクションから連絡があり、急遽デビューが決まった。
大喜びのH君は、MやSにもコンサートのチケットを配り、是非聴きに来てくれと連絡してきた。そのコンサートはジョイント形式で、5つくらいのバンドが出演して、複数の音楽プロダクションやら、どこぞのプロデューサーやらが審査員として招かれていた。
某市民ホールでのコンサートであったそうで、MやSも興味津々で行った。しかし、結果は悲惨であった。会場はほぼ満席であったが、その観客の大半は既に人気があった4つのバンドのファンで、H君のバンドは実力的に大きく劣ることが素人のMやSにも分かる有り様であった。
だからH君のバンドが演奏中は、観客がトイレに行ったり、雑談をしたりと悲惨な状況であった。そして当然にプロデビューの話は流れた。バンドのメンバーは失望と怒りから仲がおかしくなり、その後解散してしまった。
それだけでは済まなかった。バンドのマネージャーをやっていた女性が、コンサートの売上金などを持って逃亡してしまった。その女性はH君の彼女であったので、H君も疑われてしまい、人間不信に陥って自宅に引きこもってしまった。
その後、地元でH君が専門学校に通って司法試験を目指しているとMとSは聞いていたそうだ。だが、高校、大学と音楽ばかりやっていたH君には、なかなか厳しい受験生活であったようだ。
そのせいで、クラス会などにもH君は顔をみせなくなったので、自然と疎遠になった。ところが数年後、H君が親を刺したとの噂が仲間内に駆け巡った。いったい、何が起きたのか。
Mが又聞きの話だがと前置きした上で話してくれた真相は衝撃的であった。H君のバンドにプロデビューの話を持ち込んできた人物は、実は父親の指示を受けており、最初から実力的に差が明白なコンサートに紛れ込ませて、恥をかかせてバンドを解体させることが目的であった。
そして、H君の彼女でもあった女性マネージャーは、それを承知の上で企画にのり、その上売上金の持ち逃げも、父親の指図を受けてのことで、そのための褒賞も別に貰っていたそうだ。
それがばれたのは、その女性が逃亡先の海外から一時帰国しているところを偶然にH君に見つかってしまったからだ。激高するH君に真相を話し、唖然茫然としている隙に、その女性は再び逃亡してしまった。
後に残されたH君は、もはや父親に確認するしかなかった。そして父親は、もう終わったことだと淡々と事実を語り、何事もなかったかのようにH君に「そろそろ本腰をいれて司法試験に挑め」と命じて自室に戻ろうとした。
その瞬間、隠し持っていた包丁でH君は刺したらしい。そのあたりの事情は噂混じり、虚実混じりなので、どこまで本当かは分からないとMは疲れたように呟いた。
分かっているのは、パトカーや救急車が来て大騒ぎになったことと、新聞などには報じられず、またH君は刑務所に行くこともなかったこと。そして、どうやら心が壊れてしまったようで、時折母親に連れられての病院通いをしていることだけであった。
音楽活動とは無縁であった幼馴染のMとSのことを母親は覚えていて、時たま話し相手になってくれと呼ばれたこともあったそうだ。でも、MやSが話しかけても、まるで反応がなく、まるで人形に話しかけているみたいで気持ち悪かったとSが嘆いていた。
それが十年以上前のことで、ここしばらくは音なし。だから今、どうなっているのかは、まるで分からないんだよとMが話を締めてくれた。
Mに対してH君の母親は、重度の鬱病なのよと説明していたそうだが、Mは信じられないと吐き捨てた。「ありゃ、なにか強い薬を飲まされているに違いない」と怒り気味であった。
Sは冷静に、「あれは確かに心の病気だと思うけど、病気の原因は親だよ。他に考えられないね」と言っていたが、私も同感であった。
H君は転校生の私に、とても親切に接してくれた貴重なクラスメイトであった。その丁寧で、温和な態度に、当時心が荒れていた私はずいぶんと助けられた。そんなH君の心を壊すまでに追い詰めた親の存在が、私には信じられない。
おそらく、どんな名医でもH君の心は治せないと思う。治さなければならないのは、H君の親たちだったはずだ。多分、心の奥底でH君は分かっていると思う。でも、優しいH君は親から完全に離れることが出来なかったのだろう。
心の病気は、時としてその原因が本人ではなく、周囲の人間にこそある場合がある。赤の他人ならば逃げればイイが、家族ではそうはいかない。他人ならば憎めるが、家族だと憎み切るのは難しい。
いっそ妖怪に憑かれたのだと思い込んだほうが楽ではないかと思ってしまいます。
21世紀は、人類が水と原油と食料を争奪する世紀となる。
これは予言ではなく、事実から論理的に考察した予測に過ぎない。ここでいう水とは人が活用できる淡水である。地球上に存在する水の大半は海水であり、淡水は3%程度しかない。
しかも、淡水のうち人類が利用可能なものは残り3%のうち3割程度である。その利用可能な淡水の7割は、農業用水である。水が極めて貴重な資源であることが分かろうというものだ。
ところが日本列島は、暖流と寒流の合わさる海域にあるため、世界屈指の多雨地帯である。おまけに国土の7割は山岳地帯であり森林という水の保水能力が高い自然環境にある。
古来から都市文明を営んできた地域の合共通する悩みは、森林が枯渇していることだ。森の木々を建築建材として、また燃料として乱伐してきたため、荒れ地と化して沙漠化している。シナの中原やオリエントの地を視れば一目瞭然である。そして森を失った文明は衰退している。
その点、日本は森に恵まれて豊富な水資源を享受できた。そんな日本ではあるが、食料だけは極めて自給率が低い。たしかに日本列島は山岳地帯が多く、農耕に適した平地は少ない。しかし、日本の食糧自給率が低い原因は、耕地面積の少なさではない。
家庭での食卓に並ぶ料理の食材を調べてみれば、圧倒的に輸入食材が多いことに気が付かざるを得ない。日本で作るよりも、外国から輸入したほうが安いのが、日本の食糧自給率の低さの大きな原因である。
世界屈指の工業大国である日本は、外国から原材料を輸入して加工、製造して輸出して外貨を稼いできた。その結果が膨大な金融資産であり、日本円という強い通貨である。
大変皮肉なことに、経済大国として確固たる地位を築いたが故に、日本円という強い通貨が、食料輸入を容易にした。農業大国であるアメリカの外圧により、農作物を無理やり輸入してきた側面はある。
しかしながら、食料輸入が増えたもう一つの一因は、日本の商社が人件費の安い国で、日本人好みの農作物を作らせて輸入したからでもある。そして、その輸入農作物を、多くの日本人は喜んで買い込んだ。
その結果、必然的に国内の農家は衰退した。衰退したが故に、生き残るために過剰なまでに政治力を行使して、補助金漬け、保護行政により生き残ってきたのが日本の農家である。
厭らしいことに、既存の農家の保護を重視したため、新規参入が阻害されて、むしろ非効率な体質が温存されている。もしも、一般企業ならば、即座に倒産させたほうが良いと断言できるほどである。
しかしながら、人々の生活に必要不可欠な食料品を作る農家は、社会に必要不可欠な存在である。にもかかわらず、海外から食料を輸入し、安い農産物を供給することで、国内農家を阻害してきた。
この作品が書かれたのは、十数年前である。それでいて、事情は農業にとって良い方向に向いているとは言いかねる。多くの人が問題意識を持ちながら、未だにこの食料自給率の低さを改善できないのが日本である。
嫌な予想だが、そう遠くない将来に、日本人は空腹を抱えて苦労するのではないか。いつまでも、あると思うな原油と食いもん、である。