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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県みやこ町豊津 ・ 社会主義運動の先駆者 「 堺 利彦顕彰碑 」

2013-09-15 00:05:50 | 文学・文化・映画作品






 「 母と共に花しほらしの
         若草の千ぶり摘みし
                故郷の野よ 」

                   とし彦











福岡県京都郡みやこ町 ( 旧豊津町 ) の中心街を走る県道沿いに、
社会主義運動や女性解放思想の先駆者であった堺利彦の顕彰碑がある。

堺は誰よりも故郷・豊津を愛し続けた。
その熾烈な望郷の想いは、尾崎紅葉が激賞した出世作の 『 故郷台 』 や
『 豊津中学の新学風 』 『故郷の七日』 『 土蜘蛛旅行 』
『 故郷のあこがれ 』 『 帰郷雑筆 』 などに綴られている。

望郷作品の最高作は、大正13年から 「 改造 」 に連載された 『 堺 利彦伝 』 であろう。
社会主義者となる以前の豊津での幼少期から大阪での文士生活や福岡日日新聞 ( 現・西日本新聞 ) 記者。
さらに毛利家歴史編纂時代を回想した半生記で、豊津の記述はかなりのウェートを占めている。

「 元は藩学育徳館、私の入った時は県立豊津中学校。
臺ヶ原 ( だいがはる ) という平野の一隅にある建物で・・・ 」 と、その様子が書かれている。


堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(明治3年11月25日) - 1933年(昭和8年)1月23日)は、
日本の社会主義者・思想家・歴史家・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚渋六。

没落士族の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂
( 現在の福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂 ) に生まれる。
豊津中学校 ( 現・育徳館高校 ) を首席で卒業。
上京後、進学予備校であった共立学校 ( 現 開成中高 ) にて受験英語を学び、
第一高等中学校入学。学費滞納により一高から除籍処分を受けたのち、
大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら、文学の世界で身を立てるべく小説の執筆を始める。
その後、同郷の末松謙澄に招かれて東京に設けられた毛利家編輯所で 『 防長回天史 』 の編纂に従事し、
同僚の山路愛山らと親交を深める。

その後 『 萬朝報 』 の記者として活躍し、社会改良を主張する論説や言文一致体の普及を図る一方で、
社主の黒岩涙香、同僚の内村鑑三、幸徳秋水らと理想団を結成。
この時期に社会主義思想に共鳴し、非戦論を唱える。しかし 『 萬朝報 』 は、
日露戦争に際し主戦論に路線転換したため、内村鑑三、幸徳秋水とともに退社。
平民社を開業して週刊 『 平民新聞 』 を発行、非戦論・社会主義の運動を開始する。
週刊『平民新聞』第53号(1904年11月13日)に幸徳との共訳で 『 共産党宣言 』 を翻訳して掲載した。
これは、サミュエル・ムーア訳の英語訳からの重訳であったが、
日本における最初の 『 共産党宣言 』 の翻訳であった。

1905年に社会主義機関誌 『 直言 』 にエスペラントに関する記事を掲載。
その後、1906年に発足した日本エスペラント協会の評議員に就任した。

1906年に日本社会党を結成して評議員となり、日本の社会主義運動の指導者として活躍をはじめる。
1908年の赤旗事件により2年の重禁固刑を受け、その入獄中に「大逆事件(幸徳事件)」が起こるが、
獄中にいたため連座を免れて出獄。
社会主義のいわゆる「冬の時代」は、売文社を設立して雑誌『へちまの花』、
次いでその後継誌『新社会』の編集・発行をはじめとする事業をおこなって生活の糧とするとともに、
全国の社会主義者との連絡を維持した。
1920年には日本社会主義同盟が結成されるが翌年に禁止されてしまう。

1922年、日本共産党(第一次共産党)の結成に山川均、荒畑寒村らとともに参加するものの、
山川らに同調して共産党を離脱、後に労農派に与する。
その後東京無産党を結成して活動を続け、1929年に東京市会議員に当選した。

数多くの翻訳を通じて、欧米の社会主義思想、社会運動やロシア革命の動向、
ユートピア文学をはじめとする西洋文学の紹介につとめた。

1932年の6月頃発狂し、翌月には家庭内暴力を起して
青山脳病院(現・東京都立小児総合医療センター)に入院した
翌年の1月に脳溢血で死去(享年64)。

婦人運動家で社会大衆婦人同盟書記長・婦人有権者同盟会長を歴任した近藤真柄は長女。




沖縄県国頭村 「 辺土名港沖防波堤灯台 」

2013-09-15 00:03:36 | 沖縄の灯台



灯質が単閃緑光で毎3秒に1閃光








地上から頂部までの高さが5.6mの灯台







辺土名港の沖にある防波堤







防波堤から望む辺土名港





灯台表番号 / 6982.8
ふりがな / へんとなこうおきぼうはていとうだい
標識名称 / 辺土名港沖防波堤灯台
所在地 / 沖縄県国頭郡国頭村(辺土名港沖防波堤外端)
北緯  / 26-45-02 
東経  / 128-10-41 
塗色 / 白色
灯質 / 単閃緑光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度 78カンデラ
光達距離 / 5.0海里
地上~頂部の高さ / 5.6m
平均水面上~灯火の高さ / 10m
地上~灯火の高さ / 5.35m
業務開始年月日 / 平成3年3月27日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)


辺土名港沖防波堤灯台は、沖縄県の北部に位置する国頭村の辺土名港沖の防波堤に立つ灯台である。
名護の仲尾次から大宜味、辺戸岬までの58号線沿いにある唯一の防波堤灯台で、
沖の防波堤は内防波堤から150mほど沖に設置された防波堤であるため近くに見えるが
上堤するには渡船が必要となる。灯台は平均水面から灯火までの高さが約10mで、
光達距離は5.0海里となっている。
初点は平成3年3月27日と意外と新しい灯台である。


辺土名港沖防波堤灯台へのアクセス
辺土名港沖防波堤灯台へは、国道58号線を名護から大宜味を通り道なりに15キロほど進むと、
左側にオクマビーチが見える。そこから1.5キロほど行くと辺土名商店街がある。
そこを左に入って行ったところに辺土名港がある。
駐車は防波堤の入り口近くの広くなった場所に駐車した。



競馬 ・ 点描 「 独 走 」

2013-09-15 00:00:56 | 競馬・ボート







前を走る馬もいなければ
後ろから追って来る馬もいない

だけど
ひたすら
ゴールを目指す