被葬者:良成親王(後村上天皇皇子)
墓 名:良成親王墓(よしなりしんのうのはか)
墓 形:円墳
所在地:福岡県八女市矢部村北矢部
北矢部御側 ( おそば ) 集落にある大杣公園の良成親王陵墓。
良成親王は征西将軍の職を叔父の懐良親王 ( かねよししんのう ) から譲り受け、
南朝方の将軍として九州を守っていた。
しかし、中央における吉野南朝の衰退によって大勢は一変、
1372年に大宰府が陥落し、
良成親王も失意のうちに元中9年 ( 1392年 ) 、
ここ大杣の御所で35歳という若さで亡くなられた。
現在でも、命日である10月8日には
親王を偲ぶ 「 大杣公園祭 」 が催され、浦安の舞が奉納される。
なお、周辺の御側 ( おそば ) という地名は
親王の「 お側 」 に仕えた人々が、
親王亡 き後に住んでいたためといわれている。
良成親王(よしなりしんのう/ながなり )は、
南北朝時代から室町時代初期にかけての南朝の皇族。
近世の南朝系図によると、後村上天皇の第七皇子で、
母は越智家栄の女・冷泉局( 新待賢門院冷泉 )とされるが、
同時代史料には名が見えないため、親王の実在自体を疑う説は少なくない。
だが、征西将軍懐良親王( 後醍醐天皇皇子 )の跡を継承して
九州南軍を指揮した後征西将軍宮(のちのせいせいしょうぐんのみや)とは、
良成親王に比定されるのが旧来の通説であり、
他に有力な異説も見当たらないため(後述)、
本項では後征西将軍宮の事績を親王のそれとして記述する。