松江と椿 ぜひ読んでみてください。
http://peshimane.s3.zmx.jp/kenkyu/pdf/2005s.pdf#search='%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E8%97%A9+%E6%A4%BF+%E9%8A%80%E5%BA%A7+%E5%85%AC%E5%9C%92'
上↑にはぜひ、写真もありますので、覗いてください。
松江国際文化観光都市建設法の目的
第1条
この法律は、松江市が明媚な風光とわが国の歴史、
文化等の正しい理解のため欠くことができない多く
の文化財を保有し、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
の文筆を通じて世界的に著名であることにかんがみ
て、同市を国際文化観光都市として建設し、その文化
観光資源の維持開発及び文化観光施設の整備によっ
て、国際文化の向上を図り世界恒久平和の理想の達成
「神々の国の首都」松江における緑豊かな文化的景観の継承
林 秀 樹
1, はじめに
人間の営みから生まれ、育てられてきた「文化的景観」が注目を集めている。平成16(2004)
年には、文化財保護法が改正され、人々の生活または生業および地域の風土により形成された景観を文化的景観として位置づけ、文化財の一つに加えた。また、「美しい国づくり」めざし「良好な景観」をまもり育てる景観法が成立した。
「知られざる日本の面影」や「怪談」などで日本を世界に紹介した明治時代の小説家、小泉八
雲(ラフカディオ・ハーン)が亡くなり、平成16(2004)年10月で100年を迎える。小泉八雲は、明治23(1890)年松江市へ中学校の英語教師として赴任し、積極的に県内各地を探訪した。その後、旧松江藩の藩士の娘だった小泉セツと結婚し、松江とのゆかりが深い人物である。小泉八雲没後100年の記念行事が、松江市を中心に数多く開催され、多くの市民が小泉八雲を偲んだ。
小泉八雲は、出雲の国「松江」を「神々の国の首都」と呼び、この地方に残っていた日
本の古くからの文化伝統を体感し、水と緑の調和した美しいまち「松江」を賞賛している。
八雲は、目覚めを告げる早朝の鐘の音や物売りの声、宍道湖から発生する霧や夕焼けの太陽の色を愛で、自宅の日本庭園でのくつろぎから、松江の心象風景を多くの著作で紹介し
ている。
ここでは、小泉八雲と「歴史並びに文化的景観」について、考えてみたい。
2, 国際文化観光都市「松江」
松江という地名の由来は、意外と新しく、慶長16(1611)年に堀尾
吉春が亀田山に城を築き、白潟・末次の二郷をあわせて松江と称したこ
とに始まる。松江という名称は、宍道湖に面した風景が中国浙江省松江
に似ていることから名付けられたと言われている。
江戸時代には、堀尾氏3代、松平氏10代の城下町として栄え、都市の基礎が築かれた。
明治4(1871)年、廃藩置県によって県庁が置かれ、明治22(1889)年4月、全国の3
8市とともに市制を施行し、松江市が誕生した。当時の市域4.78平方キロメートル、
人口35,513人であった。
その後、昭和9年から35年にかけて8回にわたり周辺の村を合併、また、公有水面の
埋め立てなどを経て、現在の市域となっている。平成17(2005)年3月には、平成の大
意宇杜合併により、5町1村と合併し、人口211,500人、面積572平方キロメートルの
県都に生まれ変わる予定である。
この間、昭和26(1951)年には、松江国際文化観光都市建設法が制定され、奈良市、
京都市と並んで国際文化観光都市に指定された。ここにも小泉八雲が松江の水と緑の美し
さを賞賛し、世界に情報発信した成果がうかがわれる。
昭和40(1965)年には、松江市市民憲章が制定されたが、第1項に「きれいな水とみ
どりにいろどられた美しいまちにしましょう。」と謳われている。小泉八雲の意志を継いで、
その後も、水と緑が調和したまち「松江」のまちづくりが今日まで連綿として進められて
いる。
3, 古事記、出雲風土記の時代から受け継いだ緑
松江市のある出雲地方は、古事記にも多くの記述があるように、古代出雲文化圏を形成
し、古墳や神社などの多くの歴史的遺産が残されている。スサノオノミコトがヤマタノオ
ロチを退治する話は、古事記に書き残された出雲を舞台とする一大神話である。
松江市の郊外には、スサノオノミコトがまつられている八重垣神社があり、境内地の背後
には、スギの巨木やヤブツバキなどが生い茂っている小さな森がある。その森の中には水
が枯れることなくわき出ている「鏡の池」があり、恋占いや良縁を祈る若者の参拝が絶え
