ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

歴史が面白くなる東大のディープな日本史(古代・中世編) 相澤 理

2023-04-13 09:32:34 | 
私が大学受験を目指すことを決めたのは、中学2年の冬だ。

母子家庭であった私は、長男の私が中卒で働けば、なんとか妹たちを高校へ通わせることは出来ると考えていた。だから大学受験どころか高校受験さえ考えていなかった。

しかし中二の冬に再会した父の支援により大学まで行けると分かった。私は関心がある分野ならば勉強は苦ではない性分だったので、なんだ行けるのかと軽く考えて、さっそく塾通いを始めた。

ただこの安易な決断が遊び仲間であった悪ガキどもから裏切り行為だとされるとは思わなかった。今だから言えるが、裏切り者として迫害されたことで、私は悪ガキの世界から抜け出すことが出来たと思う。

いや、より正確には戻るに戻れなくなったが正解だろう。悪ガキどもとの付き合いだけでなく、三茶の賭場を仕切る博徒の方々とも離れることが出来たのは、後々になって非常に重要なことであったと思う。

もっとも当時は必死すぎて、連日のイジメと迫害に対処するだけだった。以前にも書いたが、もがき足掻く私を見かねたクラスメイトたちが裏で動いて、私を自由にさせてくれたことには全く気が付かなかった。

私は自力で足抜けしたと誇らしく思っていたが、それが無様な自惚れであることを知ったのは、大学4年の時であった。気が付かなかった私も大概だが、誰も教えてくれなかった。でも大人しい真面目っ子たちが裏で動いてくれたから、今の私があることは忘れずにいようと痛切に思っている。

あの頃は、自分のことで必死過ぎて周囲が見えていなかった。同時に誠に馬鹿らしいことだが、大学に行くと決めたものの、なにかやりたかったことがある訳ではなかった。だから当時は大学に関するイメージが曖昧であった。

ただ当時から役人になる気はなかった。というか嫌だった。特に警察は真っ平だったのは、悪ガキ出身だからだが、なぜに公務員を嫌ったのかは、自分でもよく分からない。

一つには小学校の頃の一部の教師に悪い印象があったことが影響しているのは確かだ。でも良い先生との出会いもあったのも事実なので、役人嫌いの直接の原因ではない。

いずれにせよ公務員になる気がなかったが故に、国公立大学受験は考えていなかった。私は好きなことは言われなくても勝手に勉強する子供だったが、そうでないとやる気を出さない我儘な子供であった。当時、既に共通一次試験は始まっていたので、多数の教科を均等に勉強するのは嫌だと思っていた。

だから国公立大学は避けたいと思っていた。むしろ私立で歴史や経済を学びたいと思っていた。これは私が子供の頃に通っていたキリスト教系の団体の少年部担当の学生さんたちの影響でもある。

私は彼らからマルクス主義や革命理論を聴かされていて、それに強い影響を受けていた。大学に入ったら民青に入って革命の戦士として活躍する自分を夢見る世間知らずの子供だった。

もっとも悪ガキ出身の私は、資本論を片手に勇ましいアジを叫ぶ青年よりも、ゲバ棒の使い方や手拭いで作るマスクの巻き方を教えてくれる武闘派の青年に懐いていた。でも今だから言えるが、当時一番関心を持っていたのは、学校では教えてくれない洋楽をピアノで演奏してくれるシスターのお姉さんたちに甘えることだったと思う。

私は三人兄妹の一番上だったから、兄や姉が居ない分、甘えたかったのではないかと思う。やはり当時からナマケグマの資質があったのだろう。

だから必然的に大学は社会に出る前の猶予期間だと捉えていた。山に沢山登ろうと考え、勉学に励む気はなかった。そんなナマケグマであるから、大学の頂点である東大受験などまったく視野になかった。そこでどのような教育がなされているか、まったく関心がなかった。

今、表題の書を読んで、自身の安直さに少々うんざりしている。東大の日本史、面白いじゃないか。これなら勉強してみたかったゾ。そう本気で思っている。資料の読解に力を入れ過ぎの感はあるが、十分納得の理論構成でもある。

いやはや、こんな歴史の勉強ならやってみたかったですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

煙幕か?

