難病の孫たちの未来へ…祖父の決意 福岡市の末永さん一家 重い障害者向けの施設開設へ奔走
2019年5月29日 (水)配信西日本新聞
9年前、長女が初めて授かった子は、約1万人に1人といわれる子どもの難病だった。正直、最初は諦めかけた小さな命。だが身を削るように、わが子へ一心に愛情を注ぐ娘夫婦の姿に、建設会社会長の末永和之さん(76)=福岡市城南区=は目が覚めたような気がした。「孫のため、同じような子どもたちのために、自分も役に立てるかなあ、と思うてね」。目指すのは、重い障害者を支える福祉施設の開設だ。孫の優衣奈さん(9)を中心に、気が付けば家族の結束は、しっかりと強まっている。
優衣奈さんは生まれつき、脳の形成不全がある小児慢性特定疾病の「全前脳胞症」。口唇口蓋裂もあった。長女の東麻衣子さん(39)と夫の亮二さん(39)が診断を告げられたのは、出産が近づいてから。重症なら生存率は高くないと伝え聞いた和之さんは、重い障害の子を抱える苦労を想像し、首を振った。「重症なら、延命措置は諦めてもいい」とさえ考えた。
麻衣子さんは福岡市内の病院で3日かけて無事出産したが、病室で待機していた和之さんは看護師から会うよう勧められても「体が動かんやった」。妻の雅子さん(74)は娘と孫の元に向かった。どんな状態か、とにかく心配だった。涙ぐんで部屋に着き、目に飛び込んできたのは、ベッドの上でニコニコして優衣奈さんを抱く麻衣子さんの姿。2925グラムで生まれ、手も足も元気に動かしていた。
「お母さん、見て。かわいいやろ?」。黙って横に座る雅子さんに、麻衣子さんは続けた。「かわいいやろ? 私ね、お母さんにいっぱい迷惑掛けると思うけど、もう、一生懸命育てるから、力を貸して」…。
「甘やかして育ててきた」娘がもう、すっかり母の顔になっていた。「そうか。一生懸命育てればいいんだ。麻衣子と一緒に、頑張ればいいんだ」。雅子さんの心は落ち着いていった。
当時、亮二さんは広島市の自動車メーカーに勤務。麻衣子さんは、いったん退院した後も頭の手術をするなど入退院を繰り返した優衣奈さんが2歳半になってから、ようやく亮二さんの元に帰った。でも、胃ろうからの栄養注入は日に十数回。てんかんも多く、たんの吸引はひっきりなし。麻衣子さんは1時間も続けて寝られない。訪問看護も十分ではなかった。近くで頼れる大人は夫しかおらず、1年半後、やむなく娘と2人、実家に戻った。
なるべく両親に負担を掛けまいと、麻衣子さんはほぼ1人で世話をした。「自分が倒れたらまずい」と考え、食事の量も増えた。
和之さんには、娘が心を病んでいるように映った。重い障害児がいる親が離婚したり、子が40歳を超えても1人で育てている母親がいたりすることも耳にしていた。「こんな大変なことが世の中にあるのか」。がくぜんとした。
世話をする大人が倒れていなくなったら、孫はどうなるんだろう‐。娘たちを主に食事面で支え続けた雅子さんもずっと、もやもやした思いが消えなかった。
そして5年前。亮二さんが仕事を辞め、妻子の元で暮らすことを決意する。「福祉の勉強をして、将来的に、優衣奈のような子どもたちのためになる場所を立ち上げたいんです」。亮二さんから、そんな相談を受けた雅子さんは思わず、和之さんの袖を引いた。
「お父さん、この家を売ってでも、この人の仕事をする場所をつくろう」
和之さんも腹を決めた。建設会社を経営して十数年。会社に協力を求め、人脈も生かして、娘一家をバックアップしよう、と。
それから亮二さんは短大に2年通い、介護福祉士資格を取得。地元で重症児者を預かる施設に勤めた後、和之さんの会社に入った。
計画では同社が来年、放課後等デイサービス、児童発達支援、生活介護、短期入所、日中一時支援を手掛ける重い障害者向けの施設を同市早良区に開設する考え。現在はほぼない18歳以上も対象とする。亮二さんは「娘の将来の行き先をつくりたい。幼児から大人まで、一貫して支えられる場所にしたい」。麻衣子さんも「保護者が安心して預け、子どもも遊びに行きたいと思える場所に」と願う。
「娘たちの家族愛を間近で見て、この夫婦なら信頼できるし、会社にも応援してくれと言えた」と和之さん。事業が軌道に乗るまで支え、最終的には「優衣奈の将来のためにも」2人に独立してもらうつもりだ。
優衣奈さんが小学生になる年、雅子さんは紙に詩を書いた。「小さな体に大きな痛みをもって生まれたあなたを、私たちは全力で守ろうと思った。今、大きな瞳で時に声を出して笑うあなたに、私たちは生かされている」。枕元に置き、今も寝る前に読み返している。
