■昨年の大晦日に読売新聞が報じた高崎高校野球部の後援会資金不明に関する報道が、次第に注目されつつある。まずは、読売新聞の報じた記事を見てみましょう。
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2千万円?高崎高校野球部の後援会資金不明に
群馬県立高崎高校野球部の後援会資金の所在が不明になっていることが、後援会関係者への取材でわかった。
同部が1981年の選抜大会初出場を決めた際に集まった寄付金の残額で、関係者は「2000万円程度ではないか」とし、内部調査を行っている。
関係者によると、後援会は約15年前から休眠状態で、今回、復活させようとしたところ、通帳や決算資料が見つからず、今年11月、後援会の臨時総会で明らかにされた。当時の役員からは明確な説明は得られていないという。
選抜出場時には同校OBらから約1億円の寄付が集まり、大会後、余った約8000万円のうち約3000万円を後援会が引き継いだ。関係者は、諸経費を差し引いても約2000万円の残額があるとみている。
(2010年12月31日09時06分 読売新聞)
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■高崎高校硬式野球部が昭和56年(1981年)のセンバツに出場が決定した際に、同校のOBらから、巨額の寄付金が短期間に集まりましたが、同校野球部は1回戦で、星陵高校に大敗し、巨額の寄付金の殆どが使われないまま残りました。
同校の同窓会が毎年1月下旬の土曜日に開催している新年総会で配布される資料によると、この巨額の浄財について、次のような報告があります。
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財団法人「翠巒育英会」について
<発足ならびに概況説明資料>
昭和56年(1981)群馬県立高崎高等学校野球部は、第53回選抜高校野球大会に悲願の初出場を果たした。その時、野球部後援会を母体に同窓会・PTA・野球部OB会・野球部父兄会が参加して「高崎高校野球部選抜甲子園大会出場特別後援会」(会長 小山禧一)が組織され募金活動を行ったところ、総額1億500万円余の浄財が瞬く間に集められた。
しかし、甲子園では本校野球部は1回戦で敗退したために、8,000万円ほどの浄財が残された。「高崎高校野球部選抜甲子園大会出場特別後援会」はその解散にあたって、残金についてはご後援をいただいた各方面にお返しし、それぞれ有効に活用していただくこととしたが、同窓会にはクラブ活動振興のためにと3,000万円が寄託された。
同窓会ではその運用を適正に期すために「クラブ活動振興基金管理委員会」(委員長 原一雄)を組織して、高崎高等学校のクラブ活動を支援してきた。そして、より有効な活用をはかるために、同窓会諸機関の承認を得て、本来のクラブ活動振興基金としての趣旨を生かしながら、さらに奨学資金の無償給付を行う財団法人を設立することとし、昭和60年(1985)1月19日「クラブ活動振興基金」3,000万円を基本財産として、財団法人「翠巒育英会」が発足した。
以来、24年を経て翠巒育英会の奨学金(月額1万円)を支給された奨学生は90人、支給された総額は2,395万円に及んでいる(平成22年1月現在)。その内訳は、高々68人・高女7人・高商5人・高経大附属(含む高市女)4人・中央3人・高工3人であり、生徒の居住地域も高崎市の他、安中市、藤岡市、富岡市、甘楽町、前橋市、渋川市、昭和村、玉村町の他地域にわたっている。このような活動の公益性が高く評価され平成3年(1991)には群馬県教育委員会より感謝状、平成7年(1995)には群馬県知事表彰を受けている。また平成9年1月に、「翠巒育英会創立10周年」を記念して記念誌を発行し、関係者及び関係各機関に配布した。
この育英資金は、財団の基本財産運用の利息の果実によって賄われているが、さらに毎年、叙位叙勲表彰を受けた同窓生や篤志家等の寄付によって援助されており、平成21年12月現在のべ182人の浄財の支援を受けながら、最近の低金利時代のなかでも育英会活動を続けている。
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また、ネットのWikipediaにはこのことについて次のような記載があります。
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硬式野球がセンバツに出場を決めた1980年の秋季関東大会のエピソードは、山際淳司のノンフィクション小説「スローカーブを、もう一球」で採り上げられた。また甲子園出場決定にあたっては、福田赳夫・中曽根康弘を筆頭としたOBから数億円にのぼる多額の寄附金が集まった。なお試合は1回戦で音重鎮らを擁する星稜高校に大敗した。
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OBの福田・中曽根を筆頭として、「数億円にのぼる多額の寄附金があつまった」というのは眉唾としても、当時、OBらから集まった寄附金は1口1万円で、なかには親子で同校卒業生として、あるいは、同期会や職場単位で寄付したケースもあったようです。
■また、山際淳司のノンフィクション小説は1985年に刊行されたもので、8つのオムニバス形式になっています。その中で、小説本の題名にもなっているのが高崎高校を取り上げた「スローカーブを、もう一球」というストーリーです。
ここに描かれているのは、高崎市にある群馬県立高崎高校で、通称「タカタカ」野球部が県大会を勝ち抜き、関東大会準優勝という成績を残して甲子園への切符を手にするまでの経緯です。
■主人公は「タカタカ」のエースナンバーを守る川端俊介です。「タカタカ」は少人数でありながら活気に満ちていますが、甲子園だけが目標のいわゆる根性チームではありません。主人公川端俊介は、ポッチャリ気味の少し太めの高3生で、走ることが嫌いなため痩せられず、もてないため、彼女もいないという設定です。何事にも意欲が湧かないわりに、野球になると少し真剣になり、自分と似た性格の江川卓にあこがれています。特に野球センスに恵まれているわけでもなく、努力家でもないが、駆け引き事には多少強く、川端俊介の持ち球は130キロ台前半の直球と、60~70キロ台の超スローカーブの二つで、打者を翻弄しながら勝ち星を重ねてゆくのが痛快で面白いところです。スタミナはないが、ストレートを多投せず、超スローカーブを一試合に20球程度投げることにより、スタミナの温存を図りながら、県大会を面白いように勝ち進んで、結局優勝し、さらに、危ないながらも関東大会を勝ち進んで準決勝を逆転勝利し、ついに夢の甲子園出場切符を手にして、「タカタカ」に歴史を刻みました。そして決勝の相手は優勝候補のチームで、2-2となんとか8回まで踏ん張り、8回裏にスカウトからの注目を浴びている相手の3番バッターを三振に仕留めたまでは良かったのですが、そこで力が抜けて連打を浴び県大会以来、初の黒星を喫して、このストーリーは終わります。
実際に、同校野球部は、あれよあれよという間に勝ち進み、甲子園の切符を手にしたことから、その意外性と、母校の野球部が夢の甲子園に出場し、勝利すれば懐かしい校歌を一緒に歌えると、同校OBらは皆、狂喜乱舞したことでしょう。だから短期間に巨額の浄財が集まったのでした。
■いろいろな情報を整理してみると、センバツで初戦敗退したことから、1億500万円余りの寄附金のうち、経費として2500万円程度を費消した残金は8,000万円程で、このうち、3,000万円が同窓会に寄付されており、これは前述の通り、きちんと管理及び報告が毎年されていて、奨学金として有効に活用されていることが分かります。
では、新聞報道された行方不明になっているという約2,000万円もの大金は、どのような経緯をたどったのでしょうか。どうやら、同校野球部には、「後援会」というものが、今から15年前まで、存在しており、そこにはセンバツ初出場で集まった1億500万円程の巨額寄附金のうち、実際に経費として費消した金額約2500万円の除く約8,000万円が余り、そのうち3,000万円が同校の同窓会に寄付され、同じく約3,000万円が同校野球部の後援会に引き継がれ、残りの約2,000万円が、その他の後援会に分配されたことになります。
■同校野球部の「後援会」というのが、どのような実態なのかは、手元に資料がないため分かりません。しかし、一応会長ら幹部や、会計係は決めてあるはずで、通帳の管理をしていた人物がいるはずです。
現在内部調査中のようですが、今年、平成23年1月22日(土)午後3時から高崎ビューホテルで、高崎高校同窓会の新年総会が開催される予定で、同校OBらが1000人以上集うことでしょう。
その場で、学校側から、内部調査結果を踏まえた説明がきちんとなされるかどうか、注目されます。もし、このことに関して説明がなかったり、中途半端な説明に終始したりした場合には、今後、野球部はもとより、他のクラブが全国大会に出場するときなど、寄付金を集めようとしても、思うように集まらなくなる恐れが出てくるでしょう。また、同窓会の維持会費の集まり具合にも影響を及ぼすことになるかもしれません。
■今年度で勇退予定という同高の校長先生には、この事件について、ぜひ詳しく説明してもらいたいと思う同校OBらは多いと思います。また、在学中の1981年にセンバツ初出場を果たし、甲子園では実際に5番レフトで出場し、その後昭和63年から平成10年まで中曽根康弘衆議院議員(元首相)秘書を務めていたこともある安中市選出の岩井均県議には、ぜひとも同校、野球部OB代表として、行方不明となった2,000万円の使途確認に向けて野球部後援会関係者へのヒヤリングを通して、事件の実態調査や責任の所在の確認、そして再発防止策について、リード役を務めてもらいたいものです。
