腹切り岩の奥にある 「 恵利暢堯夫妻殉節之碑 」
腹切り岩
朝倉市秋月に 「 腹切り岩物語 」 という伝説がある。
「 天正15年 ( 1587年 ) 3月、秀吉は京都を発って九州平定の途に上る。
時に秋月氏は第16代秋月種実で、彼は島津義久と同盟し、
九州勢の第一線として秀吉軍を迎え撃つが、
北九州随一の堅城を誇った岩石城をわずか一日の戦いで攻め落とされて降伏する。
・・・これより先、種実の重臣の一人、恵利内蔵助は、
秀吉勢の強大なことは、秋月勢の到底抗しきれるものではないことを覚り、
戦わずに和を結ぶことを進言するが、種実の理解を得られず、
却って怒りを買い、ついには自刃して果てるという悲劇に終わっている 」
この自刃したところが 「 腹切り岩 」 と言われる。
水木ひろかずは、恵利内蔵助の子孫であり、
『 秋月史考 』 『 物語秋月史 』 や高鍋藩 『 本藩実録 』 などの
資料を紐解くうち、この物語に史実と異なる部分があることを知った。
『 秋月悲話 ー 史実と巷説と伝承 ー 』 は、
いくつかの説が残る内蔵助の出自や自害の真相を追求し、
一本にまとめたものである。
「 腹切り岩 」 は、3つの巨岩で、
中央の岩には昭和11年 ( 1936年 ) 内蔵助ゆかりの人々によって、
「 恵利暢堯夫妻殉節之碑 」 が建てられた。
秀吉勢に屈した秋月種実は、それまでの筑前、筑後、豊前の三か国を失い、
宮崎の高鍋藩三万石に移された。
その後、秋月には黒田長興が居城を置いた。
そんな秋月城跡には県の有形文化財の黒門と長屋門とが残っており、
秋には紅葉が美しく、観光の名所となっている。