名護市屋我地島運天原の北西の岬にオランダ墓と呼ばれる墓があります。
運天原の船揚場から北に約300m波打際を歩くとセメントの階段があり、
そこを上がるとオランダ墓です。
オランダ ( ウランダ- ) とは、近世において西洋人を指した表現で、
葬られているのはオランダ人ではなくフランス人です。
墓は、大岩の下に北西に向けて亀甲墓風に造られ、
二基の墓碑 ( 各縦75㎝、横51㎝、厚さ8㎝ ) が置かれている。
※ ( 現在置かれているのはレプリカ ) 。
1946年6月6日、フランスの旗艦クレオパト-ル号、サビ-ヌ号、
ビクト-リアス号の3隻は運天港に入港し、交易等の交渉を求めました。
7月5日まで碇泊しましたが交渉を拒絶され、3隻は長崎に向けて出発しました。
その約1ヶ月の間にこの墓に眠る 「 方済各加略 」 と 「 亞各伯 」 は病気で亡くなり、
ここに手厚く葬られたのです。
「 方済各加略 」 はフランソワシャルル ( フランチェスコ・カール ) 、
「 亞各伯 」 はジャーク ( ヤコブ ) と読み、
当時の乗組員名簿からフランソワ・シャルル・ギタール ( 一等助銃工 ) と
ジャーク・シャリュス ( 二等水夫・料理人 ) の二人だということが分かっています。
墓碑は、ニ-ビ ( 砂岩 ) に立派な様式と文字で刻まれていて、
恐らく王府が関わった仕事ではないかと思われます。
この墓の管理は、間切時代には今帰仁間切の運天が行なっていましたが、
今帰仁村の役場が仲宗根に移ったので、
屋我地運天原の人々が管理することになりました。
碑文
右「 大彿朗西国戦船彿肋加特格肋阿巴特爾 老将貴大爾聖号方済各
加略之墓 救世一千八百四十六年儒安月二十日病故 」
左「 大彿朗西国戦船歌爾勿特未客多利阿斯 老将撒虜聖号亞各伯之
墓救世一千八百四十六年儒安月十一日病故 」
大沸朗西国=大フランス国、彿肋加特=フレガット ( フリゲート )、
格肋阿巴特爾=クレオパトール、歌爾勿特=コルベット、
未客多利阿斯=ビクトーリアス、老将=意味は不明、
貴大爾=ギタール ( キタール? ) 、撒虜=シャリュス ( サーリョ? ) 、
聖号=洗礼名、儒安=JUNE ( 6月 )