ない。小泉八雲は、八重垣神社の参拝を紀行文として残しており、この森を聖なる森と崇
めている。
森は、古くから「佐久佐女(さくさめ)の森」と名付けられ、大切にされてきた。神話
の時代からの守り育てられた森が、現代の「松江市緑のマスタープラン」にも重要な緑として位置づけられている。
天平5(733)年に編纂されたといわれている「出雲風土記」は、唯一編纂年代がわかっている完本の風土記である。その中に、都市のシンボルツリー原点となる森の記述があり、現在もその小さな森が「意宇杜(おうのもり)」として、残されている。
出雲風土記の一大叙事詩である「国引きの神話」では、国引きを終えた神が、杖を立てて「おえ」と国造りの完了を宣言する。今でも、大きなプロジェクトが完成すると記念樹を植栽する。この意宇杜(おうのもり)は、日本の記念植樹の事始めであろう。
現在の意宇杜(おうのもり)は、かつてそびえ立っていたタブノキが風雪で倒れ、小さ
な樹林となってしまっている。しかし、出雲国庁の遺跡が点在する松江市郊外に2000
年近い歴史ある杜は、地域住民の手で守り、受け継がれており、いつかは大木として蘇る
と期待される。
昭和41(1966)年から、意宇杜(おうのもり)周辺で出雲国庁跡の発掘が始まり、昭
和46(1971)年には、これらの遺跡が国指定の史跡に指定された。このような経過を受
けて、古代出雲文化を引き継いだ文化遺産の保存展示を求める県民のニーズが大きな高ま
りを見せた。
風土記植物園
東京銀座の出雲ツバキ
そのため、古代を偲ぶ古墳公園として、市民の憩いの場として、さらには、歴史を学ぶ
場として、昭和47(1972)年に「八雲立つ風土記の丘」が開園された。公園面積は、4.4ヘクタールとなっており、園内には島根県内では最大規模の古墳「二子塚古墳」があり、新たな歴史景観と21世紀に引き継がれる美しい緑が創出された。
「八雲立つ」とは、出雲にかかる枕詞であり、出雲風土記のはじめに出雲と名付けた所以と記されている。ラフカディオ・ハーンの日本名「小泉八雲」の名もこれにちなんでいる。この
「八雲立つ風土記の丘」には、出雲風土記に記されている植物を植栽展示し、風土記の時代の自然と人間生活の関わりを学ぶことができる「風土記植物
園」が併設されている。
4, 出雲発東京銀座の修景緑化
先に述べた八重垣神社の門前にあるツバキは、縁結びのツバキとして有名である。小泉八雲も八重垣神社の紀行文の中で、「なお、一つ見ておくべきもの」として、このツバキを紹介している。
推定の樹齢は400年を超えるといわれている、ご神木である。このツバキは、根元付
近で、2本の幹が合体している。また、時として葉脈が二つに分かれる連理葉を生ずることもあり、「連理玉椿」としてあがめられている。
また、ツバキは、松江市の「市の花」に選定されている。古く藩政の時代から椿油を殖産産業として市民生活と密接に結ばれるとともに、連理玉椿や松江城山公園内の椿谷、大名茶人「松平不昧公」の茶道における茶花として、市民に親しまれていることから、昭和49(1974)年に市の木「松」と併せて選定されたものである。
東京銀座は、徳川幕府が慶長8年から海岸埋め立て造成したまちである。松江藩が、今の銀座七丁目から八丁目付近を普請けしたことから、その地は出雲町と名付けら、通りは出雲通りと呼ばれていた。明治5(1915)年その地に花椿を商標とした化粧品会社が創業された。その椿の商標は、松江の八重垣神社の玉椿をモチーフにしたといわれ、出雲通りには出雲椿の街路樹があったことから、近年は旧出雲町界隈の通りが「花椿通り」と呼ばれるようになっていた。
平成5(1993)年、歩道の改修に伴い、再び出雲椿を銀座花椿通りに植栽することとなった。東京で最もにぎわいのある銀座の街路樹として、東京の修景緑化に出雲椿が寄与している。小泉八雲の言う「神々の国の首都」から日本の国の首都に緑が送られたのである。
5, 松江市の都市公園づくり
湖畔公園の夕日
雲と夕日が絵巻物のように変化。小泉八雲の描写のうまさにより「日本
三大夕日」の一つに。
明治の松江城と桜
松江市における都市公園の始まりは、昭和32(1957)年3月に城山公園、嫁が島公園及び北公園(当時は北運動公園といった。)の開園である。それまでも市民の憩いの場としての公園はあったが、都市公園として位置づけられたのは、これが最初である。
その後、昭和34(1959)年3月には、小泉八雲が湖に沈む夕日を絶賛した宍道湖湖畔に末次公園および白潟公園が開設された。
昭和40(1965)年12月には、松江国際文化観光都市建設計画