2023-04-12 14:05:32 | 社会・政治・一般
いつのまにやら予算が国会を通過していた。

ガーシー元議員と、高市vs小西論争に惑わされているうちに、碌に審議もせずに予算が通過してしまっている。なんだ、あのこども庁って。どうせ各省庁から役人をより集めて予算とポストの奪い合いをするだけだろうに。

いや、なによりも文部省と厚生労働省が絶対に口出ししてくる。岸田首相肝煎りの目玉政策なのだと思うが、果たして無事うまく機能するのか、私は疑わしく思っている。下手すれば官僚たちの意地の張り合いで、機能不全に陥る可能性がある。

もっとも一番可能性が高いのは、子供対策の政策は打ち出したものの、現場との調整不足で役立たずに終わり、しかも誰もその結果責任をとらずに済ませることだと思う。

また事前にはけっこう問題になった防衛予算の大幅増なんて、まさに異次元の政策だが、高市・小西問題のおかげで碌に議論もされずに予算通過している。いいのか、あれは。

私の仕事にも影響ある税務行政についても、今国会で取り上げて欲しい問題は幾つかあったのだけど、それもなかったことにされて予算は通貨している。

気が付いたら予算は通過し、統一地方選挙に話題をさらわれてしまっている。大事なことは、碌に議論されずに終わってしまった。

ガーシーと高市・小西をネタに騒いだマスコミは、私からすると議会政治の邪魔でしかない。本来、民主主義においては、マスコミが政治を適正に監視して有権者に伝える必要がある。

しかし、それを放棄してバカ騒ぎだけを報じるマスコミって必要なのか。まァ、そのアホな記事を喜んでいる有権者にも問題はあるのですけどね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムツゴロウ氏の死去

2023-04-11 09:22:21 | 日記
ムツゴロウの愛称で知られている畑正憲氏がお亡くなりになった。

TVで冠番組を持っていたこともあるし、小説家として、またエッセイストとしても著名である。私も何冊も動物関係の本を楽しませて頂いた。

どんな人でも裏表はある。私の偏見混じりであり、必ずしも誹謗を意図したものではないが、正直言ってこの方、かなり裏表のある人だと思っている。

大学生の頃、一度だけ間近で見かけたことがある。あのトレードマークとも云って良い優しげな笑顔なんざまったくなく、最初は裏社会の強面の人かと警戒したくらいだ。

場所は新宿の歌舞伎町の北側、今よりも遥かに危ない街であった。私はといえば深夜喫茶でのバイトを終えた早朝のことだ。バイト仲間と連れだって早朝でも営業している飯屋で朝飯を喰らって、さあ帰ろうかと新大久保駅へ向かう途上であった。

まだ薄暗い早朝の裏路地を足早に歩いていると、ふらっと横路から出てきたオジサンにぶつかりそうになった。素早く避けたのだが、相手は挨拶もなく、その怖そうな雰囲気からヤバイ人だと判断した。

昔から夜遊び好きなガキだったので、近寄るべきでない人の判別には自信がある。足早に駅に向かうと、連れのバイト仲間が「あれ、ムツゴロウさんじゃねぇ?」とつぶやいた。

え!と思ったが、そういわれると確かに似ている。おそらくだが雀荘帰りではないかと思う。ご存じの方も多いと思うが、畑氏は麻雀では鬼のように強い雀士として有名だった。阿佐田哲也氏の本にその強さを書いた文があった気がする。

あの辺りは雀荘もいくつかあるので、おそらく徹夜で打った帰りではないかと思う。確かめた訳ではないが、おそらく当人だと思う。でも堅気の人にはとても思えない怖さを持った人だった。

私の経験上、喧嘩の強い人や怖い人は笑顔が素敵な人が多い。以来、私のなかではムツゴロウさんは怖い人として記憶されている。まァ余程度胸がないと野性動物と直接触れ合うなんて出来ないと思うので、ある意味納得している。

子供の頃、畑氏の動物ものの本を何冊も読んで楽しませてもらっているが、これだけは言いたい。野性動物と触れ合うのは止めろと。北海道で畑氏がやっていた動物王国のせいで、人馴れしたヒグマなどが人家を餌目当てに襲ったりした事件は、なぜかほとんど報道されていない。

野性動物と人間には、適度な距離が必要なのだが、畑氏は自らの嗜好から野性動物に近づき過ぎる。ライオンに指を食いちぎられたり、蛇に絞殺されそうになるのは本人の自由であり、自己責任だと思う。

でも野性動物の怖さを知らぬ一般人が絶対に真似してはいけない行為だ。多分、注意した人はいると思うけど、畑氏聞かなかったのだろうと思う。良くも悪くも、自身の信念に忠実な方でしたから。

そして、あのような奔放な生き方を貫ける強い人でもあったと思います。正直問題の多かった人だと思いますけど、あの強さは少し憧れますね。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦闘機

