


流刑地の近くにある 「 小宿中学校 」
薩摩藩の上級藩士だった名越左源太は、
嘉永3年(1850年)、藩主・島津斉興の後継者問題を巡るお家騒動
「お由羅騒動」では斉彬擁立派に加わり連座して
奄美大島へ遠島に処せられた。
同年4月29日に上陸した彼は小宿村(現・名瀬市小宿)に居を定め、
流人として身を慎む生活を送る。
将来を悲観して身を持ち崩す流人も多い中で彼は武芸の鍛錬に励み、
島の子弟に読み書きを教える中で地域に受け入れられ、
島民との交流を深めていく。
嘉永5年(1852年)には配流中の身ながら薩摩藩の嶋中絵図書調方を命ぜられ、
代官所が所蔵する記録文書の閲覧も可能になる。
安政2年(1855年)に薩摩に帰還するまでの5年間、
島内の動植物や農耕儀礼、
冠婚葬祭から伝説に至るまで奄美大島の風土をつぶさに観察し、
詳細な図入りの地誌をしたためた。
現在、彼が著した奄美大島の地誌を総称して 「 南島雑話 」 と呼ぶ。
幕末期の奄美大島における第一級の民俗誌として評価されている。
薬学の探訪で奄美に派遣されていた伊藤助左衛門に依る部分が大きく、
あるいは伊藤の現本の写本から構成されていると推定される。
名越左源太が作成した奄美大島の地誌には『大嶹竊覧(だいとうせつらん)』、
『大嶹便覧(だいとうびんらん)』、『大嶹漫筆(だいとうまんぴつ)』、
『南島雑記』、『南島雑話』の計5冊があり、
現在ではこれらを総称して『南島雑話』と呼ぶ。
総称を『南島雑話』と命名したのは、
鹿児島高等農林学校(現在の鹿児島大学農学部)教授・小出満二(こいで まんじ)である。