入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

      ’24年「秋」(61)

2024年10月19日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


  朝の早いうちから鹿の鳴く鋭い声がよく聞こえてくる。遠くだったり、近くだったりする。
 放埓な、とでも言いたくなるような繁殖の時季を迎えているのだろう、何十頭もの群れの中に、一目で分かる大きな角を生やした雄鹿の姿を幾頭も目にすることもあれば、大きな図体が小さな雌鹿を引き連れてコソコソしている場合もある。
 
 牛が降りて以後、大型の囲い罠で鹿の誘因を続けているが、中にまで入っている形跡はない。すっかり警戒されているようだ。それでも、里の猟師らの取入れの繁忙期も過ぎただろうから、そろそろ仕掛けてみるつもりでいる。
 もっとも仮に何頭か捕獲できたとしても、それで頭数削減にいかほどの効果があるかと言えば、殆どない。現状はそこまで行ってしまっている。

 きょうは週末の土曜日だというのに、小屋に3名の予約があるだけで、キャンプ場の方の予約は全く入っていない。黄色が主力だった森や林に少しづつ赤の色が混ざるようになり、個人的には最良の時季が来たと思っている。
 高い山はこれから酷しい季節を迎えるが、まだここら当たりは静かな秋の中で存分に自然を満喫できるはずだと思うし、そういう場所を教えることもできるのに残念な気がする。
 今帰っていたいった人は不意に東京から訪れた。まだ電気すら通っていなかった時代のことを語ってくれながら、久しぶりの変わらぬ周囲の風景を懐かしみ、喜んでいた。
 
 選挙戦が始まった。「丁寧な説明」などという言葉をよく耳にするが、丁寧ではなく、明解、明瞭と言ってほしい。「丁寧な弁解」は不要。
「選択的夫婦別姓」の議論、明治以降の家族制度を批判するばかりでなく、そこから生まれ育まれた、語るべき良い面も多々あると思う。
 口先をとがらせ、小利口に物申すのもいいが、しかし、一組の男女が一つ屋根の下に暮らし、同じ姓を名乗ることをもって結婚と考え、よしとする人がまだ多いのではないか。
 歴史、文化、伝統を守ろうと説く同じ口で、すぐに男女間格差の問題と絡めたがる人がいるが、しかし、もうそれはあの人たちの一種の職業になってしまっている。だから、そういう一部の限られた人の言う不便、不利、不当を理由にこの制度を片付けてしまってもよいのかと案ずる。
 この議論よりか、安楽死や尊厳死の問題の方がより重要であり、先の気がする。

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 本日はこの辺で。明日は沈黙します。





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      ’24年「秋」(60)

2024年10月18日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 前日は5時間しか眠っていない。それにもかかわらず、また4時間眠っただけで目が覚めてしまった。午前2時。
 外がほの明るい。釣られるように小屋から出てみれば、中天より少し西の空におぼろ月が見える。そう言えば、誰かが「スーパームーン」という言葉を口にしていた。

 長い一日が終わり、別れ際ある人から「お元気で」と言われた。別な人からは年齢を問われ、元気だと褒められた。周囲からは自分と異なる別な評価が下されているのが分かる。とにかく、誰から見ても老人なのである。
 映画か何かで「年寄扱いをするな」と吠える老人を見たことがあるが、それも分かる気がする。本人は、老齢を殆ど意識していないのだ。これを呟いている者もそうで、困ると言えばそうだが、身体に格別な不自由を感じていないのは何を措いても幸いだと言える。

 昨日、名の知れた明るい性格の男優が亡くなった。確か76歳、同じ年齢である。そういう年齢であり、自分の身にも起こる可能性があることを承知しているべきだが、いまだ死は現実味をおびない。8月の終わり、親しかった友人の一周忌を済ませ、来月もある。それでもだ。
 もっと言えば、若いころの方が死は今よりも現実的だったような気がする。このあたりのことを言い出すとややこしくなるが、実際そうだった。
 歳を取ったら逆に、それに対する感度とでもいうものが大分鈍ってくるのは、物忘れがひどくなるように、脳のどこかにそういう仕掛けでもあるのだろうか。

 こんな真夜中、不思議な時間が過ぎていく。ビール1本、生のウイスキー少々を飲んだ。自分だけしか存在しない意識の中で、時の方も付き合ってくれているのか、その経過がいつもよりかゆっくりと過ぎていく。異次元にいるような気分だ。

 目が覚めれば、趣の一層深い曇天の秋が待っていてくれるだろう。
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      ’24年「秋」(59)

2024年10月17日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 予定では草刈りはとっくに終わっているはずが、昨日も北原新道へ行った。大分気になる点が目に付いて、それに手間取り、まだ満足するまでには至っていない。「せめてここだけは何とかしろ」と誰かの声がする個所が後からあとから出てきて、思わぬ展開に困惑している。
 
 谷の向こう、テイ沢の南側の六兵衛山の斜面では、作業道の整備が始まった。千数百メートルの高所のあの急な斜面に、伐採した材木を運ぶ運搬機が通れるようにするため、重機が動いているのが遠くに見える。長い腕の先に鍬の付いた機械を操作する作業者からしたら目のくらむような高さだろうに、大したものだ。
 
 昨秋、灌木の生い茂ったあの古い作業道跡を登ったことがある。なぜそんな気になったのか今では思い出せないが、樵を始め林業関係者の仕事の大変さを身をもって思い知った。
 背丈を超えるクマササ、不安定な足場、急峻な斜面、下降することも登ることも思うに任せず、そういう場所で樹齢数十年の落葉松を重量のあるチェーンソーで一日に何10本も伐っていく。そのため主力のチェーンソーの歯は、最低でも朝と昼の2回は研がなければ仕事にならず、また時には10年以上の熟達者でも事故に遭うという。分かる気がした。
 登山者にとっての山などは、彼らから見たらほんの一部の範囲を蠢いているに過ぎないだろう。

 一昨日、半対峠に至る防火帯を歩いていた時、右手の広大な山腹は人の手で植えられた落葉松の人工林で、左手はダケカンバやモミ、ミズナラなどの原生林だと説明すると、二人のうちの一人が「人工林は建売住宅で、原生林は注文住宅みたい」などと言ったので笑った。
 確かに原生林の景観、趣は見るだけならそうだ。しかし、眼下の視界の及ぶ限りの森林がその建売住宅であるのだから、これを作った人たちの苦労は想像を絶する。
 国土の7割が森林だと言うわが国土だが、林業は以前のようには振るわない。その上、過酷な仕事であるだけに森を育て、守る人材が減っていく。

 そんなことを考えたり、呟いていたら朝が来てしまった。この頃は4時間も眠ると目が覚めてしまう。午前3時に起きて、もうすぐ6時になる。
 嵐の前の静けさ、今日は6時から撮影隊がやってくる。長い一日になる。華やかな世界のように見えて、実際の撮影現場は「カット、カット」「撮り直し」が際限もなく続く、忍耐の要る肉体労働である。
 テキサスゲートを通過中の車の音がする。来たな。気温9度快晴。

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      ’24年「秋」(58)

2024年10月16日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 牧場から御所平峠、高座岩、そして半対峠までの道は防火帯上によく整備されていて、道を誤ることはない。連続して緩やかな起伏が続く快適な山道である。
 問題と言えば半対峠に下る道で、いつのころからか今は左手の急な斜面に落ちていく道が使われ、古い道は判然としない。敢えて古い道を下ったわれわれは、遠回りをしたようだ。
 峠から川床まで下る道は一部かなり細かったり、崩れそうな個所もあり、同行の二人はかなり緊張する場面もあった。下方から聞こえてくる小黒川の流れの音に励まされるようにして、それでも幾つかの難所を乗り超えた。

 川床に下ると、目印の巨岩が目前に見え、その向こうに狭隘な谷を造った小黒川の急な流れが見えるようになる。日本の中級山岳でよく目にする、清冽な渓相の典型と言えよう。
 この大岩のすぐそばで昼飯を食べたこともあったが、今回はそのまま古道と思しき踏み跡をたどることにし、渓の中の秋の眺めは時々足を止めるくらいにした。それでも、歴史には殆ど関心を見せなかった同行者二人だったが、谷や周囲の景観は充分に楽しめただろう。
 
