昨日になるが、久しぶりに散歩に出た。写真のように開田の雪は殆ど融けてしまっていて、気になっていた山道の雪もそれほど苦にならず、いい散歩ができた。
いつもの峠の手前で、長いノコギリを使ってヒノキの枝打ちをしている年配の人がいて、つい声をかけた。似たような作業をコナシを相手に牧場でもさんざんやってきて、その大変さを知っていたからだ。ただ、あの木の太さでは、ああやって熱心に手を入れてみても、本人が苦労の成果を知ることはないだろう。が、そんなことは余計なことだ。
散歩に出たのが3時少し回っていて、戻ってきたのが5時近かった。それから30分ばかり「座り」、気分を落ち着けた。
これまでは部屋を薄暗くしてから、時間の経過を知るために線香に火を点け、1本が燃え尽きたら新しいのに替え、計3本、約1時間半ほど座っていた。しかしこれはかなりの忍耐を要し、どうも初心者が毎日続けるには長すぎる。そう考えて、今は1本の線香が燃え尽きるまでに時間を短くした。
鼻で息を吸い1,吐いて2,これを10まで数えたらまた1から始める。このやり方と線香を燃やすことは座禅を紹介している冊子を貸してくれた人がいて、参考にした。これはあくまで参考で、「座る」ことに興味を覚えたのは、ユダヤ人に案内されて長い本の旅をしていた時だった。
昨日は、時間の経過にあまり拘らないよう線香の火がかろうじて視界に入るくらいに横に置き、数を数えるのも時には中断してみた。そして妄念、雑念が湧いてくると、また呼吸に集中するために1、2、と数えるようにしてみた。
これで、1合の酒が与えてくれるのとほぼ同量の"心のビタミン"が摂取できたと思っている。いや、ビタミンだから、この効いたか効かないか分からないところがいい。
それと、座るのは散歩の後にするのがいいようだ。歩いている時でも妄念、雑念は襲ってくるし、それらをバッサ、バッサと切り捨てて帰ってくると、心身ともに程よい疲労感の中にあって、それからであればより集中して座ることができる。
まあ、無聊を持て余しているようなら、ただ時の過ぎるのに任せず、時にはそれに抗う意味でやってみたらどうだろう。これは、そういう意味では同じ無為でも主体的な無為である。
やはり、大型動物に占める人間と家畜の割合は高く、98パーセントになるようだ。明日はこの辺りのことを呟くつもりでいる。
本日はこの辺で。