100人近い人々が来て、三日間にわたる撮影があったことなど信じられないような、いつもながらの静かな「貴婦人の丘」が、雨に濡れながら待っていた。たった二日が過ぎただけだだというのに、”30秒に賭けた人々”のことは遠い時間へと行ってしまったようだ。みんな本当に熱く、懸命だった。しかしもう、それを思い出させるものは何もない。そのことをしみじみと感じながら、丘を歩いた。
昨日は上に来なかった。いつもなら高遠城址手前で左折するのを右折して、旧秋葉海道を大鹿村から遠山郷へと、雨にけぶる狭隘な谷の紅葉を眺めながら車を走らせた。迫りくる山間(やまあい)の霧を孕んだ紅葉、深い谷の底まで丹念に染め上げた紅葉、人の手が入っていない壮大な照葉樹林の紅葉・・・、雨催いの日が射さない空色のせいで、色付いた木々の葉に深みが増し、見ようによってはそのほうがより印象が強まり、幽玄でもあった。時には重畳たる山々の続く峠に登り、時には深い谷に下り、そのたびに奔放な谷の流れはその向きを変えて見る者を驚かせた。単純に、静岡に向かって道も、谷の流れも下っていくわけではなかったのだ。
この南アルプスとその前衛の山に挟まれた谷の、国道とはいえ、対向車でも来たらどうやってすれ違ったらよいか分からないような道を行くと、沿道に時折点在する小さな集落と出会う。こういう場所に出くわすとまたいつもの癖で、どういう経緯があってこんな山奥の生活を先人は選んだのかと興味が尽きず、そんな人々の暮らしの幸とか、不幸とかを勝手にあれこれと空想してしまう。そして、車のない時代は、マグロの刺身など一生知らずに終わっただろうと、決めつけるのだ。
ひと昔前までの秋葉街道は、遠州(静岡県)に抜ける重要路であり、歴史の道でもあった。だが難路が続き、そこを通って秋葉神社へと秋葉講の人々が苦労の旅を続けたという話は、いまでもその大変さを偲ばせる。遠くは後醍醐天皇の皇子にして、「梨花集」の編纂によりその名を残した宗良親王も通ったし、近くは山頭火も、ほかいびと井月(せいげつ)の墓に詣でるため地下足袋で足をかため、鉄鉢を手にしてやってきたはずだ。
最後は神楽の湯につかり、そこでおしまいとし、帰路は飯田に出て帰った。
本日よりタイトルをとりあえず「初冬」としました。愛知のNさん、FKさん、コメント拝読しました。勝手なことを書いてますが、ありがとうございます。かんとさん、週末の天体観測、承知しました。
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