2023-04-10 10:33:48 | 社会・政治・一般
戦闘機を自国で製造できる国は極めて少ない。

衛星軌道上に偵察衛星を持ち、高速処理された情報をネットワークを通じて最適な軍事力の構築を展開できるアメリカのような国は別として、ほとんどの国では、その国防において戦闘機の役割は大きい。

元々は航空機を偵察に使ったことから始まる。敵はどこにいるのか、戦力はどのくらいなのかといった情報は戦局を左右する。それを上空から見て判断する偵察用航空機は極めて重要な道具であった。

だからこそ、偵察用航空機を排除するための攻撃用航空機が求められた。これが戦闘機の始まりであり、偵察を兼ねていることも多々あった。上空から情報を収集できる航空機の存在はかくも有用であったからこそ、その対策として戦闘機が必要だった。

現在は対空ミサイルなどの対応策もあるが、ステルス機の存在が改めて戦闘機の有用性を高めた。イラクとの戦闘において、ステルス機が密かに侵入して、レーダー基地や対空ミサイルを破壊し、その後で通常の戦闘機、爆撃機がイラクを蹂躙した。

この新しい戦い方は、今も戦闘機が第一級の攻撃手段であることを世界中に知らしめた。しかし、戦闘機を製造できるメーカーは限られる。しかも国家による制約があり、簡単には輸入できない。

だからこそ、ある程度工業力がある国は、地力で戦闘機を作ろうとする。しかし最先端の技術を総動員して作られる戦闘機は、多くの場合国家機密であるため、ライセンス生産でさえ難しい。それでも戦闘機を作るノウハウを独占しる西欧諸国に自国の平和を左右されるのを嫌い、地力での製造に血眼になる。

まだ成功しているとは断言できないが、今後自力で戦闘機を作れそうな国は数か国。イラン、トルコ、ブラジルである。中でもブラジルは中型民間航空機では既に成功しており、今後独自の戦闘機を作り出す可能性が高い。

イランはかつてアメリカの同盟国であった関係で、F14という可変翼を持った戦闘機を使っている。映画「トップガン」で使われた機体だが、本国アメリカでは既に引退している。ところがイランでは主力戦闘機として今も使い続けている。既に部品の供給もなく、電子機器のアップデイトもされていない。本来ならもう飛べなくなっているはずだ。

同時期にF15を導入した南コリアなどは、部品交換も満足に出来ず、碌なアップデイトもなく、共食い整備で辛うじて飛ばしている。でもイランは違う。独自に部品を製造し、レーダーなどの電子機器でさえも独自に改良して今も即戦力として維持できている。その潜在的な工業力の高さは十分脅威である。

そしてトルコ。当初南コリア主導の戦闘機開発計画に加わっていたが、見切りをつけて独自に戦闘機開発を進めている。この国の工業力も高いが、アメリカと揉めてしまった為、いささか遅れているが、ウクライナに提供したドローンの実用性などを見ると、近い将来独自の戦闘機を完成させる可能性は高いと思う。

ちなみにトルコに見切りをつけられた南コリアだが、昨年ようやくKF21ポラメとして戦闘機の試作に成功している。最もエンジンはアメリカ製で、レーダーはイスラエル、武器は欧州製なので、製造というよりも組み立てに近い。果たして実用の域に達するか私はいささか疑問に思っている。

この国の兵器は、形だけ作ってそこで自己満足してしまう傾向が強い。兵器なんて実戦で使ってこそ価値がある。使ってみなければ、良さも悪さも分からない。いや、使っていく過程で如何に改良を施していくかが、その兵器の真価でもある。でも、南コリアって、それが大の苦手なんだよね。

ちなみに私は日本が独自の戦闘機に固執することには反対です。新型エンジンを英国に提供して、まともな戦闘機を作ってもらえば、それで充分だと思います。日本独自の兵器体系を構築することは、将来的にはアメリカから潜在的敵国にリストアップされる恐れがある。まだまだアメリカの覇権は続くでしょうから、日本独自にこだわる危険性くらい認識しておいた方が良いですよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犬伏の別れ

2023-04-07 09:37:27 | 社会・政治・一般
敵だからこそ友誼を保つべき。

これが出来る政治家は少ない。だが、追い詰められた時にこそ真価を発するのが敵との友誼だと思う。

戦国時代末期、信州の山奥に居た真田一族は周囲を常に敵に囲まれていた。平地が少ない上田の地は農業生産力こそ乏しいが、交通の要所であり上杉、武田、松平(徳川)、北条と戦国大名に常に領土を狙われてきた。