公園事業として、江戸時代からの苑地である楽山を公園として再整備が始められ、この頃から市民のあいだで体力増強の気運が高まったことから、楽山公園内に松江市の公園では初めてのテニスコートが設けられた。
昭和46(1971)年12月には市民のレクリエーションの場として、また、体育向上に寄与するため、松江総合運動公園が都市計画決定され、大規模な公園づくりが本格化した。
平成の時代に入り、機能性や効率性を追い求めていた昭和の終わ
りの反省から、潤いややすらぎ、快適性を求める声が高まり、小泉八雲が絶賛した宍道湖の景観を守る県民運動が起こった。そのため、島根県では、平成3(1991)年に「ふるさと島根の景観づくり条例」を定めた。宍道湖の景観を生かしたまちづくりとして、市内の河川や松江城の周辺に巡らされた堀の水と緑のネットワークづくりが開始された。
神々の国の首都と称せられる松江の緑豊かなまちづくりは、時代の要請を機敏に察知し、
市民の協力と理解を得て、日々進められている。
6, 江戸時代からの緑の継承
・城山公園
宍道湖の北、標高28メートルの亀田山に松江城が立っている。この城は、関ヶ原の戦
いで手柄を立てた堀尾吉晴が、慶長1 2(1607)年から5年の歳月を経て建設したも
のである。鳥が羽を広げたように美しいことから別名千鳥城と呼ばれ、天守閣の最上階か
らは松江の景色が一望できる。明治維新後、最後の藩主松平定安が島根県に譲渡されたが、明治23(1890)年には再び旧藩主松平家に払い下げられたが、昭和2(1927)年に松平
家から松江市に寄付されたものである。
写真でもわかるように明治の終わりには、桜が植えられ、市民の憩いの場となっていた
ようである。桜の名所としての城山公園は、平成の今日まで引き継がれており、平成2年
(1990)年には、日本さくらの会により「日本さくら名所100選」に選定された。これ
は、毎年桜の咲く4月には、毎年「お城まつり」が開催され、桜の花の下でのお茶会や安来節新人コンクールや郷土芸能などの各種イベントで賑わっている。
城山公園が正式に都市公園として位置づけられたのは、昭和27(1952)年3月に都市計画決定してからであり、昭和31(1956)年に歴史公園として供用開始した。
・楽山公園
楽山公園は、江戸時代の松江藩主松平家の別邸として整備された林泉苑地を都市公園としたものである。
江戸時代の楽山は、藩の公称「御立山」通称「お山」と呼ばれた。寛文元年に二代目藩主綱隆が整備したもので、弁財天の祠を配した小島に修景を施した弁天池を中心に、天満宮など数社を祀り、御茶屋を設けた。山内には、このほか馬場、弓場、鷹場、薬草園、花
畑等を配置した。この苑地は、論語の「知者楽水、仁者楽山」からの雅名を「楽山臨水」とし、茶室である御茶屋に「楽山御茶屋」「臨水御茶屋」と称した。
今日残る各地の藩主別邸は、参勤交代で江戸を往復する中で、江戸の大庭園に刺激され、
回遊式庭園を造成するなど人工的な造園を施したものが多いが、楽山は、自然林の美しさ
を取り入れた自然風致苑であった。公称「御立山」とは、「お留山(おとめやま)」であり、
現代の風致保安林のように伐採を制限し、御立山奉行が森林の管理に当たったと言われて
いる。
楽山は、藩主の別邸であり、通常は一般には公開されていなかったが、
苑地内の社寺の縁日など特定の日には一般に開放され、多くの行楽客で
にぎわったという。さらには、楽山内の各茶屋は藩主専用のものであったが、苑内の神社の参道には、一般庶民の飲楽の場として御茶屋を設け、門前町として整備されており、現代
のテーマパークの様相を呈していたと思われる。
明治維新後は、御茶屋も撤去され、社寺も移転した。楽山の荒廃を惜しむ地域住民は、松平家に協力し「楽山保勝会」を組織し、維持管理に努めていたが、昭和13(1938)年に松平家から地元の川津村に寄付され、楽山公園として、市民憩いの場となった。都市公園としての位置づけは、さらに月日を要し、昭和32(1957)年3月に松江城山公園に次ぐ二番目の都市公園として、都市計画決定がなされ、昭和41(1966)年に都市公園として供用開始している。21ヘクタールの面積を誇る総合公園として、市民憩いの場となっている。
国体開催時の運動公園
岡本太郎作「神話」
日本の都市公園の始まりが、明治6(1873)年の太政官布告による公園の設置であるが、
最初に指定されたのは、当時庶民の物見遊山の場であった東京の浅草や飛鳥山であったこ
とを考えると、松江の楽山は、都市公園指定が遅れたとはいえ、明治のはじめから公園の
体をなしていたものと思われ、文化的景観としての偉大な遺産と言えるものである。
6,スポーツの祭典「くにびき国体」の開催と公園づくり昭和57(1982)年島根県で第37回国民体育大会が開催されることが決定した。昭和40年代後半から、島根県内で
