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何歳からを老境というのか知らないが、還暦、いや50代でも、およそ世の中のことを知り尽くしたようなしたり顔をしたり、70歳ともなればすっかり達観したようなことをウソブキ、それを糊口としている人もいる。
その中には大分格好をつけたり、無理をしているな、と感ずる例も多々ある。いつ死んでもいいようなことを言う人などその典型であろう。
確かに老境を迎え、自ら生命を絶った人をすぐ2,3人は思い浮かべることはできるが、多くの人たちは実際にその時がくればどうだろうか。大往生といけば良いが、そうとばかりはいかない人の話も結構耳にする。昏睡したまま逝くことも多い。
人間ばかりか生き物には種族保存の本能と、個体保存の本能があり、どうやら後者の方が勝っているらしいから、そうであれば、今生に未練を残してもそれは極々自然なことだと思う。
種属保存の本能についても、そんなものはとっくに消えて、今は清々しているように語る老人は多いが、これも随分格好つけ、無理をして言っているように思う。この年齢になっても、女性の身体の姿形を美しいと思うことはいくらでもあるし、若いころのように、それが即種族保存の本能に直結するわけではないにしても、いわゆる劣情とやらの残滓であるぐらいは認めてもいい。
秀吉や慶喜ばかりではなく、かなりの年齢まで種族保存の本能を忘れなかった健康人は多く、印象に残る例を繰り返せば、ある映画監督は愛妻を亡くした時80歳を過ぎていたはずだが「最後まで夫婦生活がありました」と神妙、悲痛な表情を浮かべて、記者会見で語っていた。
歳を取れば分別がつくようなことを言い、そのようにも見做されるが、「三つ子の魂百までも」の通り、そうそう人間は変わらない、変われない。自分のことを言えば、多少の経験や、数々の反省はあっても、それで成長したなどとはおよそ思わないし、考えたり、感じたりすることが20代、30代と大きく違うかと言えば、それも否である。
「賢者は歴史に学ぶ」そうだが、賢者らしきはたくさんいても、その歴史から学び、世の中をいい方向へ引っ張ってきたとも、これから進めていくとも思わない。むしろ、残念ながら「歴史は繰り返す」の方が真実ではないだろうか。
加齢を気に病み、老人性鬱病に罹る人がいるやに聞く。経済的に不安のない人に多いらしく、自分の老いが唯一の気懸りとなって、そんなことばかり思う日々を重ねるせいだろうか。
誰が言っていたか思い出せないが、80歳まで生きることができたらこうしよう、85歳まで生きられたらあれをしよう、というような目標を立ててみたらどうかと、何かで読んだ。
ムー、何ができるかこれからゆっくり考えてみたい。
本日はこの辺で。