そんななか真田昌幸は武田信玄の下で活躍して側近になるも信玄は死去。ここから昌幸の苦難は始まる。甲州及び上田の地を欲する松平(徳川)とは、幾度も戦ったせいか松平元康(家康)とはうまくいかず、結局秀吉の仲介により辛うじて立場を維持する。

先に結果を書いてしまうと、家康としっかり関係を結べなかったことが真田昌幸の失態であり、関ヶ原の敗戦後は高野山に幽閉されて生涯を終えている。

実は本来は死罪となるはずであった。それを救ったのは長男の信幸であった。二男の信繁(真田幸村)のほうが知名度は高いが、二人とも戦場の前線に立って戦う猛者である。だが政治的センスはこの長男が勝った。

秀吉の仲介で与力大名として家康の配下になるのを受任したものの内心は嫌で、碌な対応をしなかった父・昌幸とは異なり、信幸は家康及びその配下の武将たちとも交流を重ね信頼を培った。少し前まで戦場で殺し合った敵同士にもかかわらずである。

なかでも徳川四天王の一人、本多忠勝とは懇意となり、その娘(稲)を妻にと請われる。意に染まぬ昌幸と違い、家康に敬意を払う信幸に好感を持っていた家康は、稲を養女としたうえで、信幸との婚姻を奨める。

実は信幸は伯父の娘(清音院)を既に正室に迎えていたが、敢えてこの正室を側室に落して家康の勧める稲姫を新たに正室に迎える。昌幸は当然に反対したと思われるが、真田家の生き残りを重視して容認したらしい。

なお側室に落されてしまった清音院ではあるが、稲姫の意向もあってそのまま信幸と暮らし続けていたと思われる。この稲姫は女ながら薙刀をよく使い、日ごろから甲冑を着こむ女傑として知られている。

この稲姫が出来た人であったと思われる。大阪城陥落後は稲姫は江戸の真田屋敷に住まい、清音院殿は信州の居城を管理していたと伝わっている。

時代は遡るが、秀吉の死後、石田三成が挙兵した時、真田昌幸が長男・信幸と二男・信繁と話し合い、今後の真田家の行く末を話し合った際、昌幸と信繁が西方(石田光成側)につき、信幸が東方(徳川家康側)に付き、真田家は分裂した。これを犬伏の別れという。

どちらが勝とうと、必ず一方の真田家は生き残れるはずとの思いを込めた別れであった。ところが昌幸、西へ向かうふりをして、孫に会いたいと言って、信幸の居城である沼田城に入ろうといた。

三成への手土産として信幸の居城である沼田城を奪っていこうとするあたり、さすがに真田昌幸は戦国武将である。ちなみに信幸は家康の許へ直行するので不在であった。

ところが留守を守る稲姫は、夫が不在であることを理由に義父の昌幸の入城を拒み、武装して城門に立ちはだかった。これには閉口した昌幸は、さすがに息子の嫁を討つことも出来ず、諦めて近くのお寺に宿泊している。

その晩、平服に着替えた稲姫は子供たちを連れて、そのお寺に出向いて、昌幸と孫たちの最後の対面をさせている。感動した昌幸は「さすが忠勝殿の娘、武将の妻とはかくありたいもの」と激賞している。

関ヶ原の敗戦後、死罪となるはずであった昌幸の助命は信幸(信之に改名している)だけでなく、この稲姫も家康に強く訴えていおり、それ故に助命されたと思われる。余談だが昌幸の正室である山手殿は、石田三成の妻の姉だとの説(異説あり)がある。それゆえに関ヶ原の戦いの後、助命はされたが九度山に幽閉された。

しかし稲姫は執拗に解放を願い出て、家康は遂に山手殿の解放には応じている。山手殿は信之に引き取られて生涯を全うしている。

真田家といえば、江戸時代のヒーローであった幸村とその父である昌幸が有名だが、私は信之のほうを高く買っている。この信之も戦場の勇将として活躍しているが、実はその政治力も相当なもの。

真田家の宿敵であったはずの徳川家との友誼を結ぶことに成功し、幕末まで大名として生き残っている。多くの外様大名が改易されて滅んだなか、小大名でありながら、しっかりと徳川家から信頼されたのは、信幸の政治力あってこそだと思われる。

明治になってから発見された江戸時代の資料のなかに、石田三成と真田信幸との間でなされた手紙がある。それも信幸が徳川方についてからの手紙もあり、それは真田家秘伝の棺の奥に隠されていたという。幕府から疑われかねない手紙のやり取りなど、相当に強かな人だと思いますね。今少し高く評価されるべきだと私は考えています。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする