朝の早いうちから鹿の鳴く鋭い声がよく聞こえてくる。遠くだったり、近くだったりする。
放埓な、とでも言いたくなるような繁殖の時季を迎えているのだろう、何十頭もの群れの中に、一目で分かる大きな角を生やした雄鹿の姿を幾頭も目にすることもあれば、大きな図体が小さな雌鹿を引き連れてコソコソしている場合もある。
牛が降りて以後、大型の囲い罠で鹿の誘因を続けているが、中にまで入っている形跡はない。すっかり警戒されているようだ。それでも、里の猟師らの取入れの繁忙期も過ぎただろうから、そろそろ仕掛けてみるつもりでいる。
もっとも仮に何頭か捕獲できたとしても、それで頭数削減にいかほどの効果があるかと言えば、殆どない。現状はそこまで行ってしまっている。
きょうは週末の土曜日だというのに、小屋に3名の予約があるだけで、キャンプ場の方の予約は全く入っていない。黄色が主力だった森や林に少しづつ赤の色が混ざるようになり、個人的には最良の時季が来たと思っている。
高い山はこれから酷しい季節を迎えるが、まだここら当たりは静かな秋の中で存分に自然を満喫できるはずだと思うし、そういう場所を教えることもできるのに残念な気がする。
今帰っていたいった人は不意に東京から訪れた。まだ電気すら通っていなかった時代のことを語ってくれながら、久しぶりの変わらぬ周囲の風景を懐かしみ、喜んでいた。
選挙戦が始まった。「丁寧な説明」などという言葉をよく耳にするが、丁寧ではなく、明解、明瞭と言ってほしい。「丁寧な弁解」は不要。
「選択的夫婦別姓」の議論、明治以降の家族制度を批判するばかりでなく、そこから生まれ育まれた、語るべき良い面も多々あると思う。
口先をとがらせ、小利口に物申すのもいいが、しかし、一組の男女が一つ屋根の下に暮らし、同じ姓を名乗ることをもって結婚と考え、よしとする人がまだ多いのではないか。
歴史、文化、伝統を守ろうと説く同じ口で、すぐに男女間格差の問題と絡めたがる人がいるが、しかし、もうそれはあの人たちの一種の職業になってしまっている。だから、そういう一部の限られた人の言う不便、不利、不当を理由にこの制度を片付けてしまってもよいのかと案ずる。
この議論よりか、安楽死や尊厳死の問題の方がより重要であり、先の気がする。
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本日はこの辺で。明日は沈黙します。