【ひらく会情報部】
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2千万円?高崎高校野球部の後援会資金不明に
群馬県立高崎高校野球部の後援会資金の所在が不明になっていることが、後援会関係者への取材でわかった。
同部が1981年の選抜大会初出場を決めた際に集まった寄付金の残額で、関係者は「2000万円程度ではないか」とし、内部調査を行っている。
関係者によると、後援会は約15年前から休眠状態で、今回、復活させようとしたところ、通帳や決算資料が見つからず、今年11月、後援会の臨時総会で明らかにされた。当時の役員からは明確な説明は得られていないという。
選抜出場時には同校OBらから約1億円の寄付が集まり、大会後、余った約8000万円のうち約3000万円を後援会が引き継いだ。関係者は、諸経費を差し引いても約2000万円の残額があるとみている。
(2010年12月31日09時06分 読売新聞)
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■高崎高校硬式野球部が昭和56年(1981年)のセンバツに出場が決定した際に、同校のOBらから、巨額の寄付金が短期間に集まりましたが、同校野球部は1回戦で、星陵高校に大敗し、巨額の寄付金の殆どが使われないまま残りました。
同校の同窓会が毎年1月下旬の土曜日に開催している新年総会で配布される資料によると、この巨額の浄財について、次のような報告があります。
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財団法人「翠巒育英会」について
<発足ならびに概況説明資料>
昭和56年(1981)群馬県立高崎高等学校野球部は、第53回選抜高校野球大会に悲願の初出場を果たした。その時、野球部後援会を母体に同窓会・PTA・野球部OB会・野球部父兄会が参加して「高崎高校野球部選抜甲子園大会出場特別後援会」(会長 小山禧一)が組織され募金活動を行ったところ、総額1億500万円余の浄財が瞬く間に集められた。
しかし、甲子園では本校野球部は1回戦で敗退したために、8,000万円ほどの浄財が残された。「高崎高校野球部選抜甲子園大会出場特別後援会」はその解散にあたって、残金についてはご後援をいただいた各方面にお返しし、それぞれ有効に活用していただくこととしたが、同窓会にはクラブ活動振興のためにと3,000万円が寄託された。
同窓会ではその運用を適正に期すために「クラブ活動振興基金管理委員会」(委員長 原一雄)を組織して、高崎高等学校のクラブ活動を支援してきた。そして、より有効な活用をはかるために、同窓会諸機関の承認を得て、本来のクラブ活動振興基金としての趣旨を生かしながら、さらに奨学資金の無償給付を行う財団法人を設立することとし、昭和60年(1985)1月19日「クラブ活動振興基金」3,000万円を基本財産として、財団法人「翠巒育英会」が発足した。
以来、24年を経て翠巒育英会の奨学金(月額1万円)を支給された奨学生は90人、支給された総額は2,395万円に及んでいる(平成22年1月現在)。その内訳は、高々68人・高女7人・高商5人・高経大附属(含む高市女)4人・中央3人・高工3人であり、生徒の居住地域も高崎市の他、安中市、藤岡市、富岡市、甘楽町、前橋市、渋川市、昭和村、玉村町の他地域にわたっている。このような活動の公益性が高く評価され平成3年(1991)には群馬県教育委員会より感謝状、平成7年(1995)には群馬県知事表彰を受けている。また平成9年1月に、「翠巒育英会創立10周年」を記念して記念誌を発行し、関係者及び関係各機関に配布した。
この育英資金は、財団の基本財産運用の利息の果実によって賄われているが、さらに毎年、叙位叙勲表彰を受けた同窓生や篤志家等の寄付によって援助されており、平成21年12月現在のべ182人の浄財の支援を受けながら、最近の低金利時代のなかでも育英会活動を続けている。
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また、ネットのWikipediaにはこのことについて次のような記載があります。
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硬式野球がセンバツに出場を決めた1980年の秋季関東大会のエピソードは、山際淳司のノンフィクション小説「スローカーブを、もう一球」で採り上げられた。また甲子園出場決定にあたっては、福田赳夫・中曽根康弘を筆頭としたOBから数億円にのぼる多額の寄附金が集まった。なお試合は1回戦で音重鎮らを擁する星稜高校に大敗した。