 期待していた標識布はすでになかった。長い時間の流れの中で、旅人はその時々の歩きやすい道を選んだようで、同じ古道でも法華道のようにこの道がそれだと断定できるような所は少ない。
 千年も続いたその微かで、頼りない道らしきであっても、甲斐(山梨県)の国から馬を曳いて、都までの遠い旅程の一部だと思えば、その苦労もそれとなく伝わってくる。

 対岸の小黒川林道に出るには南沢の出会いの手前に2カ所ほど適当な登り口がある。場合によっては渡渉もあり得るし、倒木をまたいで流れを渡る場面もあるかも知れない。それでも、今回われわれが犯したような間違い、つまり先の見通せない崖に挑むよりか、河原を歩く方が賢明で、濡れることもあらかじめ想定しておいた方がいいだろう。

 以上、いつもと変わらず思い出すままに呟いた。道案内としてはあまり役には立たないことを承知している。また、久しぶりの幻の古道を訪う遊歩行で、同行者を不安に陥らせたこともあった。
 しかし、そのことを省けば、個人的には大いに満足できた。この秋には無理かもしれないが、川床の幻の古道を歩けるように、新たに標識府か簡単な石塚(ケルン)でも設けようと考えている。

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      ’24年「秋」(57)

2024年10月15日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


   桐一葉落ちて天下の秋を知る

 いきなりそんな言葉が口をついて出た。半対(はんずい)峠から小黒川の川床に下り、一服していた時だった。狭い谷の中に差し込む逆光を浴びて、はらはらと幾枚かの枯れ葉が白濁した流れに舞うのを見ていた。
 女性二人の同行者のうちの一人もそれを目にし、「ワー、きれいね」と声を上げ、もう一人にその光景を見るように促した。

 連休は好天が続いた。各地のキャンプ場の中には、予約が取れないほど賑わった所もあったと、常連のSさんから聞いたほどだ。確かに入笠山にはたくさんの人が訪れたようだし、テイ沢から来て牧場を通過していく人の姿もよく目にした。
 当方のキャンプ場は連休と好天の影響を受けながらも特に混雑することもなく、人出はいつもの週末とそれほど変わらなかった。
 そのせいもあってか、この独り言を聞いて初めて訪れたMさん夫婦などからは大いにここを気に入ってもらえて、話も弾んだ。
 
 冒頭の二人の女性というのも、名古屋から何度か来てくれた顔見知りで、予約時に初日13日は「日向山」に登り、その後ここの小屋に1泊し、翌日は半対峠までを往復する計画だと言っていた。それでつい、帰路は川床に残る古道「石堂越え」を勧め、暇だったら案内してもいいくらいのことを言ったみたいだった。
 
 高座岩から先は、この春にその先の大崩落を見にいって以来のことで、半対までとなると10年以上も前になる。
 川床に残る踏み跡同然の道は「単に釣り人が歩いてできた道とは思えない」と言う人もいて、もしそれが本当に「石堂越え」の一部であるのなら、千年以上も前に遡ることの可能な古い道ということになる。北原のお師匠がまだ元気なころ報告した時は「それが石堂越えだぁ」と電話の向こうで叫んでいた。
 仮にそれが古道であってもそうでなくても、少なくも昭和初期のころまではこの川床の道を利用した人がいたことは間違いないと、この踏み跡を辿るのは今回で3回目か4回目になるが、確信した。

 牧場で働くようになった18年前は「入笠トレッキング」などと称して、(またPCがおかしくなったが続ける)、鹿嶺高原まで12.5㌔の尾根道を歩く市が主催する催しが行われていた。確か牧場で働き始めた年は、その催しが行われた最後の年だったような気がする。
 初めての時はそれとは関係なく単独で、半対峠までは問題なく行けた。しかし、その後2度目だか3度目だか忘れたが、峠に下る道が変わったり、その表示が不正確で、この時も案内役を兼ねながら少々戸惑ったことを覚えている。
 今回は最初の時の道を記憶を頼りに行くことにし、必ずしも同じ道ではなかったものの、それでも目標にした峠に着くことができた。(つづく)

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