は、県民のスポーツへの関心が高まり、各都市では野球場等の運動施設を中心とした運動公園の整備が始まっていたが、この国体開催が決定されたことから一挙に運動公園の整備
が促進された。
県庁所在地である松江市では、国体の開会式を挙行できる運動公園の整備が急務の課題となった。
そのため、昭和48(1973)年12月に松江総合運動公園が国体の主会場となるべく都市計画決定され、本格的な運動公園としての整備が着手された。昭和51年(1976)年に野球場を中心に開園された。引き続き陸上競技場等の整備を進め、昭和57(1982)年の「くにびき国体」では、主会場として「このふれあいが未来をひらく」をスローガンに盛大な開会式が挙行された。
運動公園の中央広場には、島根県とのゆかりの深い芸術家である岡本太郎が制作したモニュメントが設置された。全国から「神々の国の首都」松江にやってきた多くのスポーツマンを迎えた高さ6メートルのモニュメントは、「神話」と名付けられた。20世紀にできた新しい「神話」を小泉八雲が見たらなんと表現しただろうか。
この運動公園は、今でも市民の健康とふれあいの場として利用されているだけでなく、
多くのスポーツ大会が開催され、松江市活性化の拠点の一つとして活用されている。
くにびき国体から約20年経過した平成16(2004)年には、全国高校総合体育大会が
島根県を中心に開催されることとなり、平成15(2003)年度には50メートルプールや
温水プールを持つ中国地方でも有数の県立プールや全天候型のテニスコート等が建設され
るなど、運動公園としての施設の充実が図られている。
7,宍道湖を巡る水と緑のネットワーク「水の都松江」
松江は水の都と称されるように、日本で6番目の大きさを誇る宍道湖に面し、中心市街
地には、大橋川や天神川が流れ、松江城を取り巻くように松江堀川が水をたたえている。
かつては、どぶ川と化していた松江堀川も周辺の下水道の整備を集中的に行い、また、
平成6(1994)年から清流ルネッサンス21事業を実施したことにより、大幅に水質改善
され、松江堀川本来の姿を取り戻した。
県庁庭園と松江城
日本の代表的庭園家重森完途作
松江堀川の浄化にあわせ、水辺の植栽を進めるなど修景緑化を進め、平成9(1997)年
度から松江城周辺の堀川を巡る「堀川遊覧船」が就航した。年間利用者数は30万人を超
え、まちの緑と水を活かしたまちづくりが、大きな観光資源とている。
小泉八雲が絶賛した宍道湖の夕日を鑑賞するベストスポットには、松江湖畔公園が整備
されている。この公園は、昭和34年開園した都市公園であり、城山公園に次いで古い公
園として、市民だけでなく、観光客も多く訪れていた。
公園の一角には、平成11(1999)年に島根県立美術館が開館した。この美術館は、水
をテーマにしたコレクションで名高いだけでなく、夕日の美術館として、日没の変化にあ
わせ閉館時間を変えるなど、ユニークな運営で利用者からの支持が高い施設である。美術
館の開館にあわせ、公園の再整備をはかり、治水を担当する国土交通省、都市公園を整備
する松江市および美術館を建設する島根県の連携のもとに、水辺とふれあい、水と緑が調
和した湖畔公園として開園した。また、宍道湖の北岸には、アール・ヌーヴォー様式のル
イス・ティファニー庭園美術館が開園するなど、宍道湖周辺の公園化が進んでいる。
8,松江市・緑豊かな景観の継承と展望
松江市の緑の基本計画によると「松江市の緑としては、宍道湖や大橋川の水、
郊外の緑や都市内の先人たちから引き継いだ城山や楽山の緑などがあり、全体と
しては、水と緑の自然環境に恵まれた都市である。」と述べられている。都市公園
の整備では、平成15(2003)年度末で一人あたりの公園面積11.6平方メー
トルと全国平均を上回っている。
しかし、松江市の全景写真を見てわかるとおり、城山公園や楽山公園などの歴史的遺産
と松江総合運動公園などの郊外の大規模な都市公園に負うところが大きく、市街地の緑が
少ないのが実態である。
松江堀川の周辺では、水と緑のネットワークづくりが始まり、街路樹やポケットパークなど町の中心部にも緑が整備され始めた。
これら、松江市街の緑豊かな景観を守り育てるためには、市民参加が不可欠であるということから、松江のまちなかの緑について考え、実践していく「グリーンフィンガー倶楽部」が結成された。
市民参加型の文化景観の育成は、21世紀の松江を緑豊かなまちとするための、大きな力となると思われる。
歴史が培った文化的景観を守り育てることは、小泉八雲が「神々の首都」と賞賛した「新しい八雲立つ出雲のくにづくり」に他ならない。
http://peshimane.s3.zmx.jp/kenkyu/pdf/2005s.pdf#search='%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E8%97%A9+%E6%A4%BF+%E9%8A%80%E5%BA%A7+%E5%85%AC%E5%9C%92'
上↑にはぜひ、写真もありますので、覗いてください。
松江国際文化観光都市建設法の目的
第1条
この法律は、松江市が明媚な風光とわが国の歴史、
文化等の正しい理解のため欠くことができない多く
の文化財を保有し、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
の文筆を通じて世界的に著名であることにかんがみ
て、同市を国際文化観光都市として建設し、その文化
観光資源の維持開発及び文化観光施設の整備によっ
て、国際文化の向上を図り世界恒久平和の理想の達成
「神々の国の首都」松江における緑豊かな文化的景観の継承
林 秀 樹
1, はじめに
人間の営みから生まれ、育てられてきた「文化的景観」が注目を集めている。平成16(2004)
年には、文化財保護法が改正され、人々の生活または生業および地域の風土により形成された景観を文化的景観として位置づけ、文化財の一つに加えた。また、「美しい国づくり」めざし「良好な景観」をまもり育てる景観法が成立した。
「知られざる日本の面影」や「怪談」などで日本を世界に紹介した明治時代の小説家、小泉八
雲(ラフカディオ・ハーン)が亡くなり、平成16(2004)年10月で100年を迎える。小泉八雲は、明治23(1890)年松江市へ中学校の英語教師として赴任し、積極的に県内各地を探訪した。その後、旧松江藩の藩士の娘だった小泉セツと結婚し、松江とのゆかりが深い人物である。小泉八雲没後100年の記念行事が、松江市を中心に数多く開催され、多くの市民が小泉八雲を偲んだ。
小泉八雲は、出雲の国「松江」を「神々の国の首都」と呼び、この地方に残っていた日
本の古くからの文化伝統を体感し、水と緑の調和した美しいまち「松江」を賞賛している。
八雲は、目覚めを告げる早朝の鐘の音や物売りの声、宍道湖から発生する霧や夕焼けの太陽の色を愛で、自宅の日本庭園でのくつろぎから、松江の心象風景を多くの著作で紹介し
ている。
ここでは、小泉八雲と「歴史並びに文化的景観」について、考えてみたい。
2, 国際文化観光都市「松江」
松江という地名の由来は、意外と新しく、慶長16(1611)年に堀尾
吉春が亀田山に城を築き、白潟・末次の二郷をあわせて松江と称したこ
とに始まる。松江という名称は、宍道湖に面した風景が中国浙江省松江
に似ていることから名付けられたと言われている。
江戸時代には、堀尾氏3代、松平氏10代の城下町として栄え、都市の基礎が築かれた。
明治4(1871)年、廃藩置県によって県庁が置かれ、明治22(1889)年4月、全国の3
8市とともに市制を施行し、松江市が誕生した。当時の市域4.78平方キロメートル、
人口35,513人であった。
その後、昭和9年から35年にかけて8回にわたり周辺の村を合併、また、公有水面の
埋め立てなどを経て、現在の市域となっている。平成17(2005)年3月には、平成の大
意宇杜合併により、5町1村と合併し、人口211,500人、面積572平方キロメートルの
県都に生まれ変わる予定である。
この間、昭和26(1951)年には、松江国際文化観光都市建設法が制定され、奈良市、
京都市と並んで国際文化観光都市に指定された。ここにも小泉八雲が松江の水と緑の美し
さを賞賛し、世界に情報発信した成果がうかがわれる。
昭和40(1965)年には、松江市市民憲章が制定されたが、第1項に「きれいな水とみ
どりにいろどられた美しいまちにしましょう。」と謳われている。小泉八雲の意志を継いで、
その後も、水と緑が調和したまち「松江」のまちづくりが今日まで連綿として進められて
いる。
3, 古事記、出雲風土記の時代から受け継いだ緑
松江市のある出雲地方は、古事記にも多くの記述があるように、古代出雲文化圏を形成
し、古墳や神社などの多くの歴史的遺産が残されている。スサノオノミコトがヤマタノオ
ロチを退治する話は、古事記に書き残された出雲を舞台とする一大神話である。
松江市の郊外には、スサノオノミコトがまつられている八重垣神社があり、境内地の背後
には、スギの巨木やヤブツバキなどが生い茂っている小さな森がある。その森の中には水
が枯れることなくわき出ている「鏡の池」があり、恋占いや良縁を祈る若者の参拝が絶え
ない。小泉八雲は、八重垣神社の参拝を紀行文として残しており、この森を聖なる森と崇
めている。
森は、古くから「佐久佐女(さくさめ)の森」と名付けられ、大切にされてきた。神話
の時代からの守り育てられた森が、現代の「松江市緑のマスタープラン」にも重要な緑として位置づけられている。
天平5(733)年に編纂されたといわれている「出雲風土記」は、唯一編纂年代がわかっている完本の風土記である。その中に、都市のシンボルツリー原点となる森の記述があり、現在もその小さな森が「意宇杜(おうのもり)」として、残されている。
出雲風土記の一大叙事詩である「国引きの神話」では、国引きを終えた神が、杖を立てて「おえ」と国造りの完了を宣言する。今でも、大きなプロジェクトが完成すると記念樹を植栽する。この意宇杜(おうのもり)は、日本の記念植樹の事始めであろう。
現在の意宇杜(おうのもり)は、かつてそびえ立っていたタブノキが風雪で倒れ、小さ
な樹林となってしまっている。しかし、出雲国庁の遺跡が点在する松江市郊外に2000
年近い歴史ある杜は、地域住民の手で守り、受け継がれており、いつかは大木として蘇る
と期待される。
昭和41(1966)年から、意宇杜(おうのもり)周辺で出雲国庁跡の発掘が始まり、昭
和46(1971)年には、これらの遺跡が国指定の史跡に指定された。このような経過を受
けて、古代出雲文化を引き継いだ文化遺産の保存展示を求める県民のニーズが大きな高ま
りを見せた。
風土記植物園
東京銀座の出雲ツバキ
そのため、古代を偲ぶ古墳公園として、市民の憩いの場として、さらには、歴史を学ぶ
場として、昭和47(1972)年に「八雲立つ風土記の丘」が開園された。公園面積は、4.4ヘクタールとなっており、園内には島根県内では最大規模の古墳「二子塚古墳」があり、新たな歴史景観と21世紀に引き継がれる美しい緑が創出された。
「八雲立つ」とは、出雲にかかる枕詞であり、出雲風土記のはじめに出雲と名付けた所以と記されている。ラフカディオ・ハーンの日本名「小泉八雲」の名もこれにちなんでいる。この
「八雲立つ風土記の丘」には、出雲風土記に記されている植物を植栽展示し、風土記の時代の自然と人間生活の関わりを学ぶことができる「風土記植物
園」が併設されている。
4, 出雲発東京銀座の修景緑化
先に述べた八重垣神社の門前にあるツバキは、縁結びのツバキとして有名である。小泉八雲も八重垣神社の紀行文の中で、「なお、一つ見ておくべきもの」として、このツバキを紹介している。
推定の樹齢は400年を超えるといわれている、ご神木である。このツバキは、根元付
近で、2本の幹が合体している。また、時として葉脈が二つに分かれる連理葉を生ずることもあり、「連理玉椿」としてあがめられている。
また、ツバキは、松江市の「市の花」に選定されている。古く藩政の時代から椿油を殖産産業として市民生活と密接に結ばれるとともに、連理玉椿や松江城山公園内の椿谷、大名茶人「松平不昧公」の茶道における茶花として、市民に親しまれていることから、昭和49(1974)年に市の木「松」と併せて選定されたものである。
東京銀座は、徳川幕府が慶長8年から海岸埋め立て造成したまちである。松江藩が、今の銀座七丁目から八丁目付近を普請けしたことから、その地は出雲町と名付けら、通りは出雲通りと呼ばれていた。明治5(1915)年その地に花椿を商標とした化粧品会社が創業された。その椿の商標は、松江の八重垣神社の玉椿をモチーフにしたといわれ、出雲通りには出雲椿の街路樹があったことから、近年は旧出雲町界隈の通りが「花椿通り」と呼ばれるようになっていた。
平成5(1993)年、歩道の改修に伴い、再び出雲椿を銀座花椿通りに植栽することとなった。東京で最もにぎわいのある銀座の街路樹として、東京の修景緑化に出雲椿が寄与している。小泉八雲の言う「神々の国の首都」から日本の国の首都に緑が送られたのである。
5, 松江市の都市公園づくり
湖畔公園の夕日
雲と夕日が絵巻物のように変化。小泉八雲の描写のうまさにより「日本
三大夕日」の一つに。
明治の松江城と桜
松江市における都市公園の始まりは、昭和32(1957)年3月に城山公園、嫁が島公園及び北公園(当時は北運動公園といった。)の開園である。それまでも市民の憩いの場としての公園はあったが、都市公園として位置づけられたのは、これが最初である。
その後、昭和34(1959)年3月には、小泉八雲が湖に沈む夕日を絶賛した宍道湖湖畔に末次公園および白潟公園が開設された。
昭和40(1965)年12月には、松江国際文化観光都市建設計画
