リンク先の記者がなかなかよいことを書いている。さすがに元々の放送局の,というところであり,その通り
だ。

「身の丈にあった」の何がおかしいのだろうか
偽善が通る世の中でないことは,僕は中学生のときには知っていた。偏差値という基準で「身の丈」を思い切り知らされたものだ。

しかし,偏差値も身の丈も,ともに「尺度」でしかない。尺度なくして実力を他と比較することなどできない。バス釣り大会ではないので,「みんな同じ土俵で」闘うことができない以上,必要なのは「数学的に正しい偏差値」であり,ともなう「身の丈を知る」体感だろう

野党の非難は,「共通テストへの英語民間試験導入の是非」であるべきなのに,見事に萩生田大臣非難にすり替わっている。これでは,萩生田大臣をスケープゴートにして,ことの本質「共通テストへの英語民間試験導入の是非」が語られない
。

とはいっても,現実には「民間試験を採用しない」大学も多くある。つまりは「身の丈にあって」大学を選べるのだ。そもそも,現在は受験人口より大学入学定員が多いので,理屈では「全入時代」だが,身の丈にあった選択をして大学進学率は5割とちょっと,というわけである。
萩生田大臣の発言そのものは,自分はまさしく当日TVを見ていた。ああ,なるほどちょっと気分が高揚しすぎているかなとは思ったが,彼の文部科学行政への熱意自体は感じられたし,特段不快でもなかった。
繰り返しになるが,このニュースは「萩生田大臣をイジメてスケープゴートにする」だけでしかない。
格差社会というが,僕の少年時代の1970年代からずっとある。小学校では「クルマのある家庭」「個室のある家庭」「六畳一間に3人が暮らす家族」を実際に見てきたし,子供ながらに「ああ,お金があるんだな」と思っていた。ズバリ格差社会であり,大学に行っても「親の金でクルマを買ってもらう」なんて人も居たわけである。
いまに始まった問題ではない格差。格差には,単に是正するよりも正しい認識が必要。そして正しい認識による改善への具体的な行動と方策が必須である。しかし,これも綺麗事でしかないと思う
。書いた自分が空々しい
。


野党の「非難」にばかり同意していると「批判」できないオトナになってしまう,と高校生諸君に伝えたい日々である
。
