


表門突き当たりの城壁

城壁には西南戦争の砲弾跡が残る

主郭・本丸へと続く道
鹿児島城 ( 別名・鶴丸城 )は、
慶長7 ( 1602 ) 年に島津家第18代家久によって築城された
「 人をもって城と成す 」 という精神に基づいて造った
天守閣のない質素な屋形であった。
天然の要塞で、鶴が羽を広げているような地形から
鶴丸城と呼ばれるようになった。
集成館事業においては、
城内製錬所 ( 開物館 ) に反射炉のひな型が造られ、
反射炉の実験が着手された。
廃藩置県後、一時熊本鎮台の分営となっていたが、
明治6 ( 1873 ) 年に本丸焼失。
明治10 ( 1877 ) 年、西南戦争の際二の丸の殿舎も焼失。
その後、第七高等学校 ( のちの鹿児島大学 ) が置かれた。
現在は、県歴史資料センター 「 黎明館 」 が建てられていて、
鹿児島の歴史、民俗、美術、工芸などを分かりやすく知ることができる。