公園事業として、江戸時代からの苑地である楽山を公園として再整備が始められ、この頃から市民のあいだで体力増強の気運が高まったことから、楽山公園内に松江市の公園では初めてのテニスコートが設けられた。
昭和46(1971)年12月には市民のレクリエーションの場として、また、体育向上に寄与するため、松江総合運動公園が都市計画決定され、大規模な公園づくりが本格化した。
平成の時代に入り、機能性や効率性を追い求めていた昭和の終わ
りの反省から、潤いややすらぎ、快適性を求める声が高まり、小泉八雲が絶賛した宍道湖の景観を守る県民運動が起こった。そのため、島根県では、平成3(1991)年に「ふるさと島根の景観づくり条例」を定めた。宍道湖の景観を生かしたまちづくりとして、市内の河川や松江城の周辺に巡らされた堀の水と緑のネットワークづくりが開始された。
神々の国の首都と称せられる松江の緑豊かなまちづくりは、時代の要請を機敏に察知し、
市民の協力と理解を得て、日々進められている。
6, 江戸時代からの緑の継承
・城山公園
宍道湖の北、標高28メートルの亀田山に松江城が立っている。この城は、関ヶ原の戦
いで手柄を立てた堀尾吉晴が、慶長1 2(1607)年から5年の歳月を経て建設したも
のである。鳥が羽を広げたように美しいことから別名千鳥城と呼ばれ、天守閣の最上階か
らは松江の景色が一望できる。明治維新後、最後の藩主松平定安が島根県に譲渡されたが、明治23(1890)年には再び旧藩主松平家に払い下げられたが、昭和2(1927)年に松平
家から松江市に寄付されたものである。
写真でもわかるように明治の終わりには、桜が植えられ、市民の憩いの場となっていた
ようである。桜の名所としての城山公園は、平成の今日まで引き継がれており、平成2年
(1990)年には、日本さくらの会により「日本さくら名所100選」に選定された。これ
は、毎年桜の咲く4月には、毎年「お城まつり」が開催され、桜の花の下でのお茶会や安来節新人コンクールや郷土芸能などの各種イベントで賑わっている。
城山公園が正式に都市公園として位置づけられたのは、昭和27(1952)年3月に都市計画決定してからであり、昭和31(1956)年に歴史公園として供用開始した。
・楽山公園
楽山公園は、江戸時代の松江藩主松平家の別邸として整備された林泉苑地を都市公園としたものである。
江戸時代の楽山は、藩の公称「御立山」通称「お山」と呼ばれた。寛文元年に二代目藩主綱隆が整備したもので、弁財天の祠を配した小島に修景を施した弁天池を中心に、天満宮など数社を祀り、御茶屋を設けた。山内には、このほか馬場、弓場、鷹場、薬草園、花
畑等を配置した。この苑地は、論語の「知者楽水、仁者楽山」からの雅名を「楽山臨水」とし、茶室である御茶屋に「楽山御茶屋」「臨水御茶屋」と称した。
今日残る各地の藩主別邸は、参勤交代で江戸を往復する中で、江戸の大庭園に刺激され、
回遊式庭園を造成するなど人工的な造園を施したものが多いが、楽山は、自然林の美しさ
を取り入れた自然風致苑であった。公称「御立山」とは、「お留山(おとめやま)」であり、
現代の風致保安林のように伐採を制限し、御立山奉行が森林の管理に当たったと言われて
いる。
楽山は、藩主の別邸であり、通常は一般には公開されていなかったが、
苑地内の社寺の縁日など特定の日には一般に開放され、多くの行楽客で
にぎわったという。さらには、楽山内の各茶屋は藩主専用のものであったが、苑内の神社の参道には、一般庶民の飲楽の場として御茶屋を設け、門前町として整備されており、現代
のテーマパークの様相を呈していたと思われる。
明治維新後は、御茶屋も撤去され、社寺も移転した。楽山の荒廃を惜しむ地域住民は、松平家に協力し「楽山保勝会」を組織し、維持管理に努めていたが、昭和13(1938)年に松平家から地元の川津村に寄付され、楽山公園として、市民憩いの場となった。都市公園としての位置づけは、さらに月日を要し、昭和32(1957)年3月に松江城山公園に次ぐ二番目の都市公園として、都市計画決定がなされ、昭和41(1966)年に都市公園として供用開始している。21ヘクタールの面積を誇る総合公園として、市民憩いの場となっている。
国体開催時の運動公園
岡本太郎作「神話」
日本の都市公園の始まりが、明治6(1873)年の太政官布告による公園の設置であるが、
最初に指定されたのは、当時庶民の物見遊山の場であった東京の浅草や飛鳥山であったこ
とを考えると、松江の楽山は、都市公園指定が遅れたとはいえ、明治のはじめから公園の
体をなしていたものと思われ、文化的景観としての偉大な遺産と言えるものである。
6,スポーツの祭典「くにびき国体」の開催と公園づくり昭和57(1982)年島根県で第37回国民体育大会が開催されることが決定した。昭和40年代後半から、島根県内で
