城が石垣からせり出しているのは城壁を登って来る敵を落石によって防ぐため
花崗岩の自然石を穴太積みで築かれた本丸南側の石垣
この堀の中から当時の瓦などが出土している
「 輪どり 」 の技法で積まれた本丸南側入り口
Yより右が黒田時代の石積み、左が細川時代の石積み
今から約四〇〇年前の黒田時代の石積み
上と同じように約四〇〇年前の黒田時代の石積み
現在の中津城は戦後、昭和39年に建てられたもので、
5層になっているが、本来の中津城は位置的にも城井神社辺りにあり、
3層式で天守閣もなかったと言われている。
そういった意味からも現在の中津城は歴史的価値はないが、
黒田時代の穴太積みの石垣については400年の歴史があるので、
時間のある方は是非とも見ていただきたい。
黒田が中津に居た期間は13年と短かったこともあり、
そんなに大掛かりな城ではなかったと思われる。
当時の人間にしては180センチの大きな身体で、
怪力だったと言われる宇都宮鎮房は、
人が引けないほどの弓をその怪力でいとも簡単に引き、
弓の名手でもあったとも言われている。
骨格風貌からも頼りにされ、家臣や平民からも慕われていた。
そんな宇都宮鎮房を謀殺したことにより、
黒田長政は、夜な夜な鎮房の亡霊に悩まされたという。
黒田にしてみれば、秀吉に切腹を命じられた肥後の佐々成政の件があり、
宇都宮を生かしておけば自分が佐々の二の舞いになることを
恐れたのであろう。
宇都宮鎮房が城を構えた寒田地区では、
毎年、鎮房父子の命日には、老若男女すべてが宇都宮の古城跡に集まり、
鎮房父子の怨魂を悼んで、それぞれが野イバラの花を持ち、
これを地に挿し、異口同音に黒田家を断絶せんと呪った。
その声は悽愴として、鬼気に迫り、
見るものも聞くものも、思わず戦慄せざるを得ない光景であった。
この風習が二〇〇年あまりも続いて、
かつて一度も中断されたことがないという。
それは、福沢諭吉を刮目させ、福本日南が驚愕し、
司馬遼太郎が注目した呪いの儀式、いわゆる呪詛の時空である。