「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

長崎県新上五島町 「 継子瀬 ( ままこせ ) 灯台 」

2018-01-14 16:11:07 | 長崎の灯台


























丸尾郷 ( 丸尾漁港からの遠望 )








有川郷 ( 平串埼からの遠望 )






上五島の有川港から佐世保や長崎に向かうと、
左手に岩の上に立つ継子瀬灯台が見える
陸地からだと丸尾港や有川の平串埼からの遠望になるが、
船からだと近くで見ることが出来る。


灯台表番号 / 6120
ふりがな / ままこせとうだい
標識名称 / 継子瀬灯台
所在地 / 長崎県新上五島町 ( 平串埼灯台の北北西約1.5キロメートル )
北緯 / 33-00-04.7
東経 / 129-06-27.8
塗色 / 白色
灯質 / 単閃白光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度560カンデラ
光達距離 / 8.0海里
地上~頂部の高さ / 8.91m
平均水面上~灯火の高さ / 17.35m 
地上~灯火の高さ / 8.45m
業務開始年月日 / 昭和56年2月24日
現用灯器 / LD管制器Ⅱ型


鹿児島市  「 平田正輔 と 薩摩義士の墓 」

2018-01-14 08:26:25 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )



『 鹿児島市城山の麓にある薩摩義士の墓 ( 一番上にあるのが平田正輔の墓石 ) 』






鶴丸城跡から城山へ向かって坂道を登って行くと
左側に平田正輔を中心とした薩摩義士の墓がある。

宝暦三年 ( 1753 ) 、幕府は薩摩藩主島津重年公に
美濃と尾張にまたがる木曽三川の治水普請を命じた。
濃尾平野を流れるこれら木曽川、長良川、揖斐川は
分流と合流を繰り返す入り組んだ地形であったため、
洪水による被害が多発していた。

薩藩は家老平田靱負正輔を総奉行とし、
総勢1000名もの人員を現地に派遣、
宝暦四~五年に掛けて治水工事を行った。
工事は困難を極めたが、完成した堤を検分した幕府役人は
唐にもこれ程の堰はないと賞賛したという。
しかし、幕府への抗議として自害した藩士と
病死した者も含め100名近い犠牲を出してしまったことと、
藩の決済を仰がず予算を上回る借金をした責任を取って、
平田正輔も故郷に帰ることなく美濃大牧で切腹した。

しかし、藩では幕府への配慮から、
これら自害者を 「 腰のものにて怪我して相果て候 」 として処理していた。
更に、100名もの犠牲者が出たにもかかわらず、
藩士達が幕府への悪意を募らせるのを防ぐために
藩内への公表を行わなかったようである。

島津家の正史である 「 島津国史 」 にも、この治水普請に関して、
幕府が副奉行の伊集院十蔵ら十三人に治水の功を授けたが、
平田正輔は旅先で死んだため授からなかったという
形式めいた記述しか残されていない。
そのため、薩摩人でさえこの事件を知っている者がほとんどいなかった。



身体検査  「 レントゲン と エコー と 内視鏡 」

2018-01-14 00:59:30 | 日記 ・ イベント



































手、足、肘の関節をレントゲンで、
肝臓はエコーで、
そして胃を内視鏡で検査した。
もちろん、血液検査も行った。

去年の9月ごろから痛かった右手親指の関節。
一時は箸が持てなくて左手で食べていた。
そして暮れから違和感があった右のアバラ付近。
「 そのうち治るやろう 」 と楽観的にとらえていたら、
治るどころか、痛みはアチコチに移動して、
毎朝の散歩始めは、普通に歩けないほど痛みが増して、
足の裏をつけないように左足だけカカトで歩いてた。
それでも歩いているとだんだん痛みが和らぐが、
散歩から帰ってしばらくするとまた痛みがブリ返す。
その繰り返しである。

昨年末、義父が亡くなったり、いろいろ慌ただしさにかまけて
延び延びにしていた検査だったが、
今年に入って5日に検査に行って来た。
その日のうちに検査結果が出ると思いきや、
「 12日に内視鏡で検査をしましょう 」 ということで、
また12日に病院に行って来た。
予約を取っていたので整形外科も内科も
あまり待たされなくて済んだのは何よりだった。

結果は、異状無しだったのでヒトマズ安心したが、
関節の痛みが取れないのは気がかりである。
血液検査でのリウマチはマイナスで陽性反応ではなかったが、
エヴァンゲリオンのような名前のガングリオンじゃないかと思う。

まぁ、スグとは言わないが、
桜の咲く頃までに痛みが無くなってほしいものである。