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OBの福田・中曽根を筆頭として、「数億円にのぼる多額の寄附金があつまった」というのは眉唾としても、当時、OBらから集まった寄附金は1口1万円で、なかには親子で同校卒業生として、あるいは、同期会や職場単位で寄付したケースもあったようです。
■また、山際淳司のノンフィクション小説は1985年に刊行されたもので、8つのオムニバス形式になっています。その中で、小説本の題名にもなっているのが高崎高校を取り上げた「スローカーブを、もう一球」というストーリーです。
ここに描かれているのは、高崎市にある群馬県立高崎高校で、通称「タカタカ」野球部が県大会を勝ち抜き、関東大会準優勝という成績を残して甲子園への切符を手にするまでの経緯です。
■主人公は「タカタカ」のエースナンバーを守る川端俊介です。「タカタカ」は少人数でありながら活気に満ちていますが、甲子園だけが目標のいわゆる根性チームではありません。主人公川端俊介は、ポッチャリ気味の少し太めの高3生で、走ることが嫌いなため痩せられず、もてないため、彼女もいないという設定です。何事にも意欲が湧かないわりに、野球になると少し真剣になり、自分と似た性格の江川卓にあこがれています。特に野球センスに恵まれているわけでもなく、努力家でもないが、駆け引き事には多少強く、川端俊介の持ち球は130キロ台前半の直球と、60~70キロ台の超スローカーブの二つで、打者を翻弄しながら勝ち星を重ねてゆくのが痛快で面白いところです。スタミナはないが、ストレートを多投せず、超スローカーブを一試合に20球程度投げることにより、スタミナの温存を図りながら、県大会を面白いように勝ち進んで、結局優勝し、さらに、危ないながらも関東大会を勝ち進んで準決勝を逆転勝利し、ついに夢の甲子園出場切符を手にして、「タカタカ」に歴史を刻みました。そして決勝の相手は優勝候補のチームで、2-2となんとか8回まで踏ん張り、8回裏にスカウトからの注目を浴びている相手の3番バッターを三振に仕留めたまでは良かったのですが、そこで力が抜けて連打を浴び県大会以来、初の黒星を喫して、このストーリーは終わります。
実際に、同校野球部は、あれよあれよという間に勝ち進み、甲子園の切符を手にしたことから、その意外性と、母校の野球部が夢の甲子園に出場し、勝利すれば懐かしい校歌を一緒に歌えると、同校OBらは皆、狂喜乱舞したことでしょう。だから短期間に巨額の浄財が集まったのでした。
■いろいろな情報を整理してみると、センバツで初戦敗退したことから、1億500万円余りの寄附金のうち、経費として2500万円程度を費消した残金は8,000万円程で、このうち、3,000万円が同窓会に寄付されており、これは前述の通り、きちんと管理及び報告が毎年されていて、奨学金として有効に活用されていることが分かります。
では、新聞報道された行方不明になっているという約2,000万円もの大金は、どのような経緯をたどったのでしょうか。どうやら、同校野球部には、「後援会」というものが、今から15年前まで、存在しており、そこにはセンバツ初出場で集まった1億500万円程の巨額寄附金のうち、実際に経費として費消した金額約2500万円の除く約8,000万円が余り、そのうち3,000万円が同校の同窓会に寄付され、同じく約3,000万円が同校野球部の後援会に引き継がれ、残りの約2,000万円が、その他の後援会に分配されたことになります。
■同校野球部の「後援会」というのが、どのような実態なのかは、手元に資料がないため分かりません。しかし、一応会長ら幹部や、会計係は決めてあるはずで、通帳の管理をしていた人物がいるはずです。
現在内部調査中のようですが、今年、平成23年1月22日(土)午後3時から高崎ビューホテルで、高崎高校同窓会の新年総会が開催される予定で、同校OBらが1000人以上集うことでしょう。
その場で、学校側から、内部調査結果を踏まえた説明がきちんとなされるかどうか、注目されます。もし、このことに関して説明がなかったり、中途半端な説明に終始したりした場合には、今後、野球部はもとより、他のクラブが全国大会に出場するときなど、寄付金を集めようとしても、思うように集まらなくなる恐れが出てくるでしょう。また、同窓会の維持会費の集まり具合にも影響を及ぼすことになるかもしれません。
■今年度で勇退予定という同高の校長先生には、この事件について、ぜひ詳しく説明してもらいたいと思う同校OBらは多いと思います。また、在学中の1981年にセンバツ初出場を果たし、甲子園では実際に5番レフトで出場し、その後昭和63年から平成10年まで中曽根康弘衆議院議員(元首相)秘書を務めていたこともある安中市選出の岩井均県議には、ぜひとも同校、野球部OB代表として、行方不明となった2,000万円の使途確認に向けて野球部後援会関係者へのヒヤリングを通して、事件の実態調査や責任の所在の確認、そして再発防止策について、リード役を務めてもらいたいものです。
【ひらく会情報部】