は、県民のスポーツへの関心が高まり、各都市では野球場等の運動施設を中心とした運動公園の整備が始まっていたが、この国体開催が決定されたことから一挙に運動公園の整備
が促進された。
県庁所在地である松江市では、国体の開会式を挙行できる運動公園の整備が急務の課題となった。
そのため、昭和48(1973)年12月に松江総合運動公園が国体の主会場となるべく都市計画決定され、本格的な運動公園としての整備が着手された。昭和51年(1976)年に野球場を中心に開園された。引き続き陸上競技場等の整備を進め、昭和57(1982)年の「くにびき国体」では、主会場として「このふれあいが未来をひらく」をスローガンに盛大な開会式が挙行された。
運動公園の中央広場には、島根県とのゆかりの深い芸術家である岡本太郎が制作したモニュメントが設置された。全国から「神々の国の首都」松江にやってきた多くのスポーツマンを迎えた高さ6メートルのモニュメントは、「神話」と名付けられた。20世紀にできた新しい「神話」を小泉八雲が見たらなんと表現しただろうか。
この運動公園は、今でも市民の健康とふれあいの場として利用されているだけでなく、
多くのスポーツ大会が開催され、松江市活性化の拠点の一つとして活用されている。
くにびき国体から約20年経過した平成16(2004)年には、全国高校総合体育大会が
島根県を中心に開催されることとなり、平成15(2003)年度には50メートルプールや
温水プールを持つ中国地方でも有数の県立プールや全天候型のテニスコート等が建設され
るなど、運動公園としての施設の充実が図られている。
7,宍道湖を巡る水と緑のネットワーク「水の都松江」
松江は水の都と称されるように、日本で6番目の大きさを誇る宍道湖に面し、中心市街
地には、大橋川や天神川が流れ、松江城を取り巻くように松江堀川が水をたたえている。
かつては、どぶ川と化していた松江堀川も周辺の下水道の整備を集中的に行い、また、
平成6(1994)年から清流ルネッサンス21事業を実施したことにより、大幅に水質改善
され、松江堀川本来の姿を取り戻した。
県庁庭園と松江城
日本の代表的庭園家重森完途作
松江堀川の浄化にあわせ、水辺の植栽を進めるなど修景緑化を進め、平成9(1997)年
度から松江城周辺の堀川を巡る「堀川遊覧船」が就航した。年間利用者数は30万人を超
え、まちの緑と水を活かしたまちづくりが、大きな観光資源とている。
小泉八雲が絶賛した宍道湖の夕日を鑑賞するベストスポットには、松江湖畔公園が整備
されている。この公園は、昭和34年開園した都市公園であり、城山公園に次いで古い公
園として、市民だけでなく、観光客も多く訪れていた。
公園の一角には、平成11(1999)年に島根県立美術館が開館した。この美術館は、水
をテーマにしたコレクションで名高いだけでなく、夕日の美術館として、日没の変化にあ
わせ閉館時間を変えるなど、ユニークな運営で利用者からの支持が高い施設である。美術
館の開館にあわせ、公園の再整備をはかり、治水を担当する国土交通省、都市公園を整備
する松江市および美術館を建設する島根県の連携のもとに、水辺とふれあい、水と緑が調
和した湖畔公園として開園した。また、宍道湖の北岸には、アール・ヌーヴォー様式のル
イス・ティファニー庭園美術館が開園するなど、宍道湖周辺の公園化が進んでいる。
8,松江市・緑豊かな景観の継承と展望
松江市の緑の基本計画によると「松江市の緑としては、宍道湖や大橋川の水、
郊外の緑や都市内の先人たちから引き継いだ城山や楽山の緑などがあり、全体と
しては、水と緑の自然環境に恵まれた都市である。」と述べられている。都市公園
の整備では、平成15(2003)年度末で一人あたりの公園面積11.6平方メー
トルと全国平均を上回っている。
しかし、松江市の全景写真を見てわかるとおり、城山公園や楽山公園などの歴史的遺産
と松江総合運動公園などの郊外の大規模な都市公園に負うところが大きく、市街地の緑が
少ないのが実態である。
松江堀川の周辺では、水と緑のネットワークづくりが始まり、街路樹やポケットパークなど町の中心部にも緑が整備され始めた。
これら、松江市街の緑豊かな景観を守り育てるためには、市民参加が不可欠であるということから、松江のまちなかの緑について考え、実践していく「グリーンフィンガー倶楽部」が結成された。
市民参加型の文化景観の育成は、21世紀の松江を緑豊かなまちとするための、大きな力となると思われる。
歴史が培った文化的景観を守り育てることは、小泉八雲が「神々の首都」と賞賛した「新しい八雲立つ出雲のくにづくり」に他ならない。