
きょうもこれと言った予定はない。冬の冷たく澄んだ青空を眺めながら特にすることも、したいこともなく、この独り言も何を呟いたらよいか思い付かないまま、さっきからただ呆けている。
それでいて退屈しているかというと、そうでもない。むしろ、何もすることが無いことに安堵して、ガラス窓から射し込む午前中の新鮮な光を見つめつつ、すっかり日向ぼこでもしている気分になっている。多分、これも老化という現象のひとつだろうが、それほど悪くはない。
普段だと、朝風呂に入るか、朝飯の支度を始めたりするはずが、そんな気もしない。風呂は沸いているし、食べようと思えば昨夜作ったとろろ汁があるし、魚もあれば、野菜もある。面倒なら、そういう時に備えて暖めるだけのタイ風カレーだってある。
今、手元の月刊誌でチラッと目にした「75歳からの健康長寿・献立例」の一例では白米、マグロの刺身、卵とほうれん草のソテー、納豆、味噌汁とあり、これらはどれもあるからすぐ作れる。
刺身はあまり食べないが、昨夜珍しくマグロの山掛けで一杯呑みたくなり、偶々買い求めたばかりだった。それが気が変わって出汁をひき、手のかかるとろろ汁にした。だから、冷蔵庫の中で刺身は早く食べろと待っているはずだ。
それにしても社会がますます高齢化してきて、出版界には健康に関する似たような企画がよく目に付く。少々あざとい感じがしないでもなく、読む気はしない。
マグロの山掛けでは決まって思い出す人がいる。学生の身で学校にも行かず、ある高級割烹の店で黒い服を着て働いていたことがあった。
店を開けると待っていたようにやってきて、必ずマグロの山掛けを注文する50歳ぐらいの馴染客がいた。そして深夜を過ぎると、それまで行っていた近くのキャバレーから、同世代と思われる決まった女性を連れてきては夜毎に気勢を上げるのだった。
その人はガソリンスタンドの経営者だったのか従業員だったのか、多分後者だったと思う、ゴムボートをくれると言うので暑い夏の日、千葉県に近いその人の職場を訪ねたことがあった。ボートはかなり大きくて、それを汚い荒川に浮かべて友達と、一時の涼を求めたこともある。
ところがある日、店にその人の様子を尋ねる見知らぬ人が何人か来て、以後それっきり、その人は店に来なくなってしまった。金の出どころ、使い方に問題があったのだろう。
今から思い出しても、そう言っては何だが、連れの女性は身に着けていた地味な着物と同様、あの世界では年齢もいっていて、とても入れあげるほどの相手には見えなかった。にも拘らず店のナンバーワンにするんだと、まるで狂ったようにその女性に執心した。そして、消えていった。
本日はこの辺で。