久しぶりに千代田湖を通ってきたら、もうあの辺りはヤマナシやクリンソウの花が咲き始めていて驚く。そうなるとここ入笠もじきに、緑の放牧地には花の白い縞の帯が幾重にも現れ、アラスカの森には桃色の川が流れ出すだろう。
第3牧区の最も早咲きのヤマナシはすでに白い花が開花目前で、よく見ると膨らんだ花の元には薄いピンクの色が染まるように着色している。まさしく、「匂う」というにふさわしい色合いで。
昨日の続きになるが、まず感じたことは、野生の鹿と動物園のライオンとの扱われ方のエライ差である。よりによって捕獲された鹿が、人の手を介して、同じ野生動物の餌になるというわけだ。片っ方は駆除される動物で、もう一方は飼育される動物で、この扱い方の違いは全く人間の勝手である。あまりに鹿がむごくはないか。
ここでも、有害動物駆除のため、毎年100頭ほどの鹿が殺される。その必然性も納得している。しかし、鹿とライオンどちらの側に立つかと問われたら、迷わず鹿の側に立つ。決して、ライオンのためなぞに、捕獲した鹿を提供などしない。「命を無駄したくない」だと、陳臭(ひねくさ)いことをっ! 無駄で結構。
死ねば単なる物体に過ぎなくなるから、肉体はどうでもいいと考える人がいる。精神の存続を肉体と切り離して考える人の間に多い。その一方で、いまだに戦没者の遺骨収集が、国の重要な事業として続けられている。遺骨を単なる人骨と考えない人も大勢いるからだ。
葬送の方法にもいろいろある。世界には火葬を受け入れることのできない人がたくさんいる。その一方で、カニバリズム(人肉嗜食)の慣習もあった。
情緒的、心情的なことを理屈で言うのは確かに難しい。なぜ人間が鹿を食べるなら、ライオンほどに違和感がないのかということさえ、明快に説明するのは難しい、というように。
そうではあるが、心ならずも殺した鹿たちは、できるだけその屍を、また嘗て暮らした森の中に埋めてやりたい。たとえ3,4日のうちに他の動物に片付けてしまわれても、だ。