2019年5月29日 (水)配信西日本新聞
9年前、長女が初めて授かった子は、約1万人に1人といわれる子どもの難病だった。正直、最初は諦めかけた小さな命。だが身を削るように、わが子へ一心に愛情を注ぐ娘夫婦の姿に、建設会社会長の末永和之さん(76)=福岡市城南区=は目が覚めたような気がした。「孫のため、同じような子どもたちのために、自分も役に立てるかなあ、と思うてね」。目指すのは、重い障害者を支える福祉施設の開設だ。孫の優衣奈さん(9)を中心に、気が付けば家族の結束は、しっかりと強まっている。
優衣奈さんは生まれつき、脳の形成不全がある小児慢性特定疾病の「全前脳胞症」。口唇口蓋裂もあった。長女の東麻衣子さん(39)と夫の亮二さん(39)が診断を告げられたのは、出産が近づいてから。重症なら生存率は高くないと伝え聞いた和之さんは、重い障害の子を抱える苦労を想像し、首を振った。「重症なら、延命措置は諦めてもいい」とさえ考えた。
麻衣子さんは福岡市内の病院で3日かけて無事出産したが、病室で待機していた和之さんは看護師から会うよう勧められても「体が動かんやった」。妻の雅子さん(74)は娘と孫の元に向かった。どんな状態か、とにかく心配だった。涙ぐんで部屋に着き、目に飛び込んできたのは、ベッドの上でニコニコして優衣奈さんを抱く麻衣子さんの姿。2925グラムで生まれ、手も足も元気に動かしていた。
「お母さん、見て。かわいいやろ?」。黙って横に座る雅子さんに、麻衣子さんは続けた。「かわいいやろ? 私ね、お母さんにいっぱい迷惑掛けると思うけど、もう、一生懸命育てるから、力を貸して」…。
「甘やかして育ててきた」娘がもう、すっかり母の顔になっていた。「そうか。一生懸命育てればいいんだ。麻衣子と一緒に、頑張ればいいんだ」。雅子さんの心は落ち着いていった。
当時、亮二さんは広島市の自動車メーカーに勤務。麻衣子さんは、いったん退院した後も頭の手術をするなど入退院を繰り返した優衣奈さんが2歳半になってから、ようやく亮二さんの元に帰った。でも、胃ろうからの栄養注入は日に十数回。てんかんも多く、たんの吸引はひっきりなし。麻衣子さんは1時間も続けて寝られない。訪問看護も十分ではなかった。近くで頼れる大人は夫しかおらず、1年半後、やむなく娘と2人、実家に戻った。
なるべく両親に負担を掛けまいと、麻衣子さんはほぼ1人で世話をした。「自分が倒れたらまずい」と考え、食事の量も増えた。
和之さんには、娘が心を病んでいるように映った。重い障害児がいる親が離婚したり、子が40歳を超えても1人で育てている母親がいたりすることも耳にしていた。「こんな大変なことが世の中にあるのか」。がくぜんとした。
世話をする大人が倒れていなくなったら、孫はどうなるんだろう‐。娘たちを主に食事面で支え続けた雅子さんもずっと、もやもやした思いが消えなかった。
そして5年前。亮二さんが仕事を辞め、妻子の元で暮らすことを決意する。「福祉の勉強をして、将来的に、優衣奈のような子どもたちのためになる場所を立ち上げたいんです」。亮二さんから、そんな相談を受けた雅子さんは思わず、和之さんの袖を引いた。
「お父さん、この家を売ってでも、この人の仕事をする場所をつくろう」
和之さんも腹を決めた。建設会社を経営して十数年。会社に協力を求め、人脈も生かして、娘一家をバックアップしよう、と。
それから亮二さんは短大に2年通い、介護福祉士資格を取得。地元で重症児者を預かる施設に勤めた後、和之さんの会社に入った。
計画では同社が来年、放課後等デイサービス、児童発達支援、生活介護、短期入所、日中一時支援を手掛ける重い障害者向けの施設を同市早良区に開設する考え。現在はほぼない18歳以上も対象とする。亮二さんは「娘の将来の行き先をつくりたい。幼児から大人まで、一貫して支えられる場所にしたい」。麻衣子さんも「保護者が安心して預け、子どもも遊びに行きたいと思える場所に」と願う。
「娘たちの家族愛を間近で見て、この夫婦なら信頼できるし、会社にも応援してくれと言えた」と和之さん。事業が軌道に乗るまで支え、最終的には「優衣奈の将来のためにも」2人に独立してもらうつもりだ。
優衣奈さんが小学生になる年、雅子さんは紙に詩を書いた。「小さな体に大きな痛みをもって生まれたあなたを、私たちは全力で守ろうと思った。今、大きな瞳で時に声を出して笑うあなたに、私たちは生かされている」。枕元に置き、今も寝る前に読み返している。
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