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天気がよかったのでHALを連れて久しぶりに、樋口次郎兼光の墓へ行ってきた。いきなりこんな人の名を出しても、ほとんど誰も知らないと思う。では、巴御前の兄だと言えば、どうだろうか。木曽義仲の愛妾とか召使と言われた妹だが、兄の兼光よりも余程その名は知られている。
最新の週刊新潮「戦国武将のROE]という人気の連載コラムに、この樋口次郎兼光のことが書いてあった。副題は「『木曽義仲』は大河ドラマにうってつけ」とあるが、義仲よりも兼光にかなりのスペースをさいていた。同コラムの著者である東京大学の本郷和人教授の推薦で、大河ドラマ実現の運びとなるかはさておき、それでまた行ってみる気になったのだ。
伯父である源義朝に父である義賢(よしかた)が討たれた後、義仲は信濃権守・中原兼遠を頼り、その庇護のもと木曽の地で兼光、兼平、そして巴などとともに成長した。巴が水浴を楽しんだと言われる「巴が淵」が、今も木曽川に残る。
偶々通りがかりに知ったのだが、兼光の墓はここから20キロとない辰野町の、そう「樋口」という集落にある。兼光はこの地を拠点にしていたというが、木曽からはかなりの距離がある。これまで、山また山の木曽の谷から京に攻め入るだけの軍勢を、義仲はどうやって確保できたのか不思議でならなかったが、どうやらその勢力範囲は、辺境の地木曽だけに留まっていたわけではなかったようだ。
義仲は従兄弟の義経に討たれるが、その義経は兄の頼朝に討たれる。彼らの親である義朝が弟の義賢を討ったと同じことを、その子らも繰り返したのだ。
また、この兼光の子孫こそが、出羽米沢藩30万石の直江兼続だということをこのコラムで教えられた。
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死後に兼光の遺髪が持ち帰られ埋葬されたという。逆光のためによく分からないが、写真の墓石は昭和58年に新しく建てられた。
この樋口という集落からはもう一人、大変な人物が出ている。時代はずっと下り先の太平洋戦争末期、日本軍は最後の反撃を試みるため「天号作戦」の名のもと、昭和20年4月6日戦艦大和を沖縄に向けて特攻出撃させた。その大和の艦長こそ、この樋口出身の有賀幸作大佐である。