蛇がとぐろを巻いたように段々と螺旋になっている
今川の河川の片隅にポツンとある
「 蛇巻岩 」 は、福岡県赤村の山浦畑地区の今川にあり、
その昔、戸代城に小夜姫と呼ばれるきれいな姫がいた。
しかし、想いを寄せていた家臣に裏切られ城攻めにあい、
今川に身を投げて大蛇となり、
その大蛇が大岩に巻き付いたまま死んでいたという伝説からきている。
戸代山城跡は、平成筑豊鉄道油須原駅の北、
戸代山 ( 標高318m ) の頂上にある。
遠白山と称していたのが、戸代山と書くようになったと言われている。
本丸は、南北27m、東西18mほどの広さで、
中央に産霊大祖神社の祠がある。
本丸の南には東西62m、南国37mの広い平地があり、
ここが二の丸と言われている。
本丸の北東にかけて曲輪跡が続き、深い空堀と竪壕を配し、
石塁、畝状阻塞(連続竪壕群)、三重の空堀、土塁などを備えた
典型的な連郭式山城の姿を残している。
戸代山城は、延元4年・暦応2年(1339年)菊池武重によって築かれたと云われる。
南朝方の雄、菊池武重が豊前に攻め入り緒方氏を降して戸代山に城を築き、
肥後守武光を置いて守られたという。
応安3年(1370年)北朝方の畠山義深によって攻略され、
菊池氏は肥後へ退き、畠山氏の持城となったが、
応安5年(1398年)大内盛見によって畠山氏は滅ぼされ、
戸代山城は大内氏を追い落とした大友親泰の居城となった。
その後も大内氏、宇都宮氏(城井氏)、毛利氏によって争われたが、
天正年間(1573年~1592年)頃の城主は馬屋原左馬助元有であった。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐で元有は降伏を申し出たが許されず、
黒田孝高によって攻め落とされ、
その後の岩石城攻略時には、秀吉が戸代山城から観戦したという。
『 日本外史 』 には、岩石城をの戦況を望んだ秀吉が、蒲生氏郷の働きを賞し、
陣羽織